第十四話:家庭修復
五月の爽やかな風が吹き抜ける土曜日。俺は父親と一緒に都内でも有数の設備を持つ大学病院の広いロビーにいた。
この日のために、源さんの名義と海外から得た潤沢な資金を元手に活用し、『特別精密造影ドック』の枠を確保した。費用は数十万円。
「おいおい、蓮。本当にこんな大層な場所に、中一の息子に連れられて来ることになるとはな。待合室のソファーからしてフカフカだし、なんだか、会社の社長にでもなったような気分で落ち着かないよ」
誠は病院のホテルのような内装を見回しながら、自分の着古したジャケットの襟元を気恥ずかしそうにいじり、苦笑いを浮かべていた。
「いいから、父さんはただ大人しくベッドに横になって、お医者さんの言う通りにしていればいいんだよ。何も心配することはないから」
「分かった、分かったよ。しかし、蓮。本当に検査の結果、どこも異常なしだったら、この高額な検査代はドブに捨てることになるんだぞ? 母さんには内緒にしているとはいえ、さすがに申し訳ないよ」
「異常なしっていう最高の結果が得られるなら、それが一番の成功さ。医療費は未来への投資だよ。さあ、時間だから行ってらっしゃい、父さん」
「ありがとう。いつの間にやら息子が同じ年くらいの大人になった気がするよ。お前はロビーで大人しく本でも読んで待っていなさい」
俺は父の背中を押し、検査室の重い扉の向こうへと見送った。
ロビーのソファーに深く腰掛け、俺は壁の大きな時計を見上げる。
検査にかかる時間は、およそ三時間。前世の記憶と、父親の死後に俺が貪るように読み漁った医学論文が正しければ、父の身体の奥底、胃と食道の境界線のすぐ近くに、現代の標準的な医療では『見落とされるほど極小の変異細胞』が、今まさに静かに動き始めているはずだ。
(前世では、これが数年後に牙を剥いた。高校生の俺に突きつけられた時にはすでにステージ4。あらゆる治療が手遅れで、我が家は高額な自由診療の借金だけが残されて破滅した……)
膝の上で握りしめた拳に、じわりと嫌な汗がにじむ。
四十二歳までシステムエンジニアとして生きてきた俺は、システムに致命的な影響を与える悪質なバグが、いかに初期の段階で潜伏しているかを知っている。ユーザーが気づいて悲鳴を上げてからでは遅いのだ。プログラムが完全に書き換わる前の、今この瞬間に、その不正なコードを根本から抹殺しなければならない。
「親父さんは、まだ時間がかかりそうか?」
ふと、隣に源さんがいつの間にか現れて、缶コーヒーを俺の手に握らせてくれた。源さんには、今回の検査の身元保証人として同行を頼んでいたのだ。
「ええ、あと一時間というところです。源さん、色々と無理な融通を通してもらい、ありがとうございました」
「気にするなよ。お前の親父さんは、俺にとっても大切な親戚だからな。それにしても蓮、お前のその『確信』が本当なら、俺は本格的にお前のことを超能力者か何かの枠で再定義しなきゃならんぞ」
「超能力なんて大袈裟なものじゃないですよ。ただのデータ分析と予兆の検知です」
俺は缶コーヒーのプルタブを引き、苦い液体を喉に流し込んだ。
三時間が経過し、時計の針が正午を回った頃。病院の静かな館内に、機械的なアナウンスが響いた。
「佐藤誠さん、ご家族の方、第一診察室へお入りください」
「よし、行こうか、蓮」
「はい」
俺と源さんは立ち上がり、父親が待つ診察室へと入った。
部屋の中には、やや険しい表情で最新の液晶モニターを見つめる、初老の主治医が座っていた。誠はベッドの横の丸椅子に座り、少し首を傾げながら俺たちを振り返った。
「お、蓮、源さんも。わざわざすまないね。先生、やっぱりどこも異常なしでしたよね? 少し胸がつかえる気がしたのは、ただの疲れか、ちょっとした胃酸の悪戯で――」
「いいえ、佐藤さん。……ハッキリと言いましょう。驚きました。お連れのお子さんの強い要望がなければ、我が病院の一般的な健康診断や、普通の胃カメラでは、まず間違いなく一〇〇%見落とされていたであろう『極小の変異』が、最新の特殊造影超音波で見つかりました」
主治医の厳かな言葉に、誠の身体がビクッと硬直した。
「え……? み、見つかったって……先生、一体何がですか? 私は、どこか悪いんですか……?」
「これを見てください。胃の入り口、ほんの数ミリの領域です。特殊な初期の難病――いわゆる、超初期段階のがん細胞です。大きさは、わずか二ミリ。通常の検査光では、ただの粘膜の軽いヨレにしか見えないレベルのものです」
主治医がペンでモニターの一部をコンコンと指し示す。そこには、言われなければ、プロの医師でもただの影と見紛うような、微かな歪みが映し出されていた。
「が、がん……っ? 私が、がんですか……!? まだ、子供たちも小さいのに、そんな……っ」
誠の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。四十三歳の働き盛りの男、家族の大黒柱にとって、『がん』という宣告は、死の宣告に等しい絶望の衝撃だったのだろう。
「落ち着いてください、佐藤さん。話を最後まで聞いてください。本当に驚くべきなのは、ここからです」
主治医は眼鏡を押し上げ、信じられないものを見るような目で、中一の俺の顔を凝視した。
「普通、この段階で自覚症状を感知することは医学的にほぼあり得ません。そして、このレベルの小ささで発見された症例は、我が国の医療界でも過去に数例しかありません。つまり……『発症して牙を剥く前の、これ以上ない完璧なタイミング』で発見されたということです。今なら、お腹を切る必要すらありません」
「お腹を、切らない……?」
誠が縋るように主治医の言葉を聞き入る。
「ええ。来週、数日ほど検査入院という形で入院していただき、内視鏡を使ってこの数ミリの表面を薄く削り取り、最新の特効薬を局所投与すれば、一〇〇%完全根治します。後遺症もありませんし、生活への影響もゼロ、再発の可能性もほぼゼロです。ハッキリ言って、奇跡です。これをこの段階で見抜いて、最新検査を無理にでも受けさせた息子さんは……一体、どのような知識をお持ちなのですか?」
主治医の感嘆を含んだ問いに、俺はただ静かに頭を下げた。
「源さんのパソコンをお借りして、海外の最先端の医療データベースにアクセスして調べていたんです。父の普段の愚痴や症状をいくつか照合したら、この特殊なケースが一番確率が高いというアラートが出たので、念のためにと」
「論文を読んだだけで、この極小の変異を完璧に予期したというのか……。現代の日本の医師でも、この造影法を知っている者は一握りだぞ……。君は、本当に中学生なのか?」
主治医は信じられないといった風に頭を振り、カルテに「内視鏡手術の手配」を迅速に入力し始めた。
診察室を出て、特別窓口で会計を終え、病院の正面玄関を出る。
初夏の眩しい太陽の光が、青空から俺たちの頭上に惜しみなく降り注いでいた。
誠は、まだ狐につままれたような、夢の中にいるような足取りで歩いていたが、やがて立ち止まり、深く天を仰いだ。そして、俺の方をゆっくりと振り返ると、その大きな手で俺の肩をぎゅっと、痛いくらいに掴んだ。
「蓮……お前、本当に、父さんの命を救ってくれたんだな……。もし、お前の言葉を無視して、ただの疲れだと放置していたら、私は数年後、どうなっていたか……」
父の目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ち、アスファルトに黒いシミを作った。
「気にしないでよ、父さん。俺は、父さんにずっと元気でいてほしかった。ただ、それだけさ。だから父さん、もう何も心配しなくていい。来週の手術が終われば、またこれまで通りの、いや、これまで以上に健康な毎日が戻ってくるから」
「ああ……ありがとう、蓮。本当に、ありがとう。……源さんも、我が家の我が儘に付き合ってくれて、本当にありがとうございました」
「いやいや、親父さん。俺は何もしてないよ。全部、この蓮の化け物じみた執念と、技術の勝利さ。来週の入院の手続きも、俺の会社の名義でサポートするから、安心してしっかり治してきてくれよな」
源さんが優しく誠の背中を叩き、父は何度も涙を拭いながら深く頭を下げた。
俺は父の涙と、その安堵に満ちた表情を見て、胸の奥の仕えが、完全に消えていくのを感じた。
前世で家族を地獄へと突き落とし、俺の魂を摩耗させたあの絶望のカウントダウンは、発症することすらなく、この世から完全に消滅したのだ。
我が家の経済、そして健康のセーフティネットは、これで完璧に構築された。
次に向かうべきは、学校――そして、世界だ。
華の才能をさらに開花させ、俺たちのシステムを世界の頂点へと押し上げるロードマップが、より一層の輝きを帯びて動き始めようとしていた。
続きは12:20予定です




