織川佳奈恵①
――なにそれ。
話を聞いて、すぐに湧き出たのは呆れだけ。
しばらく経ってから次第に、異なる感情が忍び寄っていた。
◇
とん、とん、とん、と一定のリズムで織川佳奈恵は歩を進める。縁石の上、両手を軽く広げてバランスを取り、軽快に渡っていく。
「転ぶぞ」
すぐ隣、ほんの少し後ろから声が届く。佳奈恵は笑った。
「子どもじゃあるまいし、大丈夫だよ」
「子どもじゃあるまいし、そんなことするなよ」
加賀美文也は嘆息した。佳奈恵は気にせず縁石の上を行く。
二人は駅からの帰り道である住宅街の中をともに歩いていた。佳奈恵は「付き添わなくていい」と言ったのだが、「顛末くらい教えろ」という文也の求めももっともであり、折衷案として待ち合わせすることになったのだ。
佳奈恵が話し合いを終えて、まだ一時間も経っていない。
彼女が電車に乗っている間に雨はやみ、今はどんよりとした曇り空が広がっている。
「別れた」
佳奈恵は前を見ながら唐突に切り出した。駅から歩きだして十数分、初めてそのことについて触れた。
「そうか」
「まあ、そうするしかなかったよね。悪いことしたな」
「……佳奈恵が悪いことはないだろう。先に浮気したのは向こうだ」
「同罪だから。順番の話じゃない」
ちらっと佳奈恵が横を見ると文也は顔をしかめていた。納得していないようだ。それがなんだかおかしくて、佳奈恵は言うつもりのなかったことをぽろっと口にしてしまった。
「それに、順番だっていうなら、やっぱり悪いのはわたしかも」
「は?」
佳奈恵は「あはははは」と声をあげて笑う。
「何言ってんだ。佳奈恵が先に浮気したってこと? 何の冗談?」
「そうなるよねえ」
「なら、相手は誰だよ」
ん、と佳奈恵は手を広げたまま、指だけで文也を示した。
「事実誤認やめろ! それこそ順番が逆だろ」
「うん、そうだね。これも間違い。正確には、春真くんが浮気相手だったんだ」
もういいや、言ってしまえ。
そんな気持ちで佳奈恵はこの四年、心に引っかかり続けていた思いを口にした。
「四年前に言ったでしょ。距離を置きたいって。そう、距離を置いただけ」
縁石の上から、少しだけ彼を見下ろして。
「わたし、文也と別れたつもりなんて、なかったよ」
◇
佳奈恵の十六までの人生には、三つ、大きな転機があった。
一つ目は、文也と付き合ったこと。
二つ目は、文也と距離を置いたこと。
三つ目は、佐城春真と付き合ったこと。
全て男絡みであることに佳奈恵は自分自身どうかと思ってはいた。今回のことが四つ目に加わるのであろうことを思うとなおさらに。
ただし、文也とのことに関しては色恋の話に限らないのも確かだ。そこを起点として変化したことは事実だが、変わらなければならない事情があった。
いじめ。
佳奈恵にとっても思い出したくない出来事だった。
小学五年の五月の半ばから、佳奈恵は仲の良い友人たちから無視されるようになった。話しかけても返事がない。目も合わせられない。そのくせ、離れた場所からくすくすと聞えよがしに笑われる。そんなことから始まった。
当初、佳奈恵は何かの間違いだと思っていた。いたずらか何かかもしれないと。まだ悪意というものを言葉の上の意味ですらよく理解していなかった彼女にとって、その状況はあまりに不可解だった。
だから友人たちに無視されてなお近づき、話しかけ、うろたえて、果てには自分が何か不快なことをしてしまったのかもしれないと謝罪までした。
ついに返答はあった。
罵倒という形を取って。
かつての友人たちは佳奈恵を囲み、外からは彼女の姿を見えないようにした上で、楽しげに蔑みの言葉を口々に投げかけた。声高に叫ぶことはなかった。笑いながら、友人グループで仲良く会話しているような調子で少女たちは佳奈恵を弄んだ。むしろ佳奈恵が耐えきれずに叫んだくらいだ。それを「どうしたの? 何か嫌なことあった?」とさも心配そうに一番の友人だった少女がにやにやとした笑みを向けてきたとき、佳奈恵は本当に何もかもがわからなくなった。
結局、いじめがあった期間は一月ほどだ。長いととるか短いととるかは人によるだろう。少なくとも、小学五年生になったばかりの佳奈恵にとってみれば長かった。
学校と保護者の介入によって物理的に加害者と被害者は離されたが、それだけで何もかも解決するわけではない。
佳奈恵の心には深い傷が残った。
『佳奈恵、帰ろ』
幼馴染である文也のことさえ信じられなくなっていた。教室に迎えに来る彼に連れられてともに帰宅し、同性の友人が増えて疎遠になる以前のように彼の部屋で放課後の時間を過ごすことが多くなったが、心を許してはいなかった。
信じたいとはそのときの佳奈恵も思っていた。できなかった。
ある日、佳奈恵は疲れきった声を出した。
『……なんで文也くんはわたしのそばにいるの』
文也の部屋で、二人でゲームをしている最中のことだった。
『なんでって……友達だから?』
『信じられないよ……あの子も、わたしのこと友達だって言ってた』
あの子。
一番の友達だと思っていた同級生の少女。小学三年から知り合いってからずっと、佳奈恵は彼女を疑うことさえなかった。
『友達なんて、うそだよ』
たった一月で二年間の思い出は嘘偽りとなり果てた。
この事実が信じたいという願望そのものを恐怖に変えて彼女を蝕んでいた。今の彼女が受け入れられるのは両親だけであり、家族は友達ではない。
友達は家族にならない。
だから、
『友達がダメならなんでもいいよ』
彼女が築き上げた防壁の隙間を突くような一言に、すがってしまった。
『幼なじみでも、召使いでも、ボディガードでも。好きにして』
『なんでも……?』
一つだけある。家族ではない。友達でもない。特別な関係。
『じゃあ、わたしのカレシになって』
ざあざあと降りしきる雨の音を佳奈恵は覚えている。
きっとこの一言が間違いの始まりだった。佳奈恵は理解していた。それでも、この間違いがなければどうにもならなかった。
以降二年、佳奈恵は文也にただ心を預けた。
◇
文也はこれ以上ないほど混乱した様子で固まっている。
佳奈恵はにこりと笑った。
「う、そ」
三秒後、文也は愕然と目を見開いた。
「……は!?」
「うそうそ。さすがにあれは自然消滅だった。いくらなんでも四年間ほぼ交流なくて付き合ってる認識はありません」
「んなっ……この……」
「そこまで驚くとは思わなかったな。ごめんね」
「……心臓が止まるかと思った」
「そこまで。本当っぽく聞こえちゃったか。まあ実際、一割くらいは本当かもしれない」
「もうやめろバカ」
「やっぱそこまで多くないかも。五分、一分、五厘……一厘くらい?」
「小数点以下じゃねえか」
「そのくらいちっちゃくはあるけど、心残りだったのは本当」
佳奈恵はまた歩き出した。縁石の端からひょいっと降りて、次の縁石に足をかけ、上がる。
「本当に別れるつもりはなかったんだ、あのとき。言葉通りただ距離を置くつもりだった」
「もう一度ちゃんと友達をつくりたい、だっけか」
「よく覚えてるね」
「そりゃな。長いリハビリが終わったんだなって感慨深かったし」
「あー。やっぱそんなふうに考えてたんだ」
佳奈恵は眉尻を下げる。
「リハビリか。そういわれても仕方ないね。あの頃のわたしは文也に依存してたから」
「依存ってほどひどくはなかったよ。特に小学校卒業の頃にはもうほとんど影響なかったろ」
「外面はね。中身はダメ。わたし、あの頃まわりにいた人たちを友達だなんて全然思ってなかったから」
「……」
小学校卒業式の日、佳奈恵は多くの同級生に囲まれ、別れを惜しまれたことは確かだ。表面上は同様の対応をしたが、内心では早く離れたがっていた記憶が彼女にはある。
「さすがにこのままじゃいけないって思ったんだ。中学から人間関係変わっていい機会だったのもあるし……きっかけというか、気づきもあった」
「気づき?」
「めちゃめちゃモテてたじゃない、わたし」
文也から呆れの気配がただよってくるのを感じ、佳奈恵は「真面目な話」と付け加えた。
「……まぁ、そうだな。小学校までもそういうのはあったけど、中学からはすごかったな」
「でしょ。多少見た目がいい自覚はあったんだけど、どうも想像以上っていうか、まずいなって思ったんだよね」
「モテるからって幸福なわけじゃないよな」
「それもある。それ以上に、わたしの見た目はわたしの想定を超えて人を引き寄せるもので、これをあのまま放置するとひどいことになると予感があった。というか、実際一度ひどいことになったわけで」
「……」
「コントロールしなきゃいけないって思ったの。この顔が惹きつけるものを制御できる強さがほしいって」
ふうっと佳奈恵は一息つく。
「だから文也と離れた。あなたのそばにいると、わたしは弱いままでもゆるされちゃうから」
「……言ってくれれば」
「手伝ってくれたでしょ。あれ以上甘えられなかった。それにね、ちょっとずるい考えもあったよ。本当にどうしようもなかったら文也のところに逃げ込もうって思ってた」
「保険扱いかよ。いいけどな」
何がおかしかったのか、文也が笑う。
怒ってくれていいのに。佳奈恵はそんな彼の様子を見て軋む胸を無視する。
「わたしは、人間関係に振り回されないようになりたかった」
「……それは、叶ったのか?」
「半分? 事故みたいにどうしようもないことはあるしね。でも、無駄じゃなかったよ。高校入ってからはかなり楽になったし」
佳奈恵は苦笑した。
「彼氏もできた。別れたけど」
「向こうの失敗だろ」
「ううん。今思えば、春真くんは薄々わたしの未練に気づいてたかもしれない。結局、信頼し合える関係を構築できていなかったのが問題。隙があったんだ、わたしたちの間には」
「だからって」
「いいの」
佳奈恵はさえぎった。それ以上言わせたくはなかった。
「あまり彼のことを悪く言わないで。この一年間、嫌なことなんてほとんどなかった。楽しいことばかりだった。それは彼のおかげだったから」
「……」
「ごめんね。文也はわたしの味方だからそう言ってくれるけど、やっぱりわたしが悪かったんだ」
「……せめて、『が』って言うなよ」
「……そうだね、言い直す。わたしも、悪かった」
見上げると、雲がうごめいている。灰色の陰影が形を変え続ける。佳奈恵はそこに何か象徴的な絵を見出そうとしたが、特に閃くものはなかった。




