第四十八話:社交界における害虫
そんな挨拶の列も一段落した頃、一人の老人が、数人の取り巻きの役員たちを従えて威圧的に近づいてきた。
男の名は、岩崎。国内最大の通信インフラを牛耳る、通信系の既得権益企業のトップであり、日本の通信界のボスとして長年君臨してきた男だった。大沢会長の手前、表面上は薄汚い笑みを浮かべているが、その腹の底には俺たちに対する明確な侮蔑と嫉妬が透けて見えていた。
「いやはや、大沢会長から直々に指名されるとは、実に大した若者だ。佐藤代表と言ったかね? だが、数千億円規模の『日本全土・次世代光回線網構築計画』とは、いくらなんでも大風呂敷が過ぎるのではないかね」
岩崎はわざとらしく周囲に聞こえるような大声で言い放ち、手にしたグラスを傾けた。取り巻きの役員たちも、主人の言葉に同調するようにクスクスと鼻で笑う。
「理論と実務は違うのだよ、お坊ちゃん。学生がノートパソコンの上で描いた青写真を、そのまま国家プロジェクトに適用されては我が国の損失だ。我が社のように、何十年もこの国の回線を物理的に支えてきた実績と泥臭い経験がなければ、インフラの維持など到底不可能なのだよ。まずは大学で大人しく講義でも受けてから、我が社に頭を下げて学びに来るのが順序というものじゃないかね?」
「それは随分と、丁寧なご忠告をありがとうございます、岩崎会長」
俺は表情一つ変えず、ただ冷淡に言葉を返した。その態度が気に入らなかったのか、岩崎はフンと鼻を鳴らし、さらに言葉を重ねてくる。
「分かっているなら、今すぐ大沢会長に『自分には荷が重すぎました』と辞退を申し出ることだな。君のような若い芽をここで摘みたくはないが、国家のインフラは子供のプログラミング発表会とは訳が違う。おい、そこのお嬢さんもそう思うだろう?」
岩崎の濁った視線が、俺の隣に立つ華へと向けられた。ねっとりとした、品性のない視線。華は一瞬だけ身を硬くしたが、すぐに俺のスーツの袖をきゅっと掴み、まっすぐ岩崎を見据え返した。
「いいえ、私はそうは思いません、岩崎会長」
華の声は、思った以上に凛としていた。
「私は春から佐藤くんと共にこの会社を経営していくために学びます。知識や経験はまだ未熟ですが、佐藤くんの描く未来は、決してただの絵空事ではありません。過去の実績だけに頼って未来の可能性を否定するのは、経営の観点から見ても大きな機会損失なのではないでしょうか」
「ほう……。若くて可愛いお嬢さんだと思えば、ずいぶんと生意気な口を叩く。大学に入ったくらいで、この私に経営を語るつもりかね? 百年早いと言わざるを得ん。佐藤代表、君もこんな飾りのような娘を連れ回して、おままごとの延長で数千億を動かせると思っているなら、本当に世間を舐めすぎだ」
岩崎のそんな嘲笑に、周囲にいた政治家や官僚たちの視線が、再び様子見のそれへと変わる。誰もが俺たちの反応を伺い、18歳のガキがどう狼狽えるかを楽しもうとする空気すら漂い始めた。
隣で華が、悔しそうにドレスの裾を少し強く握りしめるのが分かった。俺は彼女を安心させるように、その小さな肩を優しく引き寄せると、表情一つ変えずに岩崎を冷酷に見据え返した。
「……実績、ですか。岩崎会長、御社が過去十年間、既得権益にあぐらをかいて放置してきた致命的な問題の数々を、実績と呼ばれているのなら、それは随分と滑稽な冗談ですね」
俺の声に、岩崎の笑みがピキリと凍りついた。岩崎の背後に控えていた役員たちが、不快そうに眉をひそめる。
「なんだと……? 口を慎みたまえ、若造が! 我が社がどれほどの苦労をしてこの国の回線を維持してきたか、何も知らない癖に!」
「何も知らないのは、岩崎会長、あなたの方です」
「何だと!?」
「御社が管理している基幹サーバーの稼働ログ、およびパケットの処理データを、昨日こちらで少し拝見させていただきました」
俺は懐から、先ほどまで源さんと確認していた小型のデジタル端末をスッと取り出し、岩崎の目の前に突きつけた。そこには、一般の人間では決してアクセスできない、その通信会社の内部構造のデータが正確に弾き出されていた。
「な、なんだこれは……。我が社のネットワークログだと? 馬鹿な、そんなものを外部から確認できるはずが――」
「御社の情報は私からすれば、透明な壁の奥を覗くようなものです」
青ざめる岩崎を無視して、俺は淡々と画面のデータを指し示した。
「現在、御社が日本全土に張り巡らせている旧世代の回線網は、すでに限界を迎えています。特に二〇〇〇年代に入り、デジタルデータの大容量化が進む中で、御社のシステムはパケットのボトルネックを日常的に発生させている。さらに、迫り来る海外からの脅威への対応も遅れに遅れている。このまま数年後を迎えた瞬間、御社の回線を利用している官公庁や金融機関のシステムがどれほど麻痺するか、その正確な損失予測の数値がこれです」
画面に表示された、天文学的な損失予測の赤文字データ。それを見た岩崎と取り巻きの役員たちの顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「な、なぜ我が社のここをここまで……! そんなものはただの脅しだ! どこかの悪質なハッカーが作った偽造データに決まっている!」
「脅しではありません、これが現実です。御社の技術責任者にこの画面を見せれば、一秒で本物だと理解するでしょうね」
俺は完全に言葉を失った岩崎を見下ろし、冷徹に言い放った。
「御社が過去の栄光にしがみつき、数千億の予算を天下り役員の報酬や無駄な利権に溶かしている間に、世界の通信速度は数倍、数十倍の速度で進化している。俺が提示した【RS-HS】ベースの次世代インフラ網は、御社の旧システムが抱える問題を根こそぎ駆除し、通信速度を一気に数百倍へ引き上げるものです。泥臭い経験などという曖昧な精神論で、国家の未来を遅らせるのはやめていただきたい。それとも、この損失が出た際、岩崎会長、あなたが私財を投げ打って全額補償してくださるのですか?」
「き、貴様……っ!! 18歳の小僧が、調子に乗るのも大概にしろ!」
激昂し、顔を真っ赤にして掴みかかろうとする岩崎。その異様な殺気に、周囲の政治家たちが小さく悲鳴を上げる。だが、その背後から、地鳴りのような鋭い声が響いた。
「そこまでにしなさい、岩崎くん」
いつの間にか、大沢会長が俺たちのすぐ後ろに立っていた。その眼光は、岩崎たちを完全に「用済み」と判断した、底冷えするような冷たさを孕んでいた。大沢会長の背後には、黒塗りのスーツを着た無口なSPたちが、一分の隙もない動作で控えている。
「佐藤くんの言う通りだ。君たちの会社がこれ以上、我が国の通信主権の足を引っ張るというのなら、次世代の計画から御社をすべて排除しても構わんのだよ? 今夜、彼らに恥をかかせようとしたその不遜な態度、私に対する反逆と受け取ってもいいのだね?」
「お、大沢会長……っ!? 滅相もございません! 私は、ただ、この国のインフラの未来を憂うあまり、少々熱くなってしまい……!」
岩崎はまるで蛇に睨まれた蛙のように震え上がり、さっきまでの傲慢な態度は霧散して、ただペコペコと何度も頭を下げるだけの哀れな老人に成り下がった。その額からは、滝のような冷や汗が流れ落ちている。
「君が憂うべきは、国家の未来ではなく、自分たちの保身だろう。佐藤くんの出す提案は、私にとっても非常に心地のいいものだ。彼らの邪魔をする者は、たとえ長年の付き合いがある君であっても、私は容赦せんよ」
「は、はい……! 重々、承知いたしました……!」
周囲の重鎮たちも、圧倒的な先見性とデータ、そして大沢会長の絶対的な寵愛を目の当たりにし、二度と俺たちを「ただの18歳のガキ」として見ることはできなくなった。誰もが恐怖と畏怖を込めて、俺と、俺の隣で凛と佇む華の姿を凝視している。
「終わりでよろしいですね、岩崎会長。では、お引き取りを」
俺がそう告げると、岩崎たちは蜘蛛の子を散らすように、惨めにその場から逃げ出していった。
「ふぅ……すごかったね、佐藤くん。私、横で聞いていて、心臓がバクバクしちゃった」
華が少し興奮した様子で、俺のスーツの袖をきゅっと掴んだ。その瞳には、前向きな光が強く宿っていた。
「白雪さんが最初に毅然と言い返してくれたからだよ」
「本当に? 私、少しは役に立てたかな……?」
「少しじゃない。最高のパートナーだよ」
俺がそう言うと、華は嬉しそうに、でも少し照れくさそうに顔を赤らめた。
「おいおい、オレのことを忘れないでくれよ」
グラスを片手に持った源さんが、やれやれと首を振りながら戻ってきた。
「源さん、見ていたなら助けてくれても良かったじゃないですか」
「ハハ、冗談言うなよ蓮。お前一人で完全にオーバーキルしてたろ? 俺が出る幕なんてどこにもなかったさ。それにしても、大沢会長のあの岩崎への冷たい目、傑作だったな。これで旧世代の利権屋どもも、しばらくは大人しくなるだろうぜ」
「そうだといいですが……。大沢会長が仰った通り、光が大きくなれば、それに群がる害虫も増えます。これからは国内だけでなく、海外の動向にも目を光らせておく必要がありますね」
俺は端末の画面を消し、懐へと収めた。
大沢会長という最高権力者のバックアップを得た今、俺たちの進むべきルートは完全に固定されていた。




