第三十八話:解析
「――家族を人質に取る愚行を、お前はやるのか。高橋美咲」
放課後の生徒会室。
夕暮れの茜色の光が差し込む静謐な空間でノートパソコンの画面を見つめたまま、冷徹な声で呟いた。
液晶画面には、乾の組織の情報が城崎の携帯からリアルタイムで傍受され、テキストへと書き起こした音声ログがスクロールしていた。
『――佐藤蓮の父親とか、あの白雪華って女を拉致して、あいつの目の前で痛めつければ、あいつだってすぐにシステムを全部差し出すわよ!』
そこにあるのは、高橋美咲という女の醜悪な本質。紛れもない「凶悪な犯罪教唆」のデータ(証拠)だった。
「……反省も、学習もしない。悪意は、環境が変わっても吐き出し続けるというわけか」
呟きは、誰もいない室内の冷たい空気に溶けていく。
指先がキーボードを叩き、音声データのバックアップと、それを補正する暗号化パッチを数秒で完了させた。乾の部下たちが現場で連絡したヒットマンたちの拘束記録、大破した車両のナンバー、押収した凶器のリスト。それらすべてが、美咲の音声ログを頂点とする一枚の完璧な告訴状として結合されていく。
「佐藤くん、お待たせ! はい、これ今日の分の書類。チェックお願いね?」
パタン、と流れるような動作でノートパソコンの画面を伏せると同時に生徒会室のドアが開き、副生徒会長の華が、健気な笑顔で書類の束を抱えて入ってきた。
進学校のセーラー服の袖を少し捲り、一生懸命にペンを握っていたのだろう。人差し指の付け根に微かに青いインクがついている。その姿は、夜の街のドロドロとした怨嗟や暴力とは一線を画する、清涼感があった。
「ありがとう、白雪さん。いつも助かるよ。ずいぶん熱心に書いていたみたいだね」
「うん! 次の全校集会の議題、佐藤くんが読みやすいようにって細かくまとめてたら、楽しくなっちゃって。……あ、でも、ちょっと量が多くなっちゃったかも」
「いいよ。君が書いてくれたものなら、どれだけ長くても全てに目を通すさ」
「もう、佐藤くんってば、そういうことを涼しい顔して言うんだから……」
華は少し照れくさそうに視線を泳がせながら、手慣れた動作でデスクの傍らにそっと湯呑みを置いた。
「はい、これお茶ね。少しぬるめに淹れておいたから、すぐに飲めるよ」
「お気遣いありがとう。ちょうど喉が渇いていたところだ」
ふわりと香る緑茶の匂いに、蓮の脳内に張り詰めていた意識が、わずかに弛緩する。湯呑みに手を伸ばし、一口含んで一息ついた。
「……あ、佐藤くん。その書類の右端のところにね、記念ビジュアルのラフカットも挟んであるの。まだ全然途中なんだけど、どうしても佐藤くんに一番に見てもらいたくて」
「へえ、見せてほしいな」
華が指差したページをめくると、そこには繊細なタッチで描かれた、二〇〇〇年を迎える世界と、そこに光を灯す女神のスケッチがあった。粗削りながらも、見る者の心を打つ圧倒的な才能。
「素晴らしいね。白雪さん、確実に君の絵は進化しているよ。これまでの君の作品の中でも、間違いなく最高傑作になる」
「本当!? よかったぁ……。最近、デジタルアートの掲示板でも色んな人からメッセージが届くようになって、少し不安だったの。わたしの絵、本当にみんなに届いてるのかなって」
「届いているさ。海の向こうの、シリコンバレーのトップエンジニアたちでさえ、君のビジュアルをサイトの顔として認めている。自信を持っていい」
「うん! 佐藤くんがそう言ってくれるなら、わたし、何百枚でも描けちゃう気がする!」
華は嬉しそうに胸を張った。だが、その拍子に、彼女の手元が蓮のデスクのインク瓶に軽く触れそうになる。蓮は素早く手を伸ばし、華の右手首を優しく掴んで引き寄せた。
「わっ……!? さ、佐藤くん?」
「危ないよ、白雪さん。せっかくの書類が汚れてしまう。それに……君の手、またインクがついている」
「え? あ、う、うん……本当だ。うっかりしてたな」
華は少し頬を赤らめながらも、素直に自分の右手を差し出した。制服のポケットからハンカチを取り出し、華の指先についていたインクの汚れを、優しく、丁寧に拭き取っていく。
「あ、ありがとう……。自分で気がつかなくて恥ずかしいな。……ねえ、佐藤くん?」
「どうかした?」
「なんだかさっき……わたしが入ってくる直前、すごく怖いお顔をしてパソコンを見ていなかった? 何か大変なお仕事でもあったの?」
華の曇りのない、澄んだ瞳が蓮を見つめる。
彼女は、自分が数時間前に裏社会のヒットマンに狙われ、そして蓮の配置した乾の戦闘班によって、その脅威が音もなく消されたことなど一ミリも知らない。知る必要もない。
「いいや。ただの、システムのバグ駆除のログを確認していただけだよ。少し、性質の悪いスパムが紛れ込んでいたみたいだけど……それも、たった今完全に遮断したから、もう問題ない」
「そっか……。最近、パソコンの世界でも『二〇〇〇年問題』とか、色んなウイルスが流行ってるってニュースで見たから、佐藤くんが無理してないか心配になっちゃって」
「心配いらないよ。俺の組んだシステムは、どんなバグが侵入しようとしても、基幹部分に触れる前に消去される様になっているから」
「そうなんだ! よかったぁ。佐藤くんの作るシステムは、世界一安全なんだね」
嬉しそうに微笑む華。その言葉に、心の奥底で冷徹な確信をさらに強固なものにした。
(優しい、か。……いいや、白雪さん。俺は君や、俺の家族の平穏を脅かす悪党に対しては、どこまでも冷酷になるよ)
高橋美咲、藤堂、そして城崎。
奴らは、蓮の最優先事項である「家族」と「白雪華」という絶対の聖域に触れようとした。
「佐藤くん? どうしたの、急に黙り込んじゃって」
「ううん、何でもないよ。今日の放課後は、一緒に帰れる?」
「もちろん! そのために急いで書類を終わらせたんだもん。あ、駅前の本屋さんに、新しい美術雑誌が入荷してるみたいだから、一緒に見に行きたいな」
「いいよ。君の行きたい場所なら、どこへでも付き合う」
「えへへ、約束ね!」
何も知らずに、甘えたように袖をきゅっと握ってくる華の手を優しく、しかし絶対に離さないという強い力で握り返した。
ノートパソコンの奥で、蓮が構築した包囲網のプログラムは、すでに最終段階へと突入していた。
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