第四話:入学式と、二人の少女
一九九五年、四月。
桜並木をくぐり抜け、俺は新しい制服に身を包んで中学校の校門をくぐった。
周りを見渡せば、まだ制服に着られているような、初々しい新入生たちが騒がしく看板の前に集まっている。
だが、俺の視線は彼らとは別のところを向いていた。
(まずは、クラスの確認だ)
体育館の壁に貼り出されたクラス名簿の前に立つ。
人混みをかき分けながら、俺の目が特定の名前を探した。
――一年二組。
そこに、三つの名前が並んでいるのを見つけた。
『佐藤 蓮』
そして、その数行下。
『白雪 華』
『高橋 美咲』
胸の奥が、熱さと冷たさの二つに引き裂かれるような感覚があった。
すべてが始まった。
前世の恩人と前世の仇敵。二人の少女が、同じ教室に揃ってしまっていた。
◇
教室に入り、指定された席に座る。
しばらくすると、廊下の方から香水のキツい匂いと、数人の女子の甲高い笑い声が近づいてきた。
「キャハハ! マジで? ウケるんだけど!」
輪の中心にいるのは――今わの際まで呪いの言葉を思い浮かべた高橋美咲の姿だった。
まだ十三歳。
顔立ちはクラスで言えば「中の上」といったところだが、派手な髪飾りをつけ、中学生とは思えないほど着崩した制服をまとっている。
「ねえ、みんな入学祝いで何買ってもらった?」
美咲がカバンを机にドサリと置き、取り巻きの女子たちを振り返った。
「私はね、パパに頼んで海外のブランドの財布買ってもらっちゃった」
美咲は自慢げに、真新しい革の財布をパタパタと煽るように見せびらかす。
「えーっ、すごーい! これ、大人が持つやつじゃん!」
「いいなー、美咲。うちなんて普通のスクールバッグだけだよ?」
周囲の女子たちが羨望の声を上げるのを、美咲は当然のような顔で受け止め、ふんぞり返った。
「まぁね。だってうち、パパがIT企業の社長だからさ。これくらい普通なんだよね。これからはパソコン?の時代だから、パパの会社はもっと大きくなるんだって」
「社長令嬢かぁ、羨ましいな」
「美咲のパパの会社って、駅前のあのでっかいビルのところでしょ?」
「そうそう。だからさ、お小遣いの桁が違うっていうか? みんなとはちょっと住む世界が違うかもねー」
前世の俺は、この傲慢な態度を「育ちが良いお嬢様だから」と勘違いし、勝手に憧れていた。
だが、四十二歳のエンジニアとしての視点で見れば、彼女の父親の会社など、バブルの残滓で食い繋いでいるだけの、泥舟のような弱小受託会社に過ぎない。
美咲がチラリと、教室の隅に座る俺に一瞬だけ視線を向けた。
「……何、あの人。ジロジロ見てきて気持ち悪い」
美咲は小声で取り巻きに囁く。
「あ、佐藤くんだよ。確か家が結構貧乏だって噂の……」
「あー、納得。地味だし、制服もなんかお下がりっぽくてヨレヨレじゃん。関わる価値もない貧乏人って感じ。パスパス」
ブランド物の財布を見せびらかす彼女にとって、地味な身なりの俺は視界に入れる価値もないらしく、すぐにフンと鼻を鳴らして目を逸らした。
(それでいい。今世では、お前たちの泥舟に俺というエンジンが積まれることはない)
俺が冷徹に視線を外した、その時だった。
教室の前方のドアが、静かに開いた。
入ってきたのは、うつむき加減に歩く、一人の少し大柄な女子生徒だった。
白雪華。
華という名前に反して現在の彼女は、お世辞にも目立つタイプではなかった。
少しふくよかな体型をしていて、制服のサイズが合っていないのか、どこか窮屈そうに身を縮めている。
長い黒髪で顔を隠すようにして、クラスの誰とも目を合わせようとせず、一番後ろの席へと滑り込んだ。
その瞬間、美咲のグループからクスクスと意地の悪い笑い声が漏れた。
「ねえ、ちょっと見てよあの体型。制服パツパツじゃん。何キロあるんだろうね」
「ウケる。スカートの丈、パツパツすぎて逆に短くなってない?」
美咲は、わざと本人に聞こえるような声で小さく呟いた。
「うわ、暗そ〜。関わるとこっちまで根暗になりそう。ねえみんな、あのブタさんとは関わらないようにしよ?」
「そうだね、美咲。なんか空気悪くなりそうだし」
華は、その言葉が完全に聞こえていたはずだ。
だが、彼女はただ、肉厚な小さな手をぎゅっと握りしめ、さらに深くうつむくことしかできなかった。
肩が微かに震えている。
前世の俺は、真新しいパソコンに対する憧れと――父親が病気になってからは不安で頭がいっぱいで、同じ教室にいた彼女が、これほど陰湿な視線に晒されていたことに気づきもしなかった。
(白雪さん……)
俺は、彼女の机の上のノートを見つめた。
彼女は周囲の冷たい視線から逃げるように、鉛筆を握り、ノートの隅に小さなキャラクターのデッサンを描き始めていた。
その線を一瞥した瞬間、俺の脳細胞が電流が走ったように跳ねた。
(……すごいな)
デッサンは、驚くほど正確だった。
陰影のつけ方、キャラクターの骨格の捉え方。
そして何より――一九九五年現在にはまだ存在しない、二〇二〇年代のWebの世界で爆発的な人気を誇るような、洗練された現代的なデザインセンスが、そこには確かに息づいていた。
(間違いない。やはりこの時代での彼女は、ダイヤの原石だ)
彼女のこの才能は、これから始まるデジタルの時代、インターネットの爆発的普及の波に乗れば、世界中の人間を狂熱させるコンテンツの頂点に立てる。
前世のあの土砂降りの夜。
すべてを失って泥水を這っていた俺に、全財産を投げ打ってでも『死なないで』と連絡してくれた、唯一の少女。
今世では、俺が手に入れた一千万円以上の資金と、二〇二六年までのすべてのIT知識を使って、彼女を世界の舞台へと押し上げてみせる。
「おい、佐藤」
不意に、隣の席の男子生徒が話しかけてきた。
「ん? 何だ?」
「何だってお前、さっきからあの高橋美咲のこと、すごい顔で睨んでたぞ。お前もあいつの自慢話、ムカついた口か?」
「いや、別に睨んでたつもりはないよ」
俺は冷然と答えた。
「ただ、自分の親の会社の規模を、自分の実力だと勘違いしている人間は、後が大変そうだなと思っただけだ」
「は? お前、中一のセリフとは思えないくらい辛辣だな……。まぁあいつ、ちょっと調子乗ってるよな」
男子生徒は苦笑いしながら頭を掻いた。
「……まずは、環境の整備からだな」
俺は、美咲たちの下劣な笑い声を冷ややかに聞き流しながら、ノートにこれからの計画)を静かに書き進めた。
美咲とその父親の会社が、俺という労働力を失って勝手に自滅していく裏で。
俺は華の才能を見抜き、彼女を世界一のイラストレーターへとプロデュースする。
そのために、源さんの秘密基地でやるべきことは山ほどあった。
「ねえ美咲、今日の放課後、駅前のマック行かない?」
「いいよー。あ、でも私、パパの会社の送り迎えの車が来るかもだから、ちょっと遅れるかも」
楽しそうに未来のない会話を続ける美咲の声を、俺は完全に脳内からミュートした。
変わり始めた未来の歯車は、もう誰にも止められない。
佐藤蓮の中学校生活は、静かな、しかし確実な野心を孕んで幕を開けた。




