第四十五話:サクラサク、新世紀のキャンパス
三月の上旬。
長かった冬の厳しさがようやく和らぎ、春の柔らかな日差しが都心の街並みを優しく照らし始める季節。
俺と白雪さんは、国内最高峰と称される国立大学のキャンパスに立っていた。歴史を感じさせる重厚な赤レンガの建物や、青々と茂る常緑樹の合間を縫って、言葉にできないほどの熱気と緊張感が敷地内を支配している。
今日は、合格発表当日だった。
白雪さんは様々な推薦を蹴って、俺と同じ場所で、同じ景色を見るために、経済学部の一般入試の学科試験を並んで受験した。すべては、この日のために積み重ねてきた時間だった。
キャンパスの中庭に進むと、巨大な木製の掲示板が何枚も並び、その前には文字通り黒山の人だかりができていた。受験生たちの張り詰めた視線が白い紙に集まり、あちこちから悲喜こもごもの声が上がっている。抱き合って涙を流す者、無言で肩を落として人混みを去っていく者。
そんな喧騒の中にあっても、俺の足取りは、どこまでも静かで、少しの乱れもなかった。
「……行こうか、白雪さん」
俺はいつもと変わらない声で隣を歩く彼女を促した。その綺麗な瞳には、隠しきれない不安と緊張の色が浮かんでいる。日頃、絵を描くときに見せる大人びた表情とは違い、今は一人の一八歳の少女として、張り詰めたタイムラインの結末を待っているようだった。
俺たちは人混みの隙間を縫うようにして、経済学部の受験番号が張り出された掲示板の前へと進んだ。
白雪さんの手のひらが、心なしか小さく震えているのが分かる。イラストレーターとしての仕事と並行しながら受験勉強をしてきた彼女が、どれほどの努力をしてここまで来たかを知っているからこそ、俺はその震えを止めてやりたかった。
「白雪さん、あそこだ」
俺は、自分の指先で掲示板の一角を指し示した。
白い紙に印字された数字の羅列が、俺の視界に飛び込んでくる。
『経済学部:第一〇四二号』――俺の受験番号だ。
そして、そのすぐ下に、彼女の番号が寸分の狂いもなく綺麗に並んで刻まれていた。
『経済学部:第一二四三号』
その瞬間、白雪さんの目から大粒の涙がじわっと溢れ出した。
張り詰めていたすべての緊張が解け、胸の奥から数え切れないほどの感情が溢れ出しているのが見て取れた。これまでのすべての苦労が、この二つの並んだ数字によって、完璧に報われたのだ。
「佐藤くん……! あった、あったよ……!」
「ああ、そうだね。一文字の誤差もなく、僕たちの番号だ」
俺はいつものように冷静に微笑んでいたけれど、胸の奥には確かに、これまで感じたことのない温かい達成感が満ちていた。
白雪さんはもう、周囲の目なんて気にする心の余裕はなかったのだろう。一歩前に踏み出すと、人目をはばかることもなく、俺の胸へと力いっぱい飛び込んできた。
「わっ……白雪さん?」
「よかった……本当に、本当によかった……っ! また、春からも佐藤くんの隣にいられるんだね……っ!」
俺の学ランの胸元に顔を埋め、涙をポロポロと流しながら、彼女は俺の袖をきゅっと強く握りしめた。
突然のことに一瞬だけ身体を硬くしたけれど、すぐに深く息を吐くと、俺はその小さな頭を、大きな手で愛おしそうに、そして優しく包み込むように撫でてやった。
「当たり前だよ、白雪さん。君がどれだけ努力してきたか、一番近くで見ていたのは僕だ。この結果は、君自身の実力がもたらした必然だよ。おめでとう」
「うん……! ありがとう、佐藤くん……!」
腕の中に収まる彼女の心地いい体温と、セーラー服から微かに香るサクラのような匂いに、俺はこの上ない胸の高鳴りを感じていた。これからのこの最高峰のキャンパスで、俺たちはもっと自由に、彼女の才能を世界へと羽ばたかせていける。そんな完璧な未来の設計図が、頭の中に鮮明に広がっていくようだった。
けれど、その甘く完璧な平穏は、唐突に現れた一つのノイズによって、一瞬で冷たく塗り替えられることになる。
「――素晴らしいね。新時代のサクラサク瞬間に、感動的な再会劇。これからはヨロシク頼むよ」
人混みのざわめきを切り裂くようにして、流暢ながらもどこか異質な、ひどく冷徹な日本語が響いた。
俺は白雪さんを背後に庇うように一歩前に踏み出し、声のした方を鋭く見つめた。
周囲の受験生たちが、その圧倒的な存在感に自然と道をあけていく中、一人の青年がこちらに向かって優雅な足取りで歩いてきていた。
高級な黒のロングコートを風に揺らし、金色の髪を春の日差しに輝かせた、彫刻のように整った容姿。
色素の薄い、氷のように冷たい瞳。
――一月の中旬、あの研究発表会のブースで、俺の作った臨時の防壁をわずか三分で両断した男だった。
俺の背中で、白雪さんの身体が小さく強張るのが伝わってきた。俺は彼女の手をしっかりと握り直し、正面の男を冷酷に見据え返した。
「……わざわざ日本の大学の合格発表にまでくるとは物好きなことですね」
俺の声は、さっきまで白雪さんに向けていた温かさが嘘のように、極低温のトーンへと切り替わっていた。
「物好き? まさか。僕はただ、僕の新しいコレクションとなる君たちが、無事にこのステージへ上がってこられるかどうか、そのプロセスを観測しに来ただけさ。もしここで脱落するようなら、僕がわざわざ日本へ来る意味もなくなってしまうからね」
レイは不敵に口元を融かすと、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、俺たちの受験番号を退屈そうに見上げた。
「藤堂のような無能な犬は、僕の手を煩わせるまでもなく綺麗に消されたようだけど……まあ、あれは最初から使い捨ての駒に過ぎない。本番は、ここから始まるゲームだ」
男の瞳が、俺の背後にいる白雪さんを、値踏みするようにねっとりと射抜いた。その視線に、俺の脳内が強烈な不快感のアラートを鳴らす。
「君が構築した国家インフラ【RS-HS】のマスターキー。そして、君の隣にいるアートの女神、白雪華。そのすべてを僕の奴隷として書き換えるための準備は、すでに終わっている。来年からこのキャンパスが僕たちの戦場になる。楽しみにしているよ、佐藤蓮」
男はそれだけを言い残すと、驚愕する周囲の受験生を完全に無視して、優雅に、そして傲慢に向こうへと去っていった。
去りゆく黒いコートの背中を見つめながら、白雪さんは青ざめた顔で俺の学ランの袖をきゅっと握りしめていた。
藤堂という過去の因縁を振り払った安堵の裏で、前世の知識すら通用しない本物の怪物が、すでに深く根を張っていた……だが、そんな事はどうだっていい。
「……大丈夫だよ、白雪さん」
俺は振り返ると、彼女の震える手を、自分の大きな手で包み込むように強く、優しく握り直した。俺の瞳には、一切の揺らぎのない静寂が戻っていた。
「奴がどれだけの資本と未知のロジックを抱えていようが、関係ない。大学生活が始まるまでに、俺のシステムを世界の頂点へアップデートする。俺たちの未来には、指一本触れさせないよ」
春の柔らかな光が降り注ぐキャンパスで、俺の言葉に、白雪さんはようやく安心したように小さくコクリと頷いた。
新しい時代の幕開け。俺たちの前に、前世の因縁を超えた、真の最終章へのゴングが、今まさに静かに鳴らされようとしていた。




