第四十二話:佐藤家のはなし
「――お父さん、本当なの!? じゃあ、本当に取締役になれるの!?」
西暦二〇〇〇年、一月三日の夜。
お正月の賑やかな空気が残る佐藤家のリビングに、妹の結衣のはじけるような歓声が響き渡った。
食卓の中央に置かれたおせち料理の残りと、父親が奮発して買ってきた上等な日本酒の瓶。その前で、父親の誠はどこか照れくさそうに、何度も深く頷いていた。
「ああ、本当だよ結衣。今日、会社の役員から直々にホットラインで連絡があってね。『藤堂ネクスト』の不正会計や脱税を、我が社がいち早く察知して取引を停止できた功績が、上層部で非常に高く評価されたんだ。そのリスクマネジメントを主導したということで、春の人事で取締役への栄転が正式に決まったよ」
「すごい、すごーーい! お父さん、格好いい!」
結衣が誠の首に抱きつき、誠は「ははは、よせよ結衣」と目尻を下げて嬉しそうに笑っている。母親もまた、どこかホッとしたような表情で、夫のグラスに日本酒を静かに注いでいた。
一九九九年の年末、父親は藤堂の詐欺的な取引に嵌められて会社をリストラされ、そこから佐藤家は坂道を転がり落ちるように崩壊していった。
だが、今世。大旦那の政治力、そして藤堂たちの崩壊により、最悪の事態は「父親の出世と家庭の幸福」という、これ以上ない状態へと書き換えられたのだった。
(ああ……終わったんだな)
食卓の端で、静かに湯呑みを傾けながら、家族の笑顔をその瞳に焼き付けていた。
前世で守れなかった、大好きだった家族の温もり。冷徹なハッカーとして裏社会を動かしてきた少年の胸の奥に、言葉にできないほどの温かい感情が満ちていく。
「――お兄ちゃん、何ぼーっとしてるのよ! お父さんのお祝いなんだから、お兄ちゃんもジュースで乾杯して!」
結衣がぷくっと頬を膨らませて、蓮のコップにオレンジジュースをなみなみと注いだ。
「そうだぞ蓮。お前がいつも『お父さんの仕事は素晴らしいから、自信を持って』と励ましてくれたおかげだ。ありがとうな」
誠が、少し潤んだ目で蓮の肩をがっしりと掴んだ。その手の温かさに、蓮はわずかに目元を融かす。
「いいえ、お父さんの実力ですよ。俺はただ、お父さんが報われる世界であってほしいと、そう願っていただけです。本当におめでとう、お父さん」
「お兄ちゃん、カッコいいこと言うねぇ! ……あ、そうだ。お父さんの栄転もすごいけど、お兄ちゃん、わたしへの『新世紀のプレゼント』、忘れてないでしょうね?」
結衣が悪戯っぽくウインクしながら、蓮に手のひらを差し出してきた。
「忘れるわけないだろう。結衣、ちょっとリビングの隣の部屋(客間)を開けてごらん」
「え? 何よ急に。……あそこ、ずっと鍵がかかってたけど……」
結衣が不思議そうに立ち上がり、廊下を挟んだ客間のドアノブに手をかける。
蓮が事前に『RS-HS』の莫大な報酬(資産)から極秘裏に手配し、今日の夕方に搬入させておいた「それ」が、静かに主を待っていた。
カチャリ、とドアが開く。
「……えっ?」
結衣の動きが、完全にフリーズした。
月の光が差し込む美しい客間の中央に鎮座していたのは、漆黒の美しい輝きを放つ、世界最高峰のブランド――スタインウェイ・アンド・サンズの最高級グランドピアノだった。
「これ……嘘、嘘でしょ!? スタインウェイのグランドピアノ……!? なんで、なんでうちにあるの!?」
結衣は両手で口を覆い、信じられないというように目を見開いた。ピアノを習っている彼女にとっても、それは一生かかっても触れることすら叶わないかもしれないものだった。
「お兄ちゃんが、結衣のために準備したんだ。コンクールも数多く出てすごく頑張っているみたいだったし、これまでの古いキーボードじゃ、結衣の才能を十分に引き出せないからね」
「お兄ちゃん……っ!」
結衣の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。彼女は振り返るなり、蓮の胸へと力いっぱい飛び込んできた。
「ありがとう、お兄ちゃん……! わたし、世界一のお兄ちゃんを持てて、本当に幸せだよ……っ!」
泣きじゃくる妹の小さな頭を、蓮は愛おしそうに、そして今度こそ絶対に離さないという強い意志を込めて、優しく抱きしめた。
前世の無念、家庭崩壊の悲鳴。その全てのトラウマが、結衣の流した嬉し涙によって、跡形もなく完全に消去された気がした。
「おめでとう、結衣」
打ち上がる2000年と言う新しい時代が幕明けた日の夜空の下。
佐藤家は新たな一歩を歩み始めたのだった。




