織川佳奈恵②
高校入学後、佳奈恵は中学時代と同じようにすぐに人気者となった。
――パンダみたいなものだよね。
多くの人にとって自分は見世物の動物と同じだ。好かれ愛され、一挙手一投足に注目が集まる存在。佳奈恵は自分をそう定義していた。
もちろん友人となる人もいる。大半の女子はそうだ。中には嫉妬したり、遠ざけたりするものもいるが、それは普通の人間なら誰しもありえることだ。彼女への対応は少し極端になりやすいだけ。
反面、男子の扱いは難しかった。十代後半の男性にとって彼女は非常に魅力的な存在だ。高嶺の花として遠巻きにするものも多いが、中には直接口説きに来るものもいる。中学時代と同じと言えば同じだが、男女の体格の違いが明確となってきて、内心怖気づくこともあった。
結局、基本的に彼女がやることは変わらない。信用できる同性グループを作ること。信用できる異性とも交流すること。あとは薄くとも幅広くつながりを持ち、知り合いを増やすこと。
社会の中に自分を置いて、着実に味方を増やす。
リスクとリターンを天秤にかけて、彼女はこの戦略を取った。最適解かどうかはわからない。けれど彼女にも可能であり、一定以上の効果はあった。
その上で、最も強力な手段を取るかどうかは悩んでいた。
恋人を作るかどうか。
文也とのことはさすがに高校入学時にはもう吹っ切れている。自身から離れ、当然疎遠になり、気づいたときにはどのように接すればいいかわからなくなっていた。
中学の卒業式、一瞬目が合ったのだ。文也から卒業証書の入った筒を持った手を軽く掲げてくれて、佳奈恵もそうした。言葉もなく、三秒にも満たないやり取り。たったそれだけ。
二人の中学時代は、一年の一学期から先ほとんど交流がないままにして終わった。
彼はもう『カレシ』ではない。そのように扱っていい人ではない。自分から求めたくせに、自分から身勝手な理由で手放したのだ。
文也は頼れない。当然のことだ。
『佳奈恵なら選び放題でしょ』
と、友人は言う。
間違いではない。けれど、彼女はそもそも選びたいと思っていなかった。いい人が現れてくれるなどという期待もなかった。恋愛という関係を構築すればその部分の隙間を埋められる。そんな理由で人を選ぶのは失礼だと考えていたが、そんな理由で誰かを選びたくなるほど向けられる視線は鬱陶しかった。
佐城春真のことを、当初何とも思っていなかった。
無論、友人グループの一員とみなしていた。人よりも目端が利き、感情を抑制し、円滑にコミュニケーションを回す人だなと思っていた。
同時に「わたしに気がある」ことも佳奈恵にはわかっていた。表面上普通に交友していたが、彼女にとっては飽きるほど向けられてきた視線の一つだからだ。また、彼も彼女自身にはさほど隠す気はなかったのだろう。穏やかに差し出されるような好意を感じる瞬間は幾度もあった。
彼に自分と同類の匂いを感じたのはいつのことだろう。
グループでの交流からふたりきりでのデートに誘われたとき、佳奈恵が受け入れたのは、もしかしたらその時点で感じ取っていたのかもしれない。
デートを重ね、改めて彼を観察して確信した。彼は似た者同士、同類だと。
自分はこのように生きていくしかないのだ、という諦観を抱えた人物であると理解した。
まったく怖くない人だった。
だから、彼に告白されたときのことをよく覚えている。
『わかってると思うんだけど……きみが好きなんだ。俺と付き合ってほしい』
自分の言葉に恥じらっているのか顔を赤らめながら真剣に見つめられ、すごいな、と佳奈恵は思った。
彼女や彼のような人物が築き上げた仮面を壊してまで一歩踏み出したそのことに尊敬し、うれしい、と感じたのだ。
付き合ったのは、そんな理由だった。
◇
「……わたし、思ったより春真くんのこと、ちゃんと好きだったみたい」
ぽつりと佳奈恵はこぼした。
「何を今さら」
と文也は言った。
「最初は、そんな気持ちじゃなかったんだ。高校入って色んな人からアプローチされて鬱陶しかったから、誰かと付き合えば多少は減るかなって考えてた。春真くんは、その中で一番条件が良かった。だから試しに付き合った」
「ふーん」
「軽蔑した?」
「いや、そういう自虐と露悪に興味ないだけ。さっき注意したし、二度も同じこというのはアホくさい」
「……主観としては、正しいんだけどな」
「落ち込んでるときの主観なんてあてになるか」
鼻で笑う音がした。
「ま、話したいなら聞くよ。どうせ付き合っていく内に相手の良いところに気づいて惹かれていったとかそういうあれだろ」
「……」
「で、最初にそういうってことは打算込みで付き合ったって認識がずっと邪魔して自分の好意に気づかなかったとかだろう」
「……うそでしょ。なんでわかるの」
「ほとんど佳奈恵が口に出したことで、あとは態度見てりゃわかる」
「なに、態度って」
盛大なため息。振り向かずとも彼が呆れ果てた顔をしていることが佳奈恵には容易に想像できた。
「あんな落ち込んだ姿見せといて、好きじゃなかったとかありえない」
「……そんな落ち込んでた?」
「地の底まで落ち込んで正気を失った人間でもなければあんな頼み事はしない」
うんざりと言わんばかりの声音による断定に、佳奈恵は思わず彼をまじまじと見つめ、真顔でうなずいてしまう。
「そうかも」
「そうかもじゃなくてそうなんだよ。自覚しろ。好きだった恋人と別れたんだ。ちゃんと落ち込んでいいんだよ、佳奈恵は」
「……ん」
佳奈恵は笑みを浮かべて、ありがとう、とつぶやいたつもりだった。
声にならなかった。
彼との思い出が脳裏に浮かぶ。
喫茶店、映画館、お買い物、カラオケ、水族館、遊園地、ぶらぶら街を歩くだけ……いろんな場所に二人で行った。
たくさん話をした。
はにかんだ顔、びっくりした顔、喜んだ顔、申し訳なさそうな顔、情けない顔も頼もしい顔も、様々な表情を見た。
きっと彼女も見せていた。
その日々が、今日、終わった。
こみ上げてくるものを佳奈恵は抑えようとした、はずだった。
「……なんで」
涙があふれてくる。
こらえようとすると、ぐちゃりと顔が歪む。
――ダメだ。
隠していたものが、こぼれ出てくる。
◇
ゴールデンウィークから春真の様子がおかしいことに、佳奈恵は早々に勘づいていた。
普段通りを装っているが、ぎこちない。
ふとした瞬間、奇妙な顔を向けられていることに気づく。
苦しそうな顔をしたと思うや、熱に浮かされたように虚空を見つめている。
何かあったのだろう、と近しいものであれば誰でも気づく。そして、彼が彼女に向けている感情で最も大きいものが罪悪感であろうことにも、表情を見れば察せられる。
一度尋ねてみたが、誤魔化されたことで彼女は追及をあきらめた。というよりも、知らない方がいいことだと判断した。
『……ごめん』
――なのに、なんでこの人は白状しちゃうかなあ。
放課後、普段通りに一緒に帰っている最中、春真は突然謝ってきたのだ。
実際のところを言えば、佳奈恵には予感があった。彼の顔色は悪く、まとっている空気も重い。明らかに隠していなかった。隠せなくなっていた。
そうして、彼はゴールデンウィークの最中、彼の幼馴染との間に起きた出来事を語った。
『……それで、春真くんはどうしたいの』
佳奈恵自身も驚くほど硬い声が口から出た。思考が回らない頭の中で形になった言葉はそれだけだった。
『どう……いや、俺には何も言えることがない。言い訳出来ない。俺は浮気したんだ……きみに、これ以上隠していられなかった』
彼の返答に、彼女は困ってしまった。
自分の中に答えを出せるものがなかったから彼に尋ねたのに、そこにも何もない。
今は何も考えられない。あとでまた連絡する。そう言って彼女は彼とは別れ、一人帰宅した。
ぼんやりと歩きながらやはり先のことは考えられず、ただ「あれが失敗だったな」と他人事のように考えた。
友人の初体験自慢のとき、春真が意識したことに気づいてはいた。
後に喫茶店でそういう目で見られていると感じて、口にしてしまった。
『わたしはセックスしたくない。少なくとも、高校を卒業するまでは』
けして不快ではなかったのに、一方的に拒絶した。
――わたしが、弱虫だったから。
◇
「ぜんぶ、うそ」
佳奈恵は涙を流しながら思いを吐き出した。
「卒業するまで、大人になるまで、なんて、言い訳」
しゃくりあげながら、途切れ途切れにこぼしていく。
「わたし、ただ、こわかっただけ。セックスするの、こわかったの」
子どものようにぼろぼろと泣きながら、捨て去れなかった虚飾を打ち明ける。
「高校生になったらふつう、とか、いつまでもとっておくのはださい、とか、どうしてみんな、そんなこというの」
築き上げてきた「強い織川佳奈恵」はもうどこにもいない。
「こわい……こわいの、ふみや。わたし、ずっと、こわかった」
隣に気配がある。そっと背中に何か温かいものが添えられる。
「何が怖かったんだ」
「……ぜんぶ。ぜんぶ、だよ」
「そうか。それは大変だ。頑張ってきたんだな」
背中を撫でられる感触と、優しい声に彼女はたまらず、さらに涙を流していた。
気づけば、縁石の上にうずくまっていた。




