第五十二話:夜のオフィスでの甘い時間
レイの本格的な日本侵略、そして「国際経済サークル」を隠れ蓑にした合法的な市場介入の画策――。源さんがもたらしたその不穏な情報は、確かにこれからの戦いが一筋縄ではいかないことを示していた。
だが、そんな中にあっても壊したくない日常があった。
六月中旬の、ある金曜日の夜。
梅雨の真っ只中にある東京は、夜に入っても厚い雨雲に覆われ、六本木のオフィスの大きな窓には、斜めに打ち付ける雨粒が絶え間なく流れていた。遠くに見える東京タワーの光も、今夜は湿った空気の向こうで心なしか煙って見える。
午後十一時を回ったオフィスは、驚くほど静まり返っていた。
事業拡大と共に雇い入れた社員たちは全員退社させており、広々としたフロアを照らしているのは、俺と華が並んで座るデスクの上のスタンドライトと、ノートパソコンの液晶画面から放たれる淡い光だけだった。カリカリ、と華がシャープペンシルを走らせる微かな音と、時折鳴るキーボードの打鍵音だけが、心地よい静寂の中に溶けていく。
「……ん。佐藤くん、この大沢コンツェルンの子会社との間で発生している、予備回線網のリース料の処理なんだけど」
ふいに、華が眼鏡のフレームを細い指先で押し上げながら、俺の方へと顔を向けてきた。
デスクの上のライトに照らされた彼女の横顔は、見惚れるほどに美しかった。艶やかな黒髪は後ろで一本のハーフアップにまとめられ、すっきりと出たうなじが白く繊細な光を放っている。チャコールグレーのスーツのジャケットは椅子の背もたれに掛けられており、今は白いブラウス一枚の姿だった。
「どうしたんだい、白雪さん」
「ええとね、このリース契約の特約事項に『接続障害時の免責プロトコル』が記載されているの。でも、これって経済学的なリスク管理の観点から見ると、大沢会長側に有利に偏りすぎている気がするんだよね。私たちがこれから進める『日本全土・次世代光回線網構築計画』の予算規模を考えると、万が一のシステムエラーが発生した際、私たちの会社が被る機会損失の補償割合を、もうあと二%だけ引き上げる提案した方がいいと思う。そうすれば、財務の保全性が完全に固定されると思うの」
華がノートの余白に綺麗に書き連ねた、企業財務のリスクヘッジに関する数式と論理の整合性。それを一目見た瞬間、俺は思わず感嘆の声を漏らした。
「……白雪さんは凄いね、他の人では到底気づかないと思うよ。正直に言って、俺の予測を超える素晴らしい着眼点だよ。これなら大沢会長のコンツェルンの財務担当者も、ぐうの音も出ずに書き換えに応じるはずだ」
「ふふ、やったぁ……! 佐藤くんにそこまで褒めてもらえるなんて、今までの居残り勉強の成果が出たみたいで、すごく嬉しいな」
華はホッとしたように小さく息を吐くと、知的な眼鏡をそっと外し、サクラ色の頬を緩めて微笑んだ。
その健気なまでの努力と、俺に向けられる真っ直ぐな信頼の光が心を甘く、激しく満たしていく。
「白雪さん、本当に無理をしていないかい? 大学の講義だけでも大変なのに、毎日こうして夜遅くまで会社の財務資料に対応するだけじゃなく、デジタルアートの対応までしてくれて……。俺としては、君が倒れてしまうのが一番の心配ごとだよ」
「無理なんてしてないよ。だってね、佐藤くん」
華はペンを置くと、椅子を少しだけ俺の方へと寄せた。
ブラウスの隙間から、彼女の体温を孕んだ匂いがふわりと漂い、俺の理性をわずかに揺さぶる。
「私、あの岩崎先輩の時、すごく実感したの。佐藤くんがどれだけ強い力で私を守ろうとしてくれているか。そして、これから戦うことになる『レイ』っていう人が、どれだけ危険な怪物なのか……。私は、ただ佐藤くんの後ろに隠れて、戦いが終わるのを待つだけの女の子にはなりたくないの。佐藤くんの右腕として、この会社の財務を世界一強固な場所にすることが、今の私の最大の原動力なんだもん。だから、全然苦じゃないよ」
そう語る華の瞳には、かつての弱さなど微塵もなかった。一人の凛とした女性経営者としての、そして俺の生涯のパートナーとしての、揺るぎない覚悟がそこに宿っていた。
愛おしさが、胸の中で限界まで膨れ上がっていくのを感じた。
普段どれほど冷静に振舞おうとしていても、彼女のこの健気な一言によって、一瞬で感情の波に飲み込まれる。
「華……」
感情に任せて彼女の背中に手をまわして抱き寄せると、僅かに小さく体を震わせた華だったが、それも一瞬のことで腕の中で静かに体を預けて来た。
「……佐藤くんの腕の中、本当にあったかいな……」
かすかな呼吸音と共に、華の頭が俺の胸元へとそっと預けられる。
彼女の頭の心地よい重み、ブラウス越しに伝わってくるドクドクと規則正しく打たれる小さな鼓動。そして、俺の袖を離すまいとするかのように、驚くほど強い力で握られている指先。
あの冬の図書室の夜と同じだ。
いや、あの頃よりもずっと大人びて、美しくなった彼女の体温が、ダイレクトに俺の感覚器官が支配されていく。
「華……これからもずっとそばに居てくれ」
「……うん」
誰もいない、静まり返った深夜のオフィス。窓の外の雨音だけが低く響く空間で、俺は自らの脳内の理性が、強烈な独占欲によってパチパチと音を立てて焼き切れていくのを自覚していた。
――守りたい。
――たとえこの先どんな困難が待っていたとしても。
腕の中の体温を感じると強くその思いがあふれてきて、俺は空いている左手を動かし、俺の袖を握りしめている華の小さな手を、上からそっと包み込むように握り直した。
彼女の指先は少しだけ冷えていて、でも、俺の手が重なると、安心したように微かにピクリと動いて、さらに俺の服を強く握り直してきた。その愛しい仕草に俺の口元から、自然と張り詰めたものがきえていく。
これから始まる、大学という名の戦場。レイという海の向こうの怪物が、どれほどの資本と未知のロジックを使って俺たちの未来をハッキングしようとしてこようが、関係ない。
俺の隣で、こんなにも健気に、こんなにも強く未来を信じて戦おうとしてくれている華がいる。
胸の中でこちらを見あげてくる華の、サクラ色の綺麗な横顔をじっと見つめながら、俺は心の中で、誰にも破ることのできない絶対的な誓いを、深く、深く刻み込むのだった。
窓の外では、夜の闇に紛れて、新しい時代の嵐が静かに吹き荒れようとしていた。




