第二話:最初の仕様確認と秘密基地の構築
「蓮、早くしなさい! もうすぐご飯片付けちゃうからね!」
階下から響く母親の、まだ少し怒気を孕んだ声。
それが夢の幻聴でも、死に際の走馬灯でもないことは、着慣れた小学校のトレーナーの首元が皮膚に擦れる現実的な感覚が証明していた。
「今行く、母さん」
鏡の中の十二歳の自分に向かって、もう一度深く息を吐き出す。
ポケットには、スマホもPHSもない。
あるのは、小遣いの百円玉数枚と、家の鍵だけだ。
一九九五年三月十四日。
小学校の卒業式を数日後に控えた、春休み直前のこの時期。
それが、現在のこの世界の仕様だ。
部屋を出て、木造の階段を一段ずつ踏みしめるように下りていく。
一歩ごとにギシ、と軋む音が、四十二歳の俺の記憶にある実家の音そのもので、胸の奥が妙に熱くなった。
居間に入ると、食卓には白米と味噌汁、それから少し焦げ目のついた卵焼きが並んでいた。
画面越しではない、現実の光景がそこにある。
「お、やっと起きてきたか。蓮、卒業間近だからって気が緩みすぎだぞ」
新聞を広げながら、気の抜けた声を出す男がいた。
父親だ。
「……親父」
「なんだよ、改まって。早く座って食え。今日もまた源さんのところに行くんだろ?」
前世では、俺が高校生の頃に髪が抜け落ち、見る影もなく痩せ細って逝ってしまった父親が、そこにはいた。
まだ髪も黒々としていて、肌にも健康的な張りがある。
台所では、母親が楽しそうに鼻歌を歌いながら、幼い妹の髪を結ってやっていた。
当時まだ幼稚園児だった妹は、アニメのキャラクターが描かれたプラスチックのコップを両手で握りしめ、牛乳を美味しそうに飲んでいる。
誰も、死んでいない。
誰も、過労で倒れていない。
俺が全てを失って泥水をすすったあの未来は、この食卓には一滴すら存在していなかった。
(守る。今度こそ、絶対に)
奥歯を噛み締め、涙を堪えながら、俺は父親の正面に座った。
箸を手に取り、味噌汁を口に含む。
出汁の香りが鼻腔を抜け、温かさが胃に染み渡る。
味が、した。
前世のあの冷めかけたコンビニの弁当とは違う、明確で、ひどく優しい味が。
「……美味い」
「当たり前でしょ。さあ、急いで食べなさい」
母親が笑う。
俺は貪るように朝食を胃袋に収めた。
今の俺には、感傷に浸っている時間すら惜しかった。
四十二歳のメンタルを持つエンジニアとして、まずはこの人生の初期バグを取り除くための「仕様確認」と「リソースの確保」に動かなければならない。
数年後、父親は難病を発症する。
前世では、自覚症状が出た時にはすでに手遅れだった。
大人の医学知識を持つ今の俺なら、その病気が「超初期段階」であれば、簡単な内視鏡手術と、特定の薬剤で完全に根治できることを知っている。
問題は、そのための費用だ。
保険適用外の最新検査や、海外からの薬の取り寄せには、小学生の小遣いでは逆立ちしても足りない。
数百万、いや、今後の安全マージンを考えれば数千万円の「自由になる金」が今すぐ必要だった。
「ごちそうさま」
食器を流し台に運び、俺は玄関を飛び出した。
三月の朝の空気は、肌を刺すように冷たい。
向かう先は、住宅街の細い路地にある一軒の古びた平屋。
そこには、母方の遠い親戚にあたる独身の男、通称「源さん」(三十代後半)が住んでいる。
前世の俺は、源さんの持っているパソコンに強烈に惹かれ、小学生の頃から彼の家に毎日のように通い詰めていた。
学校の授業なんかよりも、源さんの部屋で緑色の画面と睨み合っている時間の方が遥かに長かった。
親戚一同からは「変人の家に引きこもっている」と心配されたが、あの時間が基礎にあったからこそ、俺は父親を亡くして大学進学を諦めた後、高卒という切札のない身分でありながらプロのエンジニアとして業界を生き抜くことができたのだ。
平屋の前に立つ。
庭には壊れた電子基板や、古いブラウン管のモニターが転がっていた。
俺は迷わず、呼び鈴を押した。
ピンポーン、と気の抜けた音が響く。
数十秒の後、ガチャリと鍵が開く音がして、ボサボサの髪にヨレヨレのTシャツを着た男が顔を出した。
源さんだ。
「……あ? なんだ、蓮か。今日もまたパソコンいじりか? お前も物好きだなぁ」
面倒くさそうに頭を掻きながらも、源さんはいつものようにドアを開けてくれた。
俺は開いたドアの隙間から彼の部屋の奥を見据え、大人の、極めてビジネスライクなトーンで声をかけた。
「うん。源さん、今日ね、源さんの組んでいる自作PCの、特にマザーボードの割り込み処理(IRQ)の設定について、少し試したいロジックがあって来たんだ」
源さんの動きが、ピタリと止まった。
眠そうだったその目が、驚愕に見開かれる。
いくら毎日通い詰めているとはいえ、さっきまでただの「パソコンが好きな小学生」だった蓮の口から、「IRQ」などというディープな専門用語が出るはずがないのだ。
「……お前、今、なんて言った?」
「今のOS環境だと、複数の拡張カードを差した時にリソースが衝突して、システムがハングアップしやすいよね。それを回避するための、最適な修正プログラムのアルゴリズムを持ってきたんだ」
俺はポケットから、今朝、ノートの切れ端にボールペンで書き殴っておいた十数行のコードを差し出した。
それは、2000年代以降のモダンなOSの設計思想を元に、この時代の16ビット/32ビット混在環境向けに最適化した、いわば『未来の処方箋』だった。
源さんはひったくるようにノートの切れ端を奪い取ると、凝視した。
五秒、十秒。
彼の呼吸が、みるみるうちに荒くなっていくのが分かった。
「なんだ、これは……。この記述、C言語か? いや、見たことのない関数がある。だが、ロジックが美しすぎる。これなら、あの忌々しいメモリの競合が……!」
源さんは頭を抱え、ぶつぶつと呟きながら、俺の顔とノートを何度も往復させた。
やがて、彼は俺の肩をガシッと掴んだ。
「蓮、お前……これをどこで手に入れた!? 本当に自分で考えたのか!?」
「ただの趣味だよ、源さん。……もしよければ、そのノートの続きを、源さんのパソコンで試させてもらえないかな?」
源さんは、もはや俺をただの親戚の子供としては見ていなかった。
ゴクリと生唾を吞み込み、狂気すら孕んだ笑みを浮かべて、ドアを大きく開け放った。
「入れ。歓迎するよ、天才少年」
一歩足を踏み入れたその部屋は、前世で俺をエンジニアにしてくれた、そして今世では最初の「秘密基地」となる場所だった。
壁一面に広がる、電子パーツの棚。
部屋の中央に鎮座する、タワー型の自作パソコン。
ブラウン管の画面には、黒い背景に白い文字が並ぶ開発環境が映し出されている。
そして何より、部屋の隅にあるモデムからは、当時としては異次元の、常時接続のネットワークの匂いがしていた。
「素晴らしいソースコードだ」
俺は椅子に座り、慣れた手つきでキーボードの前に座った。
四十二歳、デスマーチを生き抜いたシニアエンジニアの指先が、十二歳の若い肉体を得て、前世を遥かに凌駕する軽快さで動き始める。
カタカタカタカタ、と、部屋の中に心地よい打鍵音が響き渡る。
横で見ていた源さんが、再び息を呑むのが気配で分かった。
小学生が遊びで触るタイピングのレベルではない。
画面を入力されていくコードは、彼にとって未知の、しかし完璧な論理構造を持った未来の技術だった。
(よし、まずは世界中のテック企業が集まる海外の電子掲示板へ接続する)
俺は源さんの高速回線を経由し、アメリカの最先端の開発者コミュニティへとアクセスした。
一九九五年現在、世界中の優秀なエンジニアたちが、システムのバグや通信プロトコルの脆弱性に頭を悩ませている。
今の俺なら、それらの「答え」を全て知っている。
海外のコミュニティに、英語の匿名アカウントで、ある重大なセキュリティ脆弱性を修正するパッチ(プログラム)を投稿した。
数日後には、これが世界中の大手テック企業を震撼させ――結果として修正パッチを投稿した人間を特定した企業は莫大な「バグ報奨金」として、源さんの名義を借りた口座に米ドルで振り込まれることになるだろう。
「蓮……お前、本当に何者なんだ……」
「言ったでしょ、ただの趣味だよ」
キーボードから手を離し、俺は静かに笑った。
これで、最初の開発環境と、社会的な盾(源さん)、そして無限の資本を生み出すためのパイプラインが確保できた。
机の上の置時計を見ると、まだ夕方前だった。
「源さん、機材を貸してくれてありがとう。これ、今回のロジックの全容だよ。好きに使って」
「あ、おい、蓮! 待てよ!」
呼び止める源さんを背に、俺は平屋を後にした。
これで、父親の病気を消し去るための準備は、信じられないほどの高速度で進み始める。
(待っていろよ、美咲。お前の親の会社に、俺の技術は1行もくれてやらない)
そして四月になれば、中学校の入学式が来る。
同じ中学に進学してくるはずの美咲。
そして、前世で俺を救おうとしてくれた白雪華。
二人との再会の日も近い。
前世で俺をエンジニアにしてくれたこの場所から、今度は俺が世界の未来を書き換えてやる。
佐藤蓮の、人生という名のシステムの再構築は、今ここから、本格的に稼働を始めた。




