第四十四.五話:冬の図書室の例外(華視点)
放課後の図書室は、驚くほど静かだった。
大きな窓の向こうには、冬の終わりの、どこか寂しげな夕暮れが広がっている。茜色から深い群青色へと移り変わるグラデーションが、静まり返った室内を静かに満たしていく。学校に残っている生徒もまばらな時間帯、暖房の微かな稼働音だけが低く響く室内の特等席に、私と佐藤くんは並んで座っていた。
佐藤君と共に過ごした3年間の高校生活で様々なことが有ったけれど、今お互いに目指しているのは、国内最高峰と言われる国立大学。
美咲さん達が消えてそれまでの騒がしさが嘘のように平穏な日常が戻ってきたけれど、私たちの前にある「受験」という現実は、少しずつその輪郭を厳しくしていった。模試の判定がどれほど良くても、周囲の受験生たちのピリピリとした空気や、廊下ですれ違う先生たちの張り詰めた表情が、嫌でも季節の進みを感じさせる。
カリカリ、と佐藤くんのシャーペンが滑らかな音を立てて解答を紡いでいく。
横顔を盗み見てみると、彼の切れ上がった瞳はどこまでも冷静で、ブレがない。2年生になって以降ずっと全国模試で常にトップを維持し続ける彼の頭脳からすれば、目の前にある難問すら、ただの通過点に過ぎないのだろう。彼の細い指先が、流れるような速度で数式を整理していく様子は、まるで最初から答えを知っているかのように迷いがなかった。
「……白雪さん、そこ、符号が違っているよ」
急に声をかけられて、心臓が跳ねた。佐藤くんは手元を動かしたまま、私のノートのミスを正確に指差している。見られていないと思っていたのに、彼はいつだって、私のことをすべて見透かしているみたいだ。
「あ、本当だ……。うっかりしてた、ありがとう」
「焦らなくていい。君の実力なら、普通に解けば間違えるはずのない問題だ。少し肩の力が入りすぎてるよ」
淡々とした、けれど私の力を全く疑わないその声に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
佐藤くんはいつもそうだ。私が自分の実力に不安を感じたり、焦りで視野が狭くなったりしそうになると、何も言わずに、ただ絶対的な安心感をくれる。彼が隣にいてくれるだけで、目の前の難解な問題集も、超えるべき壁ではなく、ただの階段のように思えてくるから不思議だ。
私は彼が淹れてくれた、少しぬるめの緑茶の水筒を受け取り、一口含んだ。喉を通る温かさと、爽やかな茶葉の香りに、張り詰めていた肩の力がゆっくりと抜けていく。
「佐藤くんは、本当に緊張しないんだね」
「そんなことはないよ。ただ、準備を完璧に整えておけば、本番で揺らぐ要素は最小限に抑えられる。白雪さんがこれまで積み重ねてきた努力も、それと同じだ」
「そうだといいんだけど……。でも、佐藤くんにそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」
彼と同じ大学に行きたい。
今の私の原動力は、ただその一心だった。デジタルアートの世界で少しずつ名前を知られるようになり、企業から仕事のオファーが届くようになっても、佐藤くんの隣に立つためには、私自身の力でこの学業の壁を越えなければならない。彼が当たり前のように目指す最高峰の舞台に、私も自分の足で立ちたい。そう思うと、手元の問題集が、彼と私を繋ぐ大切な約束の場所のように思えた。
けれど、温かい室内と、大好きな人がすぐ隣にいるという強烈な安心感のせいか、急に重い眠気が襲ってきた。
昨夜も遅くまでイラストの構成と受験勉強を並行していたツケが、ここに来て一気に回ってきたのかもしれない。ノートの文字がかすんで、まぶたが鉛のように重くなる。耐えようと何度も瞬きをして、シャーペンを強く握り直したけれど、とうとう限界を迎えてしまった。
「……すこし、休憩するといい。無理をしても効率が落ちるだけだから」
佐藤くんの優しい声が耳の奥で心地よくほどけたのを最後に、私の意識はゆっくりと深い眠りの中へと沈んでいった。
・・・
・・
・
――どれくらい眠ってしまっていたのだろう。
ふと目が覚めると、視界はさらに薄暗くなっていた。図書室の蛍光灯はいつの間にか消されていて、窓の外から差し込む月光と、遠くの街灯の明かりだけが室内を淡く照らしている。
起き上がろうとして、自分の頭に、何か温かくて心地いい重みが触れていることに気がついた。それに、身体を自由に動かすことができない。
「……えっ」
声になり損ねた息が漏れる。
私は、佐藤くんの肩にしっかりと頭を預ける形で眠っていた。それだけじゃない。彼の手が、私のセーラー服の袖を、まるでこぼれ落ちる大切なものを必死に引き留めるかのように、きゅっと優しく、けれど驚くほど強く握りしめていたのだ。
いつもの冷静沈着で、何事にも動じない佐藤くんからは想像もつかない、どこか必死さを孕んだその力加減に、胸が締め付けられるように切なくなる。
あの研究発表会の日、金髪の留学生が残していった、不気味な書き置きのことが、唐突に頭をよぎった。
佐藤くんはあの時、私の前で「大丈夫だ」と言って、何でもないことのようにあの不快な文字を消し去ってくれた。私の前ではいつだって、完璧なヒーローでいてくれた。
けれど、彼の背負う世界の大きさを私は彼のこの手の強さから感じ取っていた。
佐藤くん。あなたはいつも私を最優先で守ってくれるけれど、私を失うことを、なんでそんなに怖がってくれているの……?
私を隣に置いておくために、どれほどの覚悟を感じているの……?
普段は決して他人に見せない、彼の心の奥底にある「弱さ」や「孤独」のようなものに触れた気がして、愛おしさが胸の中で限界まで膨れ上がっていく。彼にとって、私はただ守られるだけの存在でありたくない。彼の重荷を少しでも分けてもらえるような、本当のパートナーになりたいと、強く思った。
佐藤くんを起こさないようにそっと息を潜めながら、私は握られたままの自分の袖に、もう片方の手をそっと重ねた。彼の長い指先は少し冷えていて、でも、脈打つ鼓動は確かに温かかった。
窓の外では、冬の冷たい夜の闇が完全に世界を包み込んでいた。遠くで新世紀を告げる街の灯りがきらめいている。
どんな未来が待っていても、どんな強い敵が私たちの前に立ち塞がっても、私は絶対にあなたの隣を離れない。静まり返った冬の図書室で、私はまだ眠りの中にいる彼の綺麗な横顔を見つめながら、心の中で何度も、何度も、祈るようにそう誓っていた。
「……ん」
かすかに佐藤くんの眉が動き、彼の手の力がわずかに緩んだ。私は慌てて重ねていた手を引き、何事もなかったかのように彼の肩から頭を離した。
「起きたかい、白雪さん」
ゆっくりと目を開けた佐藤くんは、いつもの、どこまでも冷静で優しい彼に戻っていた。さっきの必死な表情や、私の袖を握りしめていた手の強さは、まるで幻だったかのように、彼は綺麗に微笑んでみせる。
「うん……よく眠っちゃった。ごめんね、佐藤くんの肩、重くなかった?」
「まさか。それよりも、少しは冷えが取れたなら良かった」
彼はそう言って、私のために新しく温かいお茶を水筒から注いでくれた。その気遣いが嬉しくて、でもさっきの切なさが胸に残っていて、私は小さく微笑みながら温かいカップを受け取った。
私たちの高校生活は、もうすぐ終わる。
でも、ここから始まる新しい場所への道のりは、きっとこの図書室のように静かで、そして何よりも確かなものになると信じられた。二人の距離は、誰にも邪魔させない特別な結びつきで、しっかりと繋がっているのだから。
次の話から第3章、大学編に移ります。
正直、高校編で挟みたかったエピソードは色々あったので、
本編完結後にでも余談として色々と書いて行ければなと思っております。




