第五十六話:歪んだ怨恨の襲来
「佐藤くん、このデータ……やっぱりおかしい」
七月中旬。期末試験を目前に控え、一段と熱気の増した経済学部の講義室で、華が自らのコンパクト端末を睨みつけながら、俺のスーツの袖をきゅっと掴んだ。
「どうしたんだい、白雪さん」
「今朝から、ネット上のいくつかの投資掲示板や週刊誌のオンライン版に、私たちの会社に対する悪質な誹謗中傷が同時に書き込まれているの。佐藤蓮は学生の身分を利用して大沢会長に取り入り、不正な入札で国家プロジェクトを横取りした……って、かなり具体的なタイムラインを捏造して」
華が提示した画面のログを確認する。なるほど、事実無根のデータが、不自然なほどの速度で拡散されていた。情報の発信源を逆探知してみれば、案の定、大学の『国際経済サークル』のドメイン、そしてそこへアクセスしている藤堂の端末IPへと一瞬で突き当たった。
「外側からの揺さぶりだね」
俺は冷淡に呟いた。
「俺たちの社会的な信用を下げようとしようとしている。さらに、この記事の裏で動いている資本の動向を見てくれ。この動きと同調するように、売国奴の若手政治家たちが『佐藤代表の不透明な選定プロセスを国会で追及すべきだ』と野党へ進言している」
「そんな……っ。事実なんてどこにもないのに、政治の力で無理やりルールを書き換えようとしてるんだね」
華の瞳に、怒りと鋭い緊張の光が宿る。彼女はすでに、単なる一学生ではなく、会社の財務を守る最前線のパートナーとしてこの状況の危険性を正確に認識していた。
「でも、佐藤くん。この程度の工作で、大沢会長と私たちが構築した基幹システムが揺らぐと思っているなら、あの人たちは本当に市場の流動性を分かっていないよ。私、すでに大沢会長の法務・財務チームと同期させてあるの。いつでもこの風説の流布に対して、合法的かつ物理的な損害賠償請求を執行できるように」
「頼もしいよ、白雪さん。君が動いてくれているおかげで、俺もシステムの補強に動けている」
俺が本心からの信頼を告げると、華は少し照れくさそうに、けれど愛おしそうに俺の手を強く握り返した。
――だが、悪党どもの狂気は、電子の世界だけには留まらなかった。
その日の放課後。夕暮れ時の赤サビ色の光がキャンパスを染める頃、経済学部の裏手にある静かな駐輪場へ向かった俺たちの前に、待ち伏せていたかのように二つの「影」が姿を現した。
幽霊のように痩せこけ、血走った目で包丁のような鋭い殺気を放つ藤堂。そして、その背後で髪を振り乱し、怨念の塊のような目で見つめてくる高橋美咲だった。二人の手には、およそ大学生のキャンパスにはふさわしくない、鉄パイプと不審な液体のボトルが握られていた。
「見つけたぞ……佐藤蓮、白雪華ァ!!」
藤堂が擦り切れた声で狂ったように笑った。
「レイから言われたんだよ。お前たちのその小賢しい頭を物理的に破壊して、会社のアクセスログを奪ってくれば、俺を再び『共同経営者』として迎え入れてくれるってな!」
「死ね……! 死ねばいいのよあんたたちなんて!! なんで私だけがドブ底を這いずり回って、あんたたちだけが幸せそうにしてるのよぉぉぉ!!!」
美咲が絶叫し、ボトルから異臭を放つ液体――ガソリンをぶちまけながら、狂気に駆られて俺たちへと突っ込んできた。歪んだ怨恨が物理的な強行突破を仕掛けてきたのだ。
華が一瞬、息を呑んで俺の背中へと身を隠す。
だが、俺の瞳から完全に光が消えた。
「それは悪手だ」
俺は懐の端末のボタンを手動でワンプッシュした。
連中の悪意は、すでに数時間前から俺の監視網が完全に察知していた。この裏手の駐輪場に潜んでいた害虫どもを迎撃するため、俺の命令で駆動する「乾の組織」の戦闘班が、すでに周囲の影に控えていたのだ。
「――そこまでにしとけや、ドブネズミども」
漆黒の闇の中から、低く威圧的な声が響いた。
乾の手下である、黒塗りのスーツを着た大柄な男たちが、一分の隙もない動作で壁の影から一斉に溢れ出してきた。藤堂と美咲が驚愕に目を剥いた瞬間には、すでに乾の戦闘班が鋭い踏み込みで二人の懐へと踏み込んでていた。
「ぶふっ!?」
「きゃあぁぁっ!?」
ドン、と鈍い音が響き、藤堂の腹に強烈な拳が突き刺さる。鉄パイプがアスファルトの床に甲高い音を立てて転がり、美咲もまた、大男たちによって地面へと容赦なく組み伏せられ、泥水の中に顔を擦り付けられた。
「離せ! 離せよ! 俺はレイの……世界を股にかける経営者だぞ! お前らみたいな裏社会のゴミが触っていい人間じゃ――」
「やかましいわ。佐藤の坊ちゃんに手をかけようとした時点で、お前らの人生は終了してたんだよ」
黒スーツの男たちが冷酷に言い放ち、藤堂の顎を蹴り上げて完全に沈黙させた。
俺は地面に無様に這いつくばり、泥水にまみれて絶望の悲鳴を上げる藤堂と美咲を見下ろした。
「藤堂、高橋美咲。あんたたちの将来はこれで終了です」
俺がそう告げると、乾の戦闘班は音もなく二人を拘束し、裏手の黒塗りのワンボックスカーへと押し込んでいった。後に残されたのは、アスファルトに染み込んだガソリンの不快な臭いだけだった。
「佐藤くん……」
華が少し震える手で、俺のスーツの袖をきゅっと強く握りしめてきた。
「大丈夫だよ、白雪さん。何が有ろうと君には、指一本触れさせない」
俺は彼女の小さく温かい手を包み込み、優しくその緊張を解いていった。
レイは不要となった藤堂と美咲という壊れた猟犬たちを完全に使い潰し、次なる政治工作のフェーズへと移行しようとしている。奴との、この国の通信主権を賭けたインフラ戦争のタイムラインは、いよいよ日本の絶対権力者である大沢会長をも巻き込む、最終決戦へ収束しようとしていた。




