第四十九話:大学内でのひと悶着
名門国立大学の経済学部に入学して数週間。
新しい学び舎での生活は、思いのほか穏やかに進んでいた。春の柔らかな日差しが新緑のキャンパスを照らし、講義室へ向かう学生たちの活気ある声が中庭に響き渡っている。
俺と華は、同じ経済学の講義を最前列で並んで受講し、放課後は六本木のオフィスに直行して会社の財務や次世代インフラ計画の仕様書を突き合わせるという、非常に充実した時間を過ごしていた。
華は俺の隣に座っているだけの存在にはなりたくないと、大学の経済マクロ理論や企業財務の講義に死に物狂いで食らいついていた。ノートを綺麗に整理し、自ら進んで海外の論文を翻訳して読み進めるその真摯な姿は、女性としての気品をさらに際立たせていた。
だからこそ、その静寂を乱すような浅はかな連中がいる事を再認識させられた。
それは、初夏の気配を感じるよく晴れた昼下がりのことだった。
経済学部の巨大な中央講義棟のロビー。華と二人で次の講義のために資料室へ向かおうとした時、前方を遮るようにして、数人の男たちがこちらへ歩み寄ってきた。
中心にいるのは、ブランド物の高級なスーツをこれ見よがしに着崩し、いかにも軽薄そうな男だった。
男の名前は、岩崎宗太。
先日、大沢会長主催のパーティーで俺が完膚なきまでに叩き潰し、国家プロジェクトから完全に排除した、あの旧既得権益企業『岩崎通信』の会長のバカ息子だった。彼は同じ経済学部の二年生であり、学内では大手企業の御曹司として、無能な取り巻きを引き連れて我が物顔で歩いていることで有名だった。
「おいおい、誰かと思えば、今噂の『佐藤代表』じゃないか」
岩崎宗太はポケットに両手を突っ込んだまま、下品な笑みを浮かべて俺たちの前に立ち塞がった。取り巻きの学生たちも、ニヤニヤと小馬鹿にしたような視線をこちらへ向けている。
「大学の中でも随分とチヤホヤされているみたいだが、少し調子に乗りすぎなんじゃないかね、成金のガキが。大沢会長の情けに縋り付いて、数千億の国家プロジェクトを横取りした詐欺師が、よくもまあ平然と経済学部の敷地を歩けたものだ」
ロビーを行き交う他の学生たちが、その不穏な空気に足を止め、遠巻きにこちらを伺い始める。
岩崎宗太の声は、わざと周囲に聞こえるように大きく、尊大だった。父親の会社が危機に瀕している原因が俺にあると知り、大学という自分のテリトリーで恥をかかせてやろうと、浅はかな頭でマウンティングを仕掛けてきたのだろう。
だが、俺の心をざわつかせたのは、彼のその歪んだ言葉ではなかった。
「……それにしても、隣にいるお嬢さんは、そんな成金にはもったいないほどの極上品だな」
岩崎宗太の濁った視線が、俺の隣に立つ華へと向けられた。
ワンピース姿の華の、細い腰のラインから、綺麗に整えられた黒髪までを、ねっとりと値踏みするように舐め回す不躾な視線。それは、先日のパーティーで彼の父親が見せた品性のなさを、そのままさらに低俗にしたような、悍ましい悪意に満ちていた。
「おい、白雪華さんだろ? 君が佐藤の会社で共同経営者を気取っていることは知っている。だが、ソイツと泥舟に乗っているのは時間の無駄だ。俺の親の会社は、この国の通信インフラのトップだ。俺の女になれば、将来の優秀な女性経営者としての確実な成功と、生きた経済のコネをいくらでも買い与えてやれるぜ?」
岩崎宗太が一歩踏み出し、華の白く細い手首を掴もうと、不躾に手を伸ばした。
その瞬間、俺の気持ちが爆発した。
俺が動くよりも早く、華が自ら岩崎宗太の手を鋭く振り払った。
「触らないでください、岩崎先輩」
華の声は、ロビーの冷たい空気の中に凛として響き渡った。
怯えや狼狽えは一切ない。彼女の瞳には、経済の道を志し、俺の隣に立つと決めた女性としての、強い光が宿っていた。
「御社の現状も把握されていないのに、よくそんな的外れなマウンティングができますね。岩崎通信が抱えている旧世代システムの限界、パケットのボトルネック、そして巨額の談合不正のログ……。大学の講義でも習いましたが、過去の既得権益にしがみつき、コンプライアンスを無視した企業がどの様な道を辿るか、その結末は明白です。御社はすでに、市場から淘汰されるだけの存在に過ぎません」
「な、何だと……!? 新入生の小娘が、知ったような口を!」
華の理路整然とした正論による痛烈なカウンターを受け、岩崎宗太の顔が一気に真っ赤に染まった。周囲の学生たちからも、「岩崎通信ってヤバいのか?」「あいつ、新入生の女の子に言い返されてるぞ」という、冷ややかな私語が漏れ始める。
「貴様ら……調子に乗るのも大概にしろよ! 学生の分際で、我が社を潰せるわけが――」
「潰せますよ、岩崎先輩。今、この瞬間にでも」
俺は一歩前に踏み出し、華を自らの背後へと完璧に庇いながら、岩崎宗太を底冷えするような瞳で見下ろした。
俺の手元には、すでに起動されたノートパソコンがあった。大学のフリーWi-Fiを経由し、俺の構築した『RS-HS』のセキュリティルートが、事前に大沢会長から委託されていた「国家直轄の監査アカウント」と一瞬で同期を完了していた。
「な、何をするつもりだ……。ハッタリを張るな!」
「ハッタリかどうか、貴方のお父さんの会社の状況を確認してみれば分かります」
俺の指先が、流れるような速度でキーボードを叩き、一つの実行コマンドを確定させた。
それは、岩崎通信がこれまで数々の国家プロジェクトで行ってきた、巨額の談合、および政治家への不透明な資金調達の証拠を、政府の最高査察機関、および主要な大手メディアへリアルタイムで一斉に告発する、内容だった。
「これで、御社の信頼は地に落ちました」
俺が冷酷に言い放った、まさにその瞬間だった。
静まり返ったロビーに、岩崎宗太のポケットの中から、けたたましい着信音が鳴り響いた。
ディスプレイに表示されたのは、彼の父親であり、あの哀れな老人である岩崎会長からのものだった。
「お、親父……? もしもし、どうしたんだよ、今大学で――」
『宗太!! お前、まさか佐藤代表に何かしたのか!?』
受話口から漏れ出たのは、正気を失ったような、父親の絶望的な悲鳴だった。そのあまりの音量に、周囲の学生たちも息を呑む。
『今、我が社に東京地検特捜部と公正取引委員会から連絡が入った!! それだけじゃない、主要メディアに我が社の談合の証拠データがすべて流出して、株価の低下が止まらない!! こんな事出来るのはあの男しかいない!!』
「え……? あ、ありえない、そんな、馬鹿な……っ」
『あの男だけは……敵に回してはだめだったんだ……』
携帯電話の手が、ガタガタと大きく震え始める。岩崎宗太の顔から、一瞬にして血の気が引き、土気色へと変わっていく。
取り巻きの学生たちも、そのあまりの規模の大きさに恐怖し、岩崎宗太から距離を置くように、一歩、また一歩と後退していった。
「嘘だ……嘘だろ、佐藤……! お前、一体どんな裏技を――」
「裏技ではありません。これが、俺の実力です」
俺はノートパソコンを静かに閉じ、目の前で絶望に顔を歪め、膝から床へと崩れ落ちていく男を、一片の慈悲もなく見下ろした。
「俺の最も大切な聖域に、その汚い手を伸ばそうとした。その代償が、あなた達の代償です。お分かりいただけましたか?」
ロビーの全校生徒が、息を呑んで俺たちの姿を凝視していた。
大学という新しいカーストステージであっても、俺たちの実力と権力は、他を寄せ付けない圧倒的な最高位に君臨しているのだという冷徹な現実を、今この瞬間に完璧に証明してみせたのだ。
「行こうか、白雪さん。次の経済学の講義が始まる」
「うん! 行こう、佐藤くん」
華は嬉しそうに微笑むと、床に這いつくばる哀れな元御曹司には一瞥もくれず、俺のスーツの袖をきゅっと強く、愛おしそうに握りしめた。




