織川佳奈恵④
今更ながらバカなことを言ったと恥ずかしくなって、ははっ、と彼女は誤魔化すために笑った。
「佳奈恵?」
文也が心配そうに尋ねてくる。
――ごめんね。またあなたのその顔にすがってしまって。
立ち上がらなければいけない。もう心配しなくていいと証明するために。
彼女は足に力を入れ、よ、と声を出した。
簡単なことだ。いつもやっているんだから。
「大丈夫だよ、文也。そんな、子どもを見るような顔しなくても」
声は出る。少しかすれてはいるけれど、もう揺れてはいない。
まだ足元で彼女をいたわっていた姿勢のままの彼に言わなければいけないことがある。
「いじめも、浮気も、わたしだけに起きたことじゃない。文也も言ってくれたよね。世の中にありふれていることなんだ」
春真を思い浮かべる。
あの、自分を過小評価し続けていた優しく彼女に好意を注いでくれた人を。
彼は間違えたのだろう。きっと後悔し続けるだろう。彼女自身も傷つき、傷つけた。それでも、彼が彼女に与えてくれた一年間は嘘にならない。忘れない。
「もちろん、どちらもとても人を傷つけることで、ときには人生さえ変えてしまうことだけど……」
かつての友達が思い浮かぶ。
あの、彼女への愛が強すぎたあまりにいつしか歪んでしまった悲しい少女。
あの子は今もあのままなのだろうか。苦々しく思うけれど彼女にはどうすることもできない。ただ、あの歪みは自分にもあるということをなかったことにはしない。
「だからってそれで立ち止まったら、悔しいじゃない」
足の次は、背に力を入れて、軽く胸を張る。顔を上げる。
結構泣いた。直後の顔がどれだけみっともないか考えたくない。それでもしっかりと彼の目を見て、表情をつくる。
「わたし、これまで頑張ってきた。文也も知ってるよね。ずっと見ていてくれてたんでしょ?」
きっと自然な顔ではないけれど、今の自分ができる最高を彼に見せないといけないから。
「これからも頑張るから。くじけたりしないから。ちゃんと、見てて」
「――」
文也は目を見開いて彼女を見上げていた。口をわずかに開け、まるで幼い子どものような無防備な顔をさらしていた。
数秒、二人はそのままだった。
佳奈恵はいぶかしげに首をかしげる。
「文也?」
「……ああ、うん。うん、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
と言って、彼は立ち上がった。顔を上げるともう普段の表情、というにはまだ少し気が緩んでいる様子だった。
「……そっか。そうだよな。そりゃそうだ」
彼女の方に顔を向けず、何やらぶつぶつとつぶやいている。
「何、どうしたの?」
「うん。あー、うん。なんだろう。勘違いしてたな、俺、ってようやく気付いたというか。そもそも間違ってたというか」
「勘違い?」
「そうだよなー、人は成長するんだから、変わるよな。当たり前だ。それが悪いだけのことなんて、絶対ないのにな。なんで気づかなかったんだろう……あの頃が一番だなんて、決まってるはずがないのに……」
「意味わからないんだけど」
佳奈恵は眉をひそめる。
文也はそんな彼女にかまわず一人で考え込んでいたが、不意に顔が緩んだ。
へらっと笑った。
それは幼い頃、二人にまだ傷一つなかった幼いあの頃に、文也がよく浮かべていた、能天気な笑顔だった。
彼はそのまま彼女と目を合わせた
「――良かった。かなちゃんが元気になったみたいで」
「は……」
また涙が出てきそうになって、慌てて佳奈恵は顔を背ける。足を踏み出す。
「帰ろ! わたしのせいだけど、このままじゃ日が暮れちゃう」
彼女はまた鼻をすすり、縁石の上を危なげなく進んでいく。
「まったく、文也はまたすぐそういうこと言う」
「ちょっと待って。え、俺なんか今怒らせるようなこと言った?」
「は? 気づいてないの? まさか無自覚?」
「え、何? 今俺が言ったのって……あ」
「かなちゃんってさあ、この前は久しぶりだったからウケたけど、また言う?」
「あああああ……」
「いくつだと思ってんの、お互い」
「やめ、やめてくれ。つい。おおおお……俺は何で……」
少し後ろから文也のうめき声が聞こえる。佳奈恵は少しだけおかしくなって、ふふっ、と声を漏らした。
――今日、失ったものがある。
彼女にとってとても大きな、大事なものだった。思い出せばまだ苦しい。胸がうずく。当分はこの傷心を抱えていくしかない。
――今日、久しぶりに見たものがある。
彼女にとっては懐かしく、忘れていたものだった。それよりもずっと心を奪われていたものがあって置き去りにしていた。なのにそれを目にした瞬間、色鮮やかによみがえったのだ。
軽やかな気持ちで痛む心とともに彼女は歩を進める。
生ぬるい空気を一瞬風が連れ去っていく。
全身を包む匂いが遠い昔に同じ道を彼と並んで走った思い出を呼び覚ます。子どもたちのはしゃぎ声、少しだけ形を変えた住宅街、遠くの空にうっすらと雲を彩る虹の端っこ。あの頃は名前も知らなかったペトリコール。
失ったものとまた会えたもの。
変わったことと変わらないこと。
――わたしは、それが怖いだけじゃないともう知っている。
雲の隙間から日差しが現れ、二人を照らす。
夏はもうすぐそこに迫っていた。




