第三話:最初の報酬と、変わり始める未来の歯車
源さんの家を訪ねてから、一週間が経った。
三月の終盤。
小学校の卒業式も無事に終わり、俺は中学生になるまでの時間を過ごしていた。
前世のこの時期の俺は、ただ迫り来る新しい環境への不安に、どことなく暗い影を落としていた記憶がある。
だが、今の俺の足取りは、当時とは比べものにならないほど軽かった。
ガチャリ、と古びた平屋のドアを開ける。
「源さん、入るよ」
「お、おい! 蓮! 待ちかねたぞ!」
居間に飛び込んできた源さんは、一週間前とはまるで違っていた。
ボサボサだった髪は一応クシが通されており、なによりその目は、信じられないものを見た人間のそれだった。
彼は俺の腕を掴むと、ディスプレイの前に引きずり回すように連れて行った。
「お前が残していったあの海外の掲示板のアカウント……大変なことになってるぞ!」
ブラウン管の画面に映し出されていたのは、テキスト主体の海外の開発者コミュニティの画面だった。
俺が匿名で投稿した、次世代セキュリティのパッチ(修正プログラム)。
そのスレッドには、英語での驚愕と称賛のコメントが、何百件も連なっていた。
『信じられない。現行のすべてのシステムが抱えていた脆弱性が、わずか数十行のコードで完璧に塞がれている』
『このアーキテクチャを設計した奴は一体誰だ? 神か?』
『我が社の開発チームが数ヶ月かけても解けなかったバグだぞ……』
そして、画面の一番上には、海外の大手通信企業のアカウントから、ダイレクトメッセージが届いていた。
「これ……英語だから俺も辞書を片手に読んだんだが……」
源さんが、ゴクリと生唾を飲み込む。
「お前の提示した解決策に対する『バグ報奨金』と、今後の独占ライセンス使用料として、二十万ドルを支払うって書いてある……」
「二十万ドル」
俺は冷静にその数字を頭の中で計算する。
一九九五年当時の為替レートは、一ドルあたり大体九十円前後。
つまり、日本円にして約一千八百万円だ。
「源さんの名義で、海外送金を受け取れる口座は用意できた?」
「あ、あ、ああ……! 俺の親父が昔、貿易関係の仕事をしてた名残の法人口座が生きてたから、そこを指定した。今朝、銀行から着金確認の電話があったよ……。蓮、本当にお前の言った通り、大金が振り込まれちまった……!」
源さんは、自分の両手を震わせながら画面を見つめている。
彼にとっては、ただの「親戚の物好きな小学生」が、一瞬にして一千万円以上を稼ぎ出す怪物に変貌した瞬間だった。
「ありがとう、源さん。約束通り、そのうちの二割、三百六十万円は源さんのシステム利用料と、名義代として受け取って」
「は!? に、二割って……おい、俺は何もしてないぞ! ただパソコンと回線を貸しただけだ!」
「いいんだ。これからもっと大きなシステムを組む。その時、俺の代わりに大人の盾になって動いてくれる源さんの『信用』に対する投資だから」
俺は椅子に深く腰掛け、キーボードを引き寄せた。
一千四百万円余り。
十二歳のガキが自由にできる資金としては、一九九五年現在、日本でトップクラスだろう。
これで、父親の病気を消し去るための医療資金は、最低ラインを完全にクリアした。
前世で母親を殺し、父親を奪った、あの絶望のカウントダウンは、この瞬間に完全に停止したのだ。
(次は――日常の地盤を固める)
俺は源さんの口座から、家族に怪しまれないように少しずつ金を動かす計画を練りながら、同時にある作業を始めた。
「蓮、今度は何をする気だ?」
源さんが、畏敬の念すら混じった目で見つめてくる。
「ネットの『住所』を買い漁るんだよ」
俺は、数年後に世界的な大企業となる会社や、爆発的に普及するサービスの名前を、テキストエディタに次々と打ち込んでいった。
まだ誰もインターネットの価値に気づいていない今なら、これらのドメイン(.comや.co.jpなど)は、年間数千円程度の維持費だけで、先回りして無制限に取得できる。
後に、大企業たちが数千万、数億円を積んででも買い取りにくる、超一等地の『土地転がし』だ。
カタカタカタ、と画面を操作していると、ふと、源さんが思い出したように言った。
「そういえば蓮、さっき近所の商店街で、お前と同学年の……ほら、あのちょっと横柄な社長のところの娘を見かけたぞ」
俺の指が、一瞬だけピタリと止まった。
「……美咲か」
「おう、それだ。なんか、お前と同じ中学に行くんだろ? 取り巻きのガキ連れて、ブランド物のバッグ買ってもらったとか自慢してたわ。相変わらず生意気な面してたぞ」
美咲。
前世で俺を限界まで使い潰し、コストカットと称して冷酷に切り捨てた、未来の妻。
彼女の父親が経営するIT企業は、この一九九五年時点では、まだ地元の小さな受託開発会社に過ぎない。
前世では、高卒で必死に技術を磨いた俺がその会社に入社し、無償に近いデスマーチで何本もの大型システムを完成させたからこそ、あの会社は業界の荒波を生き残り、美咲は「若き社長令嬢」として贅沢三昧ができたのだ。
(今世では、お前たちの会社に、俺の技術は1ミリもくれてやらない)
俺という最大の「エンジン」を失ったあの会社が、これから始まる劇的な技術革新の波に置いていかれ、どうやってひっそりと潰れていくか。
美咲が、自分の誇る「親のステータス」が砂の城のように崩れていくのを前に、どんな顔をするのか。
考えるだけで、冷徹な愉悦が胸を満たす。
だが、今の俺にとって、彼女を逆恨みして復讐することにリソースを割くのは非効率的だ。
ただ『関わらない』。それだけで、あの会社は歴史の淘汰に勝てず、勝手に破滅していくのだから。
「そんなことより、源さん」
「ん? なんだ?」
「四月から始まる中学校、ちょっとだけ楽しみになってきたよ」
俺が本当に会いたいのは、美咲ではない。
前世のあの土砂降りの夜、すべてを失った俺の携帯に、泣きそうな声で『全部あげるから、死なないで』と言ってくれた、白雪華。
今はまだ、クラスの隅でふくよかな体型を理由にいじられている、孤独な少女。
手に入れた資金と、2026年までの未来の知識。
その全てを使って、今度は俺が、彼女の眠れる才能を世界の頂点へと導いてみせる。
「……なんだよ蓮、急にガキみたいな顔して笑いやがって」
「別に。さあ、源さん、次のプログラムの仕様書(設計図)を作るから、手伝って」
一九九五年、春。
世界の裏側で、巨額のドルが動き、未来のロードマップが書き換えられていく。
佐藤蓮の、完璧なる人生の構築は、まだ始まったばかりだった。
続きは本日21:20に投稿予定です。




