織川佳奈恵③
ひっ、ひっ、と永遠に続くかと思われたしゃっくりも、次第に収まっていく。
やがて彼女は泣きはらした顔を上げた。文也に「……ありがと。もう撫でなくていい。見ないで」と声をかけ、ハンカチとティッシュでどうにかなるものだけ拭い去る。赤い目だけは仕方ない。
「……いじめのこと、覚えてる?」
ぽつりとつぶやく。
一瞬戸惑う気配があった。
「忘れられるわけがない」
「だよね。じゃあ、あのときの扇動した子がわたしの友達だったってことも」
「覚えてるよ。俺はその前からなんか嫌われてたみたいで、ほとんど話したことないけど」
「そうだったね。それね、わたしと幼馴染だったからだよ」
「何?」
「あの子、わたしのこと独り占めしたかったんだって」
すぐに反応はなかった。
「……は? それ、どこで」
「本人に聞いた。中一のゴールデンウィーク。……わたし、ゴールデンウィークに呪われてるのかもね」
「待て。それは」
「会いたい、謝りたいって連絡があったの。あの子と共通の、いじめに関係していなかった元の友達経由で。その子も同席するからってね」
「……行ったのか」
うん、と佳奈恵はうなずいた。
「知りたかった。本当は何であんなことしたのか。あの子は、一番の友達だったから」
◇
……佳奈恵ちゃん。
久しぶり。そして、ごめんなさい。あのときの私があなたにひどいことをして、本当にごめんなさい。ゆるしてほしいとはいえないけど、もう一度、ちゃんと謝りたかったの。あなたの顔を見て。
……うん。ごめんなさい。信じられないよね。あのときの私は最後までほとんど謝罪も反省もしてなかった。先生に言われてしぶしぶって感じだったもんね。今なら自覚はあるけど、あの頃の私は完全におかしくなってた。頭の中に火がついたみたいに熱くて、佳奈恵ちゃんに会うたびに気持ちがあふれそうになって、抑えきれなくなって、自分でも何がしたいのかわからないままあんなことしてた。ごめんなさい。
……そうだね、何を言ってるかわからないよね。……ああ、うん。ごめん。ちゃんと話す約束だったよね、今日は。そんな呆れた顔しないでよ。私も、今は本当に馬鹿だったって思ってるんだから。……ごめん、佳奈恵ちゃん。私があのとき何を思ってたか、だよね。簡単なんだ。
佳奈恵ちゃんのことを、独り占めしたかったの。
……そんな顔にもなるよね。いじめを起こして、あんなひどいことたくさん言って、たくさん傷つけて何を言ってるんだって思うよね。でも、本当なんだ。本当に、あのときの私はそんなことを考えていた。
そもそも初めて会ったとき、私はあなたに見惚れたって、気づいてた? ……ははっ、そりゃそうか。佳奈恵ちゃんにとっては普通のことだもんね。でも、私にとっては普通じゃなかったんだ。あのとき私はあなたの瞳と笑顔に、一目惚れした。気持ち悪いと思う? ……うん、私に聞く資格はないよね。ごめんなさい。それでもね、私はあなたが好きだったことはわかってほしいんだ。
それからは、幸せだったよ。佳奈恵ちゃんと友達になれて、毎日おしゃべりして、遊びにも出かけて、楽しかった。嬉しかった。これだけで私、一生分の幸運を使ってるんだなって本当に思ってた。
でもね、なんでかわからないんだけど、段々それだけじゃ満足できなくなるの。佳奈恵ちゃんは人気者で、他にもたくさん友達がいて、男たちも無視できなくて、先生にも好かれてて、みんなに優しかったじゃない。私はその中の一人なんだなって思ったら、我慢できなかったの。
頑張ったよ。佳奈恵ちゃんに好かれたくて、たくさん努力した。佳奈恵ちゃんが喜ぶ話とか、表情とか、遊びとか、全部付き合った。好きな動画も見たし、佳奈恵ちゃんが好きそうなやつ探して教えてあげたりした。頑張ったけど、大変じゃなかった。佳奈恵ちゃんに好かれるためならどんなこともできた。佳奈恵ちゃんの笑顔が見れるならそれだけで良かったの。
しかもさ、佳奈恵ちゃん、言ってくれたよね。
「一番の友達だよ」って、私のこと。
あれ、嬉しかったなあ……本当に、本当に嬉しかった。
だから幸せだったんだよ私は。世界中で誰より幸福だと胸を張って言えたんだよあのときの私。
……でもさ、嘘だったじゃん、あれ。
佳奈恵ちゃん、私より、あの男を優先したこと、あったよね。幼馴染だからとか、先に約束したからとか言って。あいつと話してるとき、私といるより楽しそうだったよね。見てればわかるよ。私がどれだけ佳奈恵ちゃんのこと見てきたか、知らない? 知らないよね。佳奈恵ちゃんは、いつもそんな風だったから――
……ああ、はい。ごめん。ごめんなさい。ちょっと熱が入っちゃったね。まだ当時の気持ちが少し残ってたのかな。えへへ、みっともないね。まだ引きずってるんだから。
まあそんなわけでさ、小五の当時、私は幸福と不満を同時に抱えてたんだ。進級して、また同じクラスになれて嬉しかったんだけど、心の奥ではずっとイライラしてた。佳奈恵ちゃんはそんな私に全然いつも通りで、どうして気づいてくれないのかなって思ってた。
しかも、学年上がってからの新しいクラスメイトと仲良くしようとしてたでしょ、あのとき。私が家族旅行で行けないって言った日に、わざわざ新しいクラスメイトばかり集めて遊んでたでしょ。
……あ、それは覚えてくれてたんだ。そうだよね。私、泣いたもんね。なんで私のいない日に遊びに行くんだって佳奈恵ちゃんに泣きついたもんね。佳奈恵ちゃん、あのとき優しかったね。おろおろしながら慰めてくれて、困った顔して、……その日は、私のことだけ構ってくれたよね。
あの顔……そうだね……あの顔がいけなかった……あの、佳奈恵ちゃんの申し訳なさそうな、私だけを思ってくれる顔……
また、見たくなったの。
だから、ちょっと意地悪してみた。クラスの子と話して、一日佳奈恵ちゃんのこと無視してみようって。
そしたらさ、佳奈恵ちゃん、すごく困っちゃって。どうしたの、どうしたの、って私に何度も尋ねてきて、返事がないのに泣きそうになっちゃって、可愛かったね。とっても可愛かった。
もっと見たくなったんだ。
無視したり、わかるように意地悪に笑ってみたり、陰口叩いたり……その内、直接悪口を言うようになって。
佳奈恵ちゃん、知らなかった顔をたくさん見せてくれたね。
すごく、すごく嬉しかったんだ、私。
なのになんで私が佳奈恵ちゃんと離されなきゃいけないんだって、信じられなかった。
……あれ、どうしたの、そんな顔して。
もしかして佳奈恵ちゃん、知らなかったの?
『あの頃の私は……ううん、私たちはみんな、佳奈恵ちゃんに夢中で、佳奈恵ちゃんのこと大好きだったんだよ?』
――なにそれ。
話を聞いて、すぐに湧き出たのは呆れだけ。
しばらく経ってから次第に、異なる感情が忍び寄っていた。
◇
「同席してくれた子と二人で、呆然としちゃった」
「……だろうなとしか言えない」
「謝るって話だったけど途中から全然謝ってなくてさ、やっぱり心から悪いこととは思ってないみたいで、しかも最後には連絡先まで聞いてきて、すごかったよ」
「とんでもねえ話だ」
文也は重苦しい息をついた。
「それが中一のゴールデンウィークか。とすると、その後に俺と距離を置こうとしたのはそれがきっかけね」
「そう。さっきは気づきって言ったけどさ、要するにこんなヤバいこと考えてるやつがまだいるかもしれないなら、対策しなきゃいけないって思ったの」
「道理だな」
「でもね、それだけじゃない」
「ん?」
「わたし、彼女が怖かった」
「そりゃそうだろ。話聞いただけの俺でさえ怖いよ」
「彼女だけじゃない。もしかしたら他の人も全員そうなるかもって思ったら、もっと怖くなった」
「それは考えすぎじゃ」
「わかるかもしれない、って言ったの」
「……誰が」
「同席してくれた子。二人で逃げるみたいに帰る途中に。絶対ダメだけど全く気持ちがわからないわけじゃない。わたしの顔をずっと見てるとおかしくなりそうなことがあるって」
「……」
「困っちゃうよね。別に欲しくて手に入れた見た目じゃないのに」
「……それで、俺もそうなるかもって?」
「文也のことを信じてなかったわけじゃない。誰より信じてた。信じてるよ、ずっと。今でも」
ずず、と佳奈恵は鼻をすすった。
「でも、そんな文也がわたしを裏切ったら? そんな考えがずっと心のどこかに居座ってたの。そんなわけないって押し込めて、どこかに追いやってもなくならなくて、怖くて怖くて仕方なかった。……だから、先に離れたの。わたしから距離を取って、あの子みたいな人たちが出てもどうにでもできるくらい強くなってから、また会いに行こうって思ったの」
「……なるほどな。色んなことに納得いった」
「……怒らないの?」
「今の話を聞いて怒れるやつは頭がおかしい。いや怒ってるけどな。いじめを起こしたやつには」
「……ありがとう、ごめんね」
――文也なら、そう言ってくれるとわかっていた。
わかっていてなお尋ねてしまう自分がやはり佳奈恵は嫌いだった。
かつての友達、いじめを扇動したあの子のことを、彼女は恐怖しながらも理解していた。
共感があった。
彼女は彼の方を見た。縁石の上でうずくまる彼女と同様に腰をかがめ、少し見上げるように見つめてくる彼の顔。困っているような、怒っているような、悲しんでいるような。
――悩ましい顔。
彼女だけを心配している、彼女だけの幼馴染の顔。
佳奈恵はその顔を見るのが好きだった。胸がうずきながらも、あたたかいものも彼女の中に満たしてくれる。その顔を見るといつも安心し、ひそかに喜びを覚えていた。
どこかでいけない気持ちだと気づいていた。
あのおぞましい告白を聞いて、同じだ、と完全に自覚させられた。
――わたしも文也を歪めていたんだって、あんな醜かったんだって、わかっちゃった。
だから離れた。
これ以上、彼を自分に巻き込んではいけないと言い聞かせて。
四年、離れても平気だった。さびしくても我慢できた。
他の人と付き合って、好きになって、その腕の中で安心を覚えたときようやく彼女は彼への思いにけりをつけられる気がした。
だけどその恋人から浮気を白状されて、何もかもわからなくなった。
どうすればいいかの前に、どう思えばいいのかさえ彼女にはわからなかった。
たった一つ、思いついたことはあった。ひどいこと。やってはいけないこと。だからこそ、自分も相手も傷つけるからこそ決着をつけられる手段。
問題は、頼れる相手がいないということだった。もちろん理解していた。そんな相手は一人しかいない。彼しかいない。彼に頼れるわけがない。
――わたしは、どこにも行けなかった。
なのに、まさにその日にこの道でばったりと出くわしてしまうなんて思ってもみなかった。
『……ふみや?』
その上、
『何かあったのか』
彼はまるであの頃のように、何のわだかまりもなく彼女に声をかけてきたのだから。
彼はあの顔を浮かべていた。
たったそれだけで四年の決心はあえなく崩れ去った。この、彼女一人ではどうしようもない状況を抜け出すための光明がやってきてしまった。
帰宅後、自分の部屋で彼女は一人、スマートフォンを手にし、画面を見つめた。悩んでも答えは変わらず送信し、すぐに既読がついたけれど返信は見なかった。『わたしも浮気してくる』という短いメッセージがどれだけ相手を傷つけるか、想像できてなお彼女にはそれ以外の道がなかった。
連絡を取り、次の日に彼のもとへ向かって、言い放ったのだ。
『彼氏が浮気した。――だから、わたしとセックスして、文也』




