第五十話:動き始める時代
岩崎宗太がロビーの床に膝をつき、絶望に顔を歪めてから数日。
学内の空気は、一晩にして劇的に書き換えられていた。
国内最大手の一角だった『岩崎通信』の崩壊と、会長をはじめとする幹部らの電撃告訴。新聞の一面を飾ったその大ニュースの裏に、経済学部に籍を置く一年の佐藤蓮がいるという噂は、またたく間にキャンパス全土へと拡散していった。
すれ違う上級生たちが畏怖の混じった視線を送り、講義室に入れば周囲の席が自然とあく。
「……みんな、すごい見てくるね。佐藤くん」
五月半ばの爽やかな風が吹き抜ける中庭のテラス席。華が小さく苦笑しながら、手元の分厚い経済学の専門書から顔を上げた。
「気にする必要はないよ、白雪さん。彼らはただ、遠巻きに観測しているだけだ。それより、そのマクロ経済学のレポート、もう終わったのかい?」
「うん! 佐藤くんに教えてもらった市場流動性の数式を使ったら、すごく綺麗に繋がったよ。ほら、見て」
華が嬉しそうに差し出してきたノートには美しい文字と、的確な企業財務の分析が並んでいた。
彼女は本当に、驚くべき速度で成長している。入学前は大物政治家たちの前に緊張していた少女が、今では会社法や資本論を能動的に読み解き、俺の隣で『RS-HS』の経営戦略を共に語り合うレベルにまで達しつつあった。
デジタルアートという天賦の才能を持ちながら、俺の右腕になるために全くの未経験だった経済の荒波に自ら飛び込み、必死に泳ぎ切ろうとしている。その健気なまでの熱意と、俺に対する絶対的な信頼が、胸の奥を心地よく刺激する。
「完璧だ、白雪さん。この内容なら、教授も太鼓判を押すよ」
「ふふ、やったぁ! 佐藤くんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいな。じつはね、ノートをまとめている時、少しだけ不安だったの。私の解釈が間違っていて、佐藤くんの足引っ張っちゃったらどうしようって」
「そんなことは絶対にないよ。白雪さんの視野の広さは、俺のロジックを補強してくれる。自信を持っていいよ」
「ありがとう。でもその分、もっと頑張らなきゃって力が湧いてくるよ。ねえ、次の講義の前に、この企業の財務諸表の読み方について、もう少し詳しく教えてもらえる?」
「いいよ。ここの貸借対照表の流動資産の比率に注目してほしい。ここが、彼らの経営状態の健全性を示しているんだ」
俺がペンを取ってノートの余白に数式を書き加えると、華は身を乗り出すようにして、真剣な瞳で俺の指先を見つめた。
華はサクラ色の頬をさらに緩ませ、愛おしそうに俺のスーツの袖をきゅっと握りしめた。どんなに経営者としての知識を身につけても、俺の前で見せるこの無防備な可愛らしさは、あの冬の図書室の頃から何も変わっていない。
「――お熱いところ邪魔するぜ、お二人さん」
ふいに、テラスの影からヨレヨレのジャケットを羽織った源さんが現れた。その手には、大学の売店で買ってきたのであろう冷えたサイダーが握られている。
「源さん。大学の敷地内にくるとは、珍しいですね」
「いやなに、六本木のオフィスにこもってばかりだと頭が化石になりそうでな。お前らが青春キャンパスライフと経営学をどんな風に両立させてるか、ちょっと見物に来たのさ」
「からかわないでください、源さん。私たちは真面目に勉強してたんです」
華が顔を真っ赤にしてノートで顔を隠す。その様子を見て、源さんは楽しそうに笑いながら空いている椅子に腰掛けた。ボトルを開けながら、一瞬で技術責任者としての目付きに切り替わる。
「冗談はここまでだ。大沢会長から直々に、お前らに進捗の確認と『次の連絡』を預かってきたんだよ。蓮、お前が仕掛けた岩崎通信への一撃、あれは確かに見事だった。だがな、大きな蜂の巣を叩き潰したってことは、それだけ獰猛な蜂を刺激したってことでもあるんだ」
「岩崎の残党が動いた、ということですか」
「察しがいいな。あの岩崎通信の残党や、彼らから利権を回してもらっていた外資に魂を売った一部の売国奴政治家どもが、海の向こうの巨大資本――『レイ』の組織と完全にラインを繋ぎやがった」
源さんの口から飛び出したその名前に、華の身体がかすかに強張るのが分かった。一月の中旬、俺の防壁をわずか三分でこじ開けてみせた、あの金髪の天才留学生――それがレイだ。
「予想通りですね」
俺は冷淡に応じた。
「岩崎という国内の防壁が崩れた以上、奴らが海外のマザーシステムを頼るのは必然です。レイの背後にある外資のロビー団体は、岩崎通信の抜けた穴を買い叩き、そこを足がかりに日本の基幹通信網を裏から乗っ取る算段でしょう」
「その通りだ。大沢会長の情報網によると、すでに海外のいくつかの不審なペーパーカンパニーを経由して、国内の通信株の買い占めが始まっているらしい。表向きはただの投資に見えるが、その資金の源流を辿ると、すべてレイの父親が経営する巨大テック資本に行き着くんだよ」
「それは……とても危険な状態、ということだよね? 佐藤くん」
華が心配そうに俺の顔を見つめる。経済を学び始めた彼女だからこそ、外資による市場の独占がどれほど致命的な意味を持つのか、その解像度が高まっているのだろう。
「心配いらないよ、白雪さん。奴らの動きは、俺の想定しているシナリオの範疇を超えていない。源さん、その買い占めの進捗はどれくらいですか?」
「全体の約四%ってところだ。だが、奴らは大学っていう、合法的な社交場を利用して、さらに日本の若手政治家や官僚のバカ息子たちを籠絡しようとしている。学内のエリートが集まる特定のゼミやサークルに、レイ本人が本格的に動き出してくるのは時間の問題だ」
「関係ありませんよ。奴らがどれだけの外貨と未知のロジックを抱えていようが、この国の通信主権を握っているのは、俺と大沢会長です。学内でどれほど有象無象の味方を増やそうが、根源を書き換えることは誰にもできない」
俺はノートパソコンを開き、画面に表示された日本全土の次世代光回線網の設計図を見つめた。
既存の害虫をデリートした今、ここからが本番のインフラ戦争だ。レイという怪物を迎え撃つためのセキュリティプロトコルは、すでに脳内で構築を始めている。
「蓮がそう言うなら安心だがな。でも、油断はするなよ。大沢会長も『今回の敵は藤堂のような三流とは格が違う』と仰っていた。奴は電子の世界だけじゃなく、政治や資本の力を使って、文字通り物理的に俺たちの足元をすくいにかかってくるぞ」
「分かっています。源さんはオフィスに戻り、次世代インフラのサーバーの暗号化をさらに二段階引き上げてください。保全は任せます」
「了解だ。頼もしい総司令官殿のために、徹夜でパッチを当ててやるよ。じゃあな、お二人さん。講義に遅れるなよ」
源さんは炭酸飲料を飲み干すと、空のボトルを片手に、足早にテラスを去っていった。
残された俺たちの間に、一瞬の静寂が訪れる。五月の爽やかな木漏れ日が、華の横顔を美しく照らしていた。
「佐藤くん……」
華が不安を打ち消すように、俺の手の上に、自らの小さく温かい手をそっと重ねてきた。
「大丈夫だよ、白雪さん。君が一緒に守ってくれたこの会社も、俺たちの未来も、指一本触れさせない。仕掛けてくる悪党は、すべて淘汰してみせるから。白雪さんは、何も怖がる必要はないんだ」
「うん……! 怖がってないよ。私、佐藤くんの隣にいるって決めたんだもん。ただこれからは、ただ佐藤くんに守られているだけの私じゃないよ。もっと経済の仕組みを勉強して、会社の財務を完璧にして、佐藤くんが戦いに集中できるように、私がこの会社を、佐藤くんの盾になって支えるからね」
重ねられた華の指先から、確かな熱量と、揺るぎない覚悟が伝わってくる。彼女の瞳には、かつての弱さは微塵もなかった。俺の隣で共に戦うという、経営者としての強い意志がそこにはあった。
新時代の幕開け。名門大学のキャンパスを舞台に、前世の知識すら通用しない本物の怪物との、真の最終章へのカウントダウンが、静かに始まろうとしていた。




