1章-3 「陽だまりの終わり」
曇り空、それでも今日はとてもいい日だ。
今日もアルネと会える日だから。
スキップしながら礼拝堂に向かう。
木造の無造作な建物に囲まれた暗い路地を通っても、心は浮き足立っていた。礼拝堂に続く広場が見えたとき、横目に、知っている顔が見えた。
足を止めてあたりを見回すと、至る所に街ゆく人に紛れて『目』の者たちがいた。わざとらしく帽子を着脱したり、不自由なふりをして片足を一定のリズムで引きずったりしている。同じ国王の『目』の者たちにだけ伝わる合図だ。
ご主人様、あるいは国王陛下が痺れを切らしているのだろう。彼らと実際に目が合わなくとも、ずっとこちらに注意を向け続けていることが分かる。
そのうちの1人、宿屋の2階の渡り廊下にいる、リーダーにあたる長身の中年の男に、手で合図を送った。
分かっていますーーーー。
礼拝堂に着くと、教団関係者が家なき人々に施しをしていた。アルネもその中に混ざって籠からパンを取り出し、人々に平等に配っていた。その中には病の赤ん坊を抱えた母親や、両腕の傷口が腐り始めた老人もいた。
パンや新しい衣類を配り終わると、アルネは祈るポーズをとった。
「神々よ、精霊たちよ、どうかこの方々に祝福をお与えください。」
そう呟くと、アルネが黄色の光に包まれた。光は人々に飛んでいく。すると、赤子の頬の紅潮はおさまり、老人の傷もみるみるうちにふさがった。
人を癒して幸せにする優しい力だ。人を傷つけることしかできない私の毒の魔法とは違う。
人の波が引いた時、アルネは私を見つけて、真面目な顔から一変、子供らしい無邪気な笑顔になった。
「また来てくれた!待ってたよ!お庭の薔薇が満開になったの!」
そう言って走り出し、私の手をとった。
「ね、少しだけ!いいでしょう?」
アルネは振り返り、入り口に立つ教団の人々に許可を求める。彼らはアルネのお願いを微笑ましそうに、何も言わずに受け入れていた。
手を繋ぎながら中庭に向かう。薄桃色の俯きがちな満開の薔薇は、キャベツのように花びらが折り重なって、見応えがあった。
「綺麗です。とても、こんなに見事に咲いているのは、初めて見ました。」
「そうでしょう?セナちゃんにはぜっったいに、見せたかったの!
……あら?」
アルネはしゃがみ込み、薔薇の木の下部に手を伸ばす。アルネの目線の先に目を向けると、黒い点が薔薇の根元の方の葉をびっしりと汚していた。アルネは少し不機嫌そうな顔をして呟いた。
「やだ、黒星病だわ。悪くなった葉っぱは取り除かなきゃ…悪いものが広がっちゃう。」
そう言って、アルネは黒くなった葉を取り除いていた。その様子を見て、私も隣に座り、黒くなった葉を見よう見まねで取り除く。
こうして過ごしている間にも、アルネの信者は着々と増えていった。
各地の広場で聖女を信仰する者たちの集団が、独自解釈した教団の教えを説いて回っていた。教団本来の教えよりも過激さが目立ち、反対意見を言う者と争い、暴力沙汰で問題になることも増えてきた。
以前礼拝堂前でパンをもらっていた、あざだらけの腕をした老人は、彼らと共に行動し、
「聖女は我々を救うために現れた救世主だ!」
と四六時中叫んで回るようになった。
ほとんどの人が聞く耳を持たず足早に通り過ぎて行ったが、稀に足を止める人もいた。聖女を旗頭にした教団勢力は、緩やかではあったが、彼女の意思など関係なく、王権を揺るがす明確な脅威となりつつあった。
礼拝堂から出た帰り際、路地に入ったところに『目』の1人が立っていた。若くて目立たない顔の茶髪の男で、路地の壁にもたれかかっている。男の袖を引っ張り、娘のふりをして、その彼に話しかけた。
「お父さん、一緒に帰りましょ。青リンゴを買ってくださいな。」
男は私の手首を折れそうなほどぎゅっと掴み、歩きながら言う。
「セナ、今度こそ教団の演劇を見に行こう。次が最後の機会だ。」
ーー最後の機会、慈悲深いご主人様がくださった最後の…失敗は絶対に許されない。
「また朝起きられなかったら、罰としてもう二度とおやつは食べられないからな。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アルネの声がする。小鳥がさえずるような可愛らしい声。教団による希望の言葉を、今日もその声で語っている。
午後の説教が終わり、満足げな顔をした聴衆が帰ると、聖女は一直線に私の元に走ってきた。
いつものように手を握り、お花みたいな笑顔で、いつものように一緒に廊下を走りだす。アルネのふわふわとした髪が揺れている。こうしていつまでも一緒に走っていたい、そう思った。
けれど、私は足を止め、彼女の手を振り払った。
廊下には黄昏時の赤い光が差し、柱の濃い影が伸びている。
アルネが振り返る。その目からは驚きが読み取れた。
ブロンドの髪が夕日を浴びて、キラキラと輝く。薄桃色の瞳は睡蓮の花みたいだ。今はただ、その姿を、目に焼き付けていたい程に綺麗だった。
私の不審な様子に、アルネは不安そうに俯きながら呟く。
「…私ね、セナちゃんと会えて良かった。」
(私の方こそ、アルネと出会えて良かった。
ーーーそして、出会わなければ良かった。)
『ーーーーお前が役に立つ時が来た。』
その日は、たまたま聖女の護衛がいなかった。
「セナちゃん…?」
『お前はこの国の役に立てる人間なのだから。』
ご主人様の声が何度も反芻し頭に響く。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、アルネと一緒にいたい、アルネと友達でいたいー)
アルネが何かを言っている、けど、目の前が変に歪んで、聞き取れない。
『王家の敵は国の敵。そして、王権をこの国に遣わした我らが神の敵だ。』
ご主人様の声が私の声を掻き消していった。頭がぼんやりして、視界がぐらぐらと揺れる。
ご主人様の声に従い、私の足は一歩進む。
「セナちゃん…」
アルネが一歩下がった。
私の足はまた一歩進む。
無垢な聖女は、私の動きに呼応するように、また後ろに一歩下がる。
『王権を脅かす教団の教えなど、偽りだ。』
「ーーーセナちゃん、
私を殺しにきたの?」
一瞬、時が止まったように感じた。アルネは、今にも泣きそうな顔をしている。
ああ、本当に、嫌になるくらい
察しのいい人だ。
「痛みは、ありません。」
私の返答を聞くや否や聖女は逃げ出した。ロングスカートに引っかかりながらも懸命に走っていたが、私は彼女にすぐに追いついてしまった。彼女の手首を右手で掴み、そのまま左手で、首元にそっと触れた。アルネの頭がガクッと落ちる。きっと急な眠気に襲われたように感じていることだろう。
魔獣で何度も練習したのだ。アルネを苦しめない方法を探すために。痛みを少しも感じさせないように。
聖女の体から、ふっと力が抜けた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。)
手を離せば、今にも地面にぶつかりそうな彼女の体を支えながら、私は小さな声で何度も呟いた。でも、なぜ私は謝っているのだろう、分からない。それなのに、すごく悲しい。
せめて、苦しまないように、痛くないように、眠るような死をーー。
すると聖女は、力のない手で私の頬を撫でた。もう眠いはずなのに、必死に口を動かしている。
「ーーごめんなさい、
ー私では、あなたを、救ってあげられなくて。
あなたが…己の優しさに気がつき、他の誰でもない、あなたの為に、生きていけるように、祈って…い……」
暖かかった手が、床に向かってだらりと落ちた。
安らかで美しい顔だった。まるで明日を夢見て眠る子供のような。ただ頬を伝う一筋の涙が、彼女の悲しみを捉えていた。
なぜ、あなたが謝るのですかーーー?
私は聖女アルネをゆっくりと床に寝かせ、組ませた手に、百合の花を添えた。まるで神話の一場面のように、彼女の死を美しく飾れるように。
なぜ、あなたがーーーー
彼女の髪が夕日で蜂蜜色に光る。涙が自然と溢れ出してきた。止めようと思っても止められない。私は護衛にも、『目』にも見つからないよう、暖かい日が差す礼拝堂を後にした。




