第十三話:隠された不具合
結衣のための信託口座を開設し、母親の深夜パートを辞めてもらったことで、我が家の生活水準と安全基盤は劇的に改善された。夕食の食卓は前世と比べて明らかに品数が増え、母の顔から慢性的な疲労の影が消えていった。
だが、俺のロードマップには、もう一つ、最も重要で、最も困難な最優先タスクが残っていた。
父親の『身体の問題』だ。
「ただいま、蓮。今日も源さんのところでパソコンの勉強か? 本当に熱心だな」
夜の十九時前。玄関のドアが開き、父親の佐藤誠が仕事帰りのスーツ姿で入ってきた。
まだ四十三歳。前世の記憶の中にある、病床で痩せ細り、管だらけになっていたあの痛々しい姿とは違い、今の父にはしっかりとした肉体と、働き盛りの男としての覇気がある。
「おかえり、父さん。今日も遅くまでお疲れ様。外、結構冷え込んできたね」
「あくせく働くのが男の仕事だからね。……おや、なんだか今日はいつもより豪華な匂いがするな。母さん、今日の夕飯は何だい?」
父がネクタイを少し緩めながら居間に入ってくると、先に帰宅していた母親が嬉しそうに台所から顔を出した。
「あなた、お疲れ様! 実はね、今日のすき焼きは、蓮が源さんのところでお手伝いをして、本当にたくさんのお給料を貰ってきたからそのお祝いなのよ。生活費もパートの分も全部心配いらないからって、私、今月で夜の仕事辞めることにしたの」
「えっ……? ちょっと待ってくれ、蓮が? おいおい、母さん、いくら何でも中一の子供のバイト代で、そんなことができるわけないじゃないか。源さんも、子供相手にそんな大金を払うような人じゃ……」
「本当だよ、父さん。これ、源さんから正式な契約として受け取った、今月分の我が家への医療費と生活費のサポート。受け取ってほしい」
俺は食卓の上に、あらかじめ用意しておいた三十万円の入った封筒を置いた。
父は呆然とした様子で封筒と俺の顔を交互に見つめ、やがて困ったように眉を下げて笑った。
「蓮……気持ちは本当に嬉しい。だけどね、男のプライドとして、息子の稼いだ金で生活を楽にするわけにはいかないよ。お前が頑張って貯めたお金は、お前が将来大学に行ったり、好きなことをするために大切に貯めておきなさい。な?」
「お金のことはどうでもいいんだ、父さん。これは源さんの会社と俺が結んだ、正当な技術提供の対価だから。それより、条件を聞いて欲しい」
俺は大人のトーンに声を切り替え、父親の目を真っ直ぐに見据えた。
「条件……? 中一の息子が父親に条件を出すのかい? 一体、何の条件だい?」
「このお金を我が家の口座に入れる代わりに、今週末、俺と一緒に大学病院の最新の精密検査を受けてほしいんだ。人間ドックの、一番上のコースをね」
「人間ドック? ははは、何を言い出すんだ、蓮。会社の定期健診なら先月受けたばかりだし、どこも異常なしだったぞ? 数値もオールAだ。第一、私はどこも痛くないし、すこぶる健康だ。そんな高い検査にお金を使う必要はないよ」
父は可笑しそうに笑って、俺を心配させない様に肩をぽんと叩いた。
だが、俺は一ミリも表情を崩さなかった。
「会社の一般的な健診の項目じゃ、見落とされる特殊な不具合もあるんだよ。父さん……隠さずに、俺の質問に正確に答えてほしい」
「質問? いいよ、何でも聞いてごらん。健康そのものの証明をしてあげるから」
「父さん、最近、夜中にふと目が覚めて、少しだけ胸の奥が苦しくなったりしないか? それから、朝起きたときに、喉の奥に何かが張り付いているような違和感は?」
その瞬間、父親の動きがピタリと止まった。
ネクタイを完全に外そうとしていた手が、首元のあたりで静止している。
「え……? あ、あなた、本当なの……!? そんなこと、私に一言も言ってくれなかったじゃない!」
母親が驚いて父親の顔を覗き込んだ。父はひどく動揺した様子で、泳ぐ視線を俺へと向け、額に微かな汗をにじませた。
「な、なぜそれを……。いや、本当にごくたまに、ちょっと仕事が立て込んで疲れているときに、そう感じるだけで……ただの寝不足か、あるいはちょっとした逆流性食道炎か何かだと、自分で納得していたんだが……」
「ただの寝不足じゃないよ、父さん。それは、身体の奥底で重大な問題が起き始めている、最初の警告シグナルなんだ。一般的な会社の簡易検査じゃ絶対に検出できない。最新の機材と、特殊な造影検査プログラムを持った大学病院じゃないと、その異常は見つけられないんだって聞いたよ」
医学論文に記載されていた、父親の病気の『超初期段階の自覚症状』。
それを正確に言い当てられ、父親は完全に言葉を失っていた。中一の息子が、なぜそんな専門的な医療の知識を持っているのか、その疑問すら頭から吹き飛ぶほどの衝撃だったのだろう。
「蓮、あなた、どうしてそんなことまで分かるの……?」
「源さんのパソコンで、海外の最新の医学論文のデータベースにアクセスしたんだ。父さんの年齢や職種、生活習慣のデータをいくつか入力してシミュレーションしたら、この症状が一番危険だってアラートが出たんだよ」
俺はもっともらしい嘘を、淀みない口調で重ねた。
「お金なら、いくらかかってもいい。俺にはそれを支払うだけの物がもうあるんだ。……ねえ、父さん。俺は、父さんに死んでほしくない。――これからの未来、家族みんなで、ずっと一緒に笑って過ごしたいんだよ。頼むから、俺の言うことを聞いて病院に行ってみてほしい」
十二歳の子供の身体を使って、俺は前世のすべての後悔を込めて、魂の底から訴えかけた。
隣で話を聞いていた母親も、涙を浮かべて父親のスーツの袖をぎゅっと掴んだ。
「あなた、お願い……! 蓮がここまで必死になって、調べるなんて、絶対に何かあるわよ。会社のため、家族のためにって我慢するのはもうやめて。今週末、絶対に病院に行きましょう?」
「おにいたん……おとうさん、お病気なの……? おとうさん、痛いの痛いの飛んでけ、してあげる……っ。だから、お病院、行って……?」
状況を察した結衣までが、大きな涙をポロポロと流しながら、父親の膝にしがみついて見上げた。
家族全員に囲まれ、必死の眼差しを向けられた父親は、やがて視線を落とし、大きくため息をついた。そして、降参するように両手を挙げ、俺の頭を大きな手でくしゃりと撫でた。
「……分かった、分かったよ。参ったな、中一の息子にここまで論理的に詰められるとは、会社の後輩に説教されるよりよっぽど堪えるよ。蓮、お前の言う通り、その最先端の検査とやらを受けてくるよ。母さんも、結衣も、心配かけて悪かったね」
「本当に、約束してくれたね、父さん」
「ああ、約束する。今週末の土曜日、朝一番で大学病院の予約を取ってくれ。蓮、お前のその『バイト代』から、検査費用を出してもらうよ。情けない父親だけど、今回は息子の好意に甘えさせてもらうよ」
「情けなくなんてないよ。父さんが健康でいてくれることが、俺にとって一番の資産だから」
俺は胸の奥で、深く、大きな安堵のため息をついた。
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