第五十五話:泥水の中の高橋美咲
七月に入り、キャンパスを包む空気はいよいよ本格的な夏の熱気を帯び始めている。だが、冷房の効いた経済学部の大会議室や六本木のオフィスにいる俺たちにとって、その熱さは遠い世界のノイズに過ぎなかった。
その日の放課後。俺と華は、翌週に控えた大沢会長のコンツェルンとの合同財務ミーティングの資料を印刷するため、大学の中央図書館に隣接する最新のマルチメディアセンターへ向かっていた。
「佐藤くん、この海外投資ファンドの資本構成のデータやっぱり不自然だよ。直近の三日間で国際経済サークル名義の口座に複数のペーパーカンパニーを経由して巨額の円転資金(日本円への換金)を入金されている形跡があるの」
華がスーツのポケットからコンパクトな端末を取り出し、印刷の待ち時間を利用して画面を俺に示してきた。
「あいがとう、白雪さん。レイが仕掛けている政治工作の軍資金だ。日本の若手官僚や政治家のバカ息子たちを接待し、次世代インフラ法案を外資有利に書き換えるための原資がこれというわけか」
「うん。でもこの資金の流動ログ、私が大沢会長のメインフレームと同期させてすでに金融庁の監査ルートに投下しておいたよ。不適切な不換紙幣の動きとして、いつでも警告を出せるようにね」
「完璧。白雪さんが市場ルールを完璧に把握してくれているおかげで、俺はシステムに集中できているよ」
俺が本心からの賞賛を伝えると、華はサクラ色の頬をふんわりと緩ませ、俺のスーツの袖をきゅっと握りしめた。経営者としての凄まじい進化を遂げながらも、俺の前で見せるこの無防備な愛おしさは、脳を狂わせるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「――おい、お前ら。早くその資料を運べよ。レイさんがお待ちだぞ」
ふいに、マルチメディアセンターの入り口の方から、横柄で品性のない声が響いた。
国際経済サークルのバッジをつけた、利権に群がる無能な上級生の一人が、誰かに向かって傲慢に顎で指示を出している。その指示の先にいた人物の姿が視界に入った瞬間、俺は衝撃を覚えた。
それは、大荷物の詰まった段ボール箱を両手で抱え、フラフラとした足取りで歩く、一人の女の姿だった。
着古されて染みがついた安物のブラウスに、ほつれたスカート。かつて高級クラブのVIPルームで、ブランド品を全身に纏って虚栄心の塊のような笑みを浮かべていた、あの面影はどこにもない。
酷く痩せこけ、髪はバサバサに荒れ果て、生気を完全に失った瞳でただ床を見つめているその女は――高橋美咲だった。
前世で俺を地獄へ突き落とし、今世でも藤堂と組んで俺たちを陥れようとして自滅し、すべてを失ったはずの女。彼女もまた藤堂と同じく、レイの惨めな「奴隷」として回収されていたのだ。
「す、すみません……っ。すぐに、すぐに会議室へ運びますから……っ」
美咲はカサカサにひび割れた声で平謝りを繰り返しながら、重い段ボールを落とさないように必死に抱え直していた。かつて男たちを顎で使い、他人の金を湯水のように使って優越感に浸っていた女が、今や大学のサークル棟で学生たちから人間以下の扱いを受ける雑用係へと完全に堕ちていた。
源さんの報告にもあった。レイは美咲を「おもちゃ」として囲い込み、その尊厳を徹底的に破壊して楽しんでいる。藤堂同様に彼女の持つ俺と華に対する歪んだ嫉妬と怨念を、レイは俺たちの動向を探るために利用しているに過ぎない。
「あ……」
ふいに、美咲の足が止まった。
段ボールの隙間から前方を覗き込んだ彼女の視線が、マルチメディアセンターの照明の下で俺と華の姿を、真っ正面から捉えたのだ。
時が止まったかのような静寂。
美咲の虚ろだった瞳が、一瞬にして狂気的な嫉妬と絶望のパケットで埋め尽くされていくのが分かった。
同じ十八歳。
片や、名実ともに日本の政財界の頂点に立ち、大沢会長の寵愛を一身に受けスーツ姿で並び立つ佐藤蓮と白雪華。
片や贅沢品をすべて剥ぎ取られドブ底に居る様な生活の中で、外資の令息に尊厳を切り売りして床を這いつくばる高橋美咲。
あまりにも圧倒的な、埋めようのない差という残酷な現実が、怒り、羞恥、焦燥、諦め――そう言った様々な感情を美咲の脳に発生させた。
「な、なんで……なんで、あんたたちが、ここにいるのよ……っ」
美咲の両腕がガタガタと激しく震え出す。抱えていた段ボール箱が床へと落ち、中の資料が無様に散らばった。
「佐藤、蓮……! 白雪、華……!! あんたたちのせいで、私の人生はめちゃくちゃになったのよ!! 高級マンションも、ブランド品も、私の完璧な未来も、全部あんたたちが奪ったのよ!!! なんであんたたちだけが、そんなに綺麗に笑っていられるのよォ!!! おかしいじゃない、そんなの絶対におかしいじゃないのよぉぉぉ!!!」
マルチメディアセンターの中に、美咲の狂気じみた悲鳴が響き渡る。周囲にいた学生たちが「うわ、何だあいつ……」「頭おかしいんじゃないの?」と、一斉に軽蔑の視線を向け、蜘蛛の子を散らすように距離を置き始めた。
俺は背後に華を隠しながら狂犬のように吠え立てる女へと、冷徹極まる眼光を向けた。
「言葉が不正確だよ、高橋美咲」
俺の声は、ロビーの空気を一瞬で凍りつかせる程低かった。
「あなたの人生が破滅したのは、俺たちのせいではない。あなたが身の程を弁えず、虚栄心を貪り続けた結果、因果応報によって自動的に排除された。ただそれだけの結果ですよ」
「違う!! 違う違う違う!!! 私は、私はこんなドブ底で終わる人間じゃないのよぉぉぉ!!!」
美咲は髪を掻きむしりながら、床に散らばった資料の山に爪を立てて発狂寸前になっていた。その姿は、憐れみを通り越して、ただただ醜悪な女そのものだった。
「そこまでにしなさい、家畜」
ふいに、ロビーの奥から、すべてを凍りつかせるような冷酷な声が響いた。
ゆっくりと歩み出てきたのは、まばゆい金髪を揺らし、氷の瞳で美咲を虫ケラのように見下ろす男――レイだった。
「レイ……っ、あ、あぁ……っ」
美咲はレイの姿を見た瞬間、さっきまでの狂気的な勢いはどこへやら、恐怖のあまりガタガタと全身を震わせ、床に這いつくばってレイの高級な革靴の前に額を擦り付けた。
「僕の居る大学でそんな悲鳴を吐き出さないでほしいな。君の役割は、僕の指示があるまで大人しく待機することだ。それ以上の余計なことを続けるなら、今すぐ肩代わりした莫大な借金を請求してもいいんだよ?」
「ひっ、あ、ごめんなさい、ごめんなさいレイ様……っ! 言う通りにします、何でもしますから、捨てないで、捨てないでぇ……っ!!」
レイの一言で、かつてあれほどプライドの高かった女が、完全に尊厳を破壊された家畜として床の泥水をすするようにして許しを請う。レイは美咲を一瞥もせず、ただ退屈そうに俺たちへと視線を向けた。
「見苦しいものを見せたね、佐藤蓮。だが、この壊れた物たちの狂気が共鳴した時、君たちの頑丈な防壁にどれほどの負荷がかかるか……。そろそろ遊ばせてもらうよ」
「どれだけ小細工を労そうと結果は同じだ。準備をして待っているといい、レイ」
俺は華の手を優しく、けれど絶対に離さないという強い力で握り締めながら、冷徹に微笑み返した。
床を這いつくばる美咲の絶望の悲鳴を背景に、日米の命運を賭けたインフラ戦争へのタイムラインが、いよいよ最悪の臨界点を迎えて駆動しようとしていた。




