第五十一話:共同経営者としての華
大沢会長が懸念していた通り、海の向こうの巨大資本による日本の通信市場への侵食は、水面下で確実にその深度を増していた。だが、俺たちの日常がそれに惑わされることはなかった。
六月の初頭。梅雨の気配を孕んだ湿った風がキャンパスの木々を揺らす中、俺と華は変わらず経済学部の講義室と、六本木のオフィスを行き来する超過密なスケジュールを消化していた。
特筆すべきは、華の圧倒的な『成長速度』だった。
「佐藤くん、この前の四半期決算のキャッシュフロー計算書なんだけど、投資活動によるキャッシュフローのマイナスが、次世代通信網の設備投資の割に、少し圧縮されすぎている気がするの」
放課後、六本木のオフィスの一角で、華が自らのノートパソコンの画面を指差しながら俺に声をかけてきた。
現在の彼女は、すっかり一人の「経営者」としての佇まいを身につけていた。髪を一本のハーフアップにまとめ、知的な眼鏡をかけ、真剣な瞳で企業の財務諸表を読み解くその姿は、大学に入学したばかりの十八歳の少女のものとは到底思えないほどの風格とオーラを放っている。
「どれくらい圧縮されているかい、白雪さん」
「ええとね、源さんがバックエンドの保全のために新しく発注した暗号化サーバーの原価が、大沢会長のコンツェルンを経由したおかげで、通常の市場価格の約三割引きで計上されているの。これは財務の保全性の観点から見れば非常に有利だけど、税務上の歪みを生まないように、大沢会長側のファンドとの間で別個で相殺しておいた方がいいと思うんだ」
「……驚いたな。そこまで財務の動向を正確に把握できるようになっているなんて」
俺が本心から感嘆の息を漏らすと、華は眼鏡の奥の瞳を少しだけ細め、誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに微笑んだ。
「ふふ、驚いた? 私、大学の講義だけじゃなくて、大沢会長のシンクタンクから送ってもらった過去の経営ログも、全部目を通したんだから。佐藤くんの足引っ張りたくない、右腕になりたいって口だけで言うのは簡単だけど、行動で示さなきゃ、本物の共同経営者とは言えないでしょ?」
彼女はそう言って、手元のブレンド茶を一口含んだ。
華がデジタルアートの世界的なトップイラストレーターとして、すでに多額の資産と名声を得ていることは誰もが知る事実だ。本来なら、その天才的な感性だけで、一生活躍していけるだけのポテンシャルがある。にもかかわらず、彼女は俺の隣に立つためだけに、全く未知の領域だった経済学や財務会計という、冷徹な数字の世界に自ら飛び込み、泥臭い努力を積み重ねてここまで来た。
彼女のそのひたむきな熱意と、俺に対する絶対的な信頼に強く報いたいと感じさせた。
「完璧だよ、白雪さん。君の言う通り、大沢会長のファンドとの相殺処理の仕様書を作成しよう。君が財務の総責任者として統治してくれれば、俺はシステム開発と、外資の連中と対抗する防壁の構築に一〇〇%の処理能力を割くことができるから本当に助かるよ」
「うん! 私に任せて。佐藤くんがどんなに大変でも、この会社の足元だけは、私が絶対に揺るがせないから」
華は力強く頷くと、再び画面に向き直り、滑らかな手付きでテンキーを叩き始めた。その横顔は美しさを残しながらも、一人の洗練された女性経営者としての輝きに満ち溢れていた。
「――お疲れさん、2人とも」
ガチャリとドアが開き、いつものように眠そうな目をこすりながら源さんが入ってきた。手には大量のプリントアウトされたログデータが握られている。
「源さん。サーバーの暗号化の進捗はどうですか?」
「蓮に言われた通り、二段階引き上げのパッチはコンパイル完了だ。これで国内の有象無象のハッカーじゃ、侵入どころかサーバーの入り口を見つけることすらできねえよ。……だが、問題はそこじゃねえ。蓮達が通う経済学部のキャンパス内で、ちょっと不穏な動きを感知した」
源さんは華のデスクの前にそのデータを置くと、表情を真剣なものへと切り替えた。
「大学の『国際経済サークル』ってのを知ってるか? 表向きは留学経験のあるエリート学生が集まる、単なる学術系のサークルだが……その実態は、日本の旧IT既得権益のバカ息子どもや、外資のロビイストと繋がっている官僚の子供や大学卒業した現役若手官僚の巣窟だ。そこに、例の『金髪の男』が正式に籍を置きやがった」
「レイ、ですね」
俺は冷淡に応じた。華のタイピングの手が、ピタリと止まる。
「ああ。奴は特待留学生としての圧倒的な権限を利用して、そのサークルの実権を一瞬で掌握したらしい。岩崎通信のバカ息子が消されたことで、学内のマウンティングのカーストに穴があいただろ? 奴はその隙間を埋めるように、日本の通信利権を海の向こうへ売り渡そうとする売国奴どもを、自分の家畜として囲い込み始めてる」
「浅はかですね。学内のサークル程度を統治したところで、俺たちの基幹システムを揺るがすことは不可能です」
「電子の世界だけならその通りさ、蓮。だがお前も知っての通り経済っていうのは、資本と政治のロジックが複雑に絡み合う場所だ。奴はそのサークルを足がかりに、日本の若手政治家の地盤を買い叩き、大沢会長が推進する国家プロジェクトの法案そのものを裏から書き換えようと画策している。つまり、合法的なルール変更を仕掛けてくるつもりだ」
「なるほど、市場のルールそのものを外資に有利なように変更する、というわけですか」
俺はフッと冷徹に微笑んだ。
「面白いですね。奴がどれだけ政治家や官僚のバカ息子を従えようが、この国の通信インフラの実利を握っているのは俺たちの会社です。どんなに不当な法案を通そうと画策しようが、マスターキーがこちらにある以上、奴らの目論見はご破算に終わります」
「佐藤くん……」
華が眼鏡を外し、心配そうに俺のスーツの袖をきゅっと握りしめてきた。その指先は少しだけ冷えていたが、瞳の奥にある意志の光は消えていない。
「大丈夫だよ、白雪さん。奴がどんなに卑劣な政治工作を仕掛けてこようが関係ない。君が守ってくれている財務基盤と、俺のシステムがあれば、どんな怪物が相手でも問題ないさ」
「うん……! レイがどれだけ強大な資本を持っていても、私たちが積み重ねてきた努力の成果は、絶対に奪わせない」
「頼もしいね、白雪さん。頼んだよ」
俺は彼女の小さく温かい手を、自分の大きな手で優しく、けれど絶対に離さないという強い力で握り返した。
窓の外では、六月の静かな雨が、東京の夜景を煙らせていた。
レイの本格的な侵略への開戦前夜。新世代を巻き込んだ、名実ともに世界規模のインフラ戦争への火ぶたが切られようとしていた。




