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浮気者にも夏は来る  作者: 雑木


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6/11

佐城春真②

 佐城春真という人間は「それなり」で構成されている。

 彼自身はそのような認識で高校に入学するまでを生きてきた。もちろん幼い頃からの考えではなく、成長するにつれて無意識のうちに醸成されてしまったものだ。

 たとえば、彼は容姿に優れている。――精々ひとつの学校の中での話だ。際立って耳目を集めるほどではない。

 たとえば、彼は勉強や運動ができる。――努力して、ようやく一般層の上位に行けるというだけ。プロや専門家を目指すほどの才能も情熱もない。

 たとえば、彼は人気者だ。友達も多い。――それこそ虚像だ。その場その場でスムーズに人間関係を回すために振る舞う役回り。友達と本当に呼べる相手がどれほどいることか。

 彼も普段からそんなことを考えているわけではない。

 ただ画面の向こう側にはぞっとするほど綺麗な人間がいて、勉強や運動に力を入れるほど本当に上に行く人と出会うこともあり、人間関係の中で如才なく立ち回っても心から求めた人の一番になれるわけではなかった。そのような経験の積み重ねが彼を自分は「それなり」であると認識させるようになった。

 どれも深く心を傷つけたわけではない。彼は自分が恵まれている方であることも自覚していた。

 一番にはなれないだけ。

 小学五年生のとき、初恋であった三つ年上の幼馴染に恋人ができたと知って彼は「それなり」に傷つき、少し涙で枕を濡らした後、仕方ないと呑み込んだ。呑み込める程度の痛みだった。

 彼にとって本当に特別なものとは自分の中に無いものだ。

 佳奈恵と出会い、彼女に惹かれ、近づき、そして恋人になれたとき、彼は初めて自分は特別なものを得たと思ったのだ。

 特別である佳奈恵と結ぶ関係が、彼自身を変えた。

 どこか自分の人生を皮肉げに、斜に構えてとらえていた態度がいつの間にか改まり、毎日が楽しくなった。

 輝き始めた。

 充実した日々とはこういうものかと初めて知った。

 ――要するに、浮かれたんだ。



『ハルくん、変わったねえ』


 秋口のある日、そう言われた。

 相手は近所に住む幼馴染であり、初恋の女性だった。彼女に恋人ができたことで彼の初恋が破れた後も、親同士の仲が良いためか付き合いは続いており、会えば立ち話もする仲のままだった。

 どちらかといえば彼女の方が春真を弟のように可愛がっており、互いに思春期を迎えてからも親しくしていた。春真が女性の相手に慣れている理由として、幼い頃から彼女とよく遊んでおり、彼女のみならずその友人たちとも関わってきたことが大きいだろう。


『お、恋人できたんだ。おめでとうだけどちょっとさみしい気もするね。あんなに小さかったハルくんが恋人かあ』


 高校に入学するまでは彼女と会うたびにほんの少しの胸の痛みがあった。だが、佳奈恵と付き合いだしてからは一切なく、かつてのようにわだかまりなく接することができ、会話も弾んだ。

 以来、春真は幼馴染と何度か会うたびに近況を話し合うようになる。

 彼の傷心の原因となった幼馴染の中学生時代の恋人とはとうに別れており、現在は高校に入ってから付き合い出した相手と続いていること。最初は様々な新しいことに混乱したが慣れてみれば大学生活も楽しいこと。通学にかかる時間が思ったより大変だから一人暮らしも検討していることなど、満ち足りた生活を送る彼女を春真は嬉しく思った。

 春真の方も佳奈恵との写真を見せて美人だと驚かせたり、彼女を射止めるまでにかなり努力したことや背伸びしたデートの顛末に笑ってもらったり、以前より楽しくなった部活動について喜んでもらえたりと、素直に良い関係になれたと彼は思っていた。

 実際、特に示し合わせることもなく偶然出会えたときのみの交流であったため、このとき彼に後ろめたいことなど何もなかった。


『しかし彼女さん、こんなに美人だと心配になるんじゃない?』

『浮気とか? 佳奈恵に限ってそんなことはない……けど』

『お、なになに? なにか本当に心当たりあるの?』

『いやそういうんじゃないんだけど、うーん……なんか、同じ学校に気になる相手がいるっぽいんだよな。もしかしたら元カレとかじゃないかって』

『あ、元カレいるんだ』

『前に別の友人と話してるとこ聞いちゃったんだよ。ファーストキスは小五なんだって。わざわざカウントするって、そういうことだろ?』

『あはは! あーあー、なるほどね。確かにそれは彼女さんとしてはきっと良い思い出なんだろうね。なんだ、可愛いところあるじゃん』

『そ。結構普通の子なんだよ、仲良くなると』


 これも本当に大したことがないはずだった。春真が聞いてしまった女子たちの話題――ファーストキスの相手も、所詮は過去のことだと流していた。

 ただ、記憶の片隅に残ったのも確かだった。


『良くない別れ方をした相手だから、いつかちゃんと向き合わないといけないんだよね』


 静かに語る彼女のそんな顔を、春真は見たことがなかった。



 十一月、喫茶店の出来事を振り返るたびに春真は自分が失敗したと思った。欲望の目を佳奈恵に向けるなどと、自分自身が信じられなかった。

 自制しなければならない。

 さらに彼女を大事にしなければならない。彼はひそかに誓った。

 以降、高校一年生の間、問題はなかった。起こさなかった。彼も彼女も変わらずにデートを重ね、思い出を増やし、関係を深めていった。

 デートの終わり、別れ際に彼女を抱きしめ、細く、柔らかなからだを感じるたび彼は何にも代えられない喜びに満たされた。腕の中にいる愛しい人、彼女から向けられる信頼、親しくなるほどに強まる宝物を手にしたような高揚。全てが、自分は何一つ間違っていないと彼を信じさせるに十分な素晴らしい感情だった。


 ――だというのに、なぜ、どうしてあんなことを。


 高校二年に進級後、しばらく経ったゴールデンウィークのある日、春真は幼馴染の女性と偶然出会った。

 いつものように話しかけようとして、彼は黙った。幼馴染はひどい有様だった。ほつれた髪、泣きはらした目、沈んだ表情……何事かあったのは間違いなかった。

 驚く彼に幼馴染は「大したことじゃないよ。よくあること」と無理に微笑んで見せた。


『フラれたの。他に好きな人ができたんだって』


 春真は自分が何を口にし、どのように応えたかはっきり記憶にない。

 事実としてはその後、二人は彼女が一人暮らしするアパートに向かい、体を重ね、一夜を共にした、それのみだ。

 そればかりは無論、彼も覚えている。




      ◇




「本気じゃなかったんだ」


 春真は自分の口から出た言葉が信じられなかった。おい、マジか。嘘だろ。こんなこと本当に言うやつがいるのかよ。俺だよ。ていうか余計失望されるやつだろこんなの。つい言っちゃったよ。ずっと思ってたのか? 誰に対しても失礼だしじゃあなんでしたんだよって言われるだけだろう。なんでこんなこと。ぐるぐると内心が渦を巻く。関係なしにぺらぺらと舌は動く。


「あの人の弱った姿を、見てられなかった。立ち直ってほしいと思ったんだ。話ならいくらでも聞くつもりで。でも言葉じゃ何にもならなくて。覚えてないんだよ何言ったか。たぶん上っ面なことしか言えなくて、聞こえてないことだけわかって。手を握ったのが間違いだった」


 小学生のあの頃、幼馴染のあの人に手を引かれて歩いたときを思い出して春真は彼女の手を取ったのだ。感触がまるで違った。大人の女性の手だった。そして、彼もまた成長していたのだろう。

 顔を上げ、彼を映す彼女の目には熱が宿っていた。


「……流された。ごめん」


 春真はテーブルに両手をつき、額もつきそうなほど深く頭を下げる。


「どんな言い訳しても、佳奈恵を裏切ったことに変わりはない。謝らせてください」


 数秒、二人の間に沈黙が下りた。


「顔を上げて」


 佳奈恵の声が春真に届く。変わらない、感情をうかがえない音だった。


「それじゃ話ができない。謝罪は……いいよ。春真くんには必要なんだろうけど、今はわたしも同罪だから」


 春真は一瞬顔を歪め、落ち着かせてから彼女と目を合わせた。

 彼女は、悲しそうに眉尻を下げていた。


「この間も、そうして謝っていたね」

「……うん。ごめん」


 また謝罪が口から出てしまう。春真はもうどうすればいいかわからなかった。

 この間――佳奈恵に浮気したことを白状したときもそうだ。彼は黙っているつもりだった。秘密にできるはずだった。自分が罪悪感を抱えていれば、誰を傷つけることもない。身勝手にも、そう考えていた。

 無理だったのだ。

 春真は佳奈恵と目が合うたびに、以前まで感じていた喜びの代わりに恐怖を覚えるようになっていた。

 彼女の静かな目が、柔らかな微笑みが、彼に向けられた優しい声色が、全て彼の過ちを責め立てているように――違う。それも建前だ。

 彼は彼女を目にするたびに思い出してしまった。

 あの、一夜を。


「気持ちよかった?」

「……え」


 落ち着いた声だった。

 春真は意味がわからなかった。


「嫌なことを聞いてるね、わたし。でも教えてほしいんだ。セックス、気持ちよかった?」

「な……え……?」


 春真はうろたえるばかりで、考えられない。意味ある言葉が口に出せない。言いつくろうことさえできない。

 尋ねられた瞬間、思い出してしまったからだ。

 自らに焼きついた、あの情景を。

 ――決まっている。信じられないほど……


「わたしは、一回じゃわからなかったな」

「……は」

「聞いてたより痛かったような気もするし、あれは痛みじゃなかった気もする。ずっと熱に浮かされているみたいで、現実なのにふわふわした夢の出来事みたいな……余裕なんてなかったし、向こうも必死そうで」


 何を聞かされているかわかった瞬間、春真は身を乗り出していた。


「やめっ……てくれ」


 声に出した途中、自制がきいて叫びにはならなかった。春真は浮かせた腰を下ろし、背もたれに深々と身を預ける。

 一瞬で疲れ切ってしまった。

 窓を叩く雨音がやけに鮮明に彼の耳に届いた。

 雨音に紛れて佳奈恵の声が運ばれてくる。


「……春真くん。わたしたち、別れよう」

「……別れたくない」


 背もたれに身を預けたまま、彼女に目も向けられず、震える声が出た。

 多分、涙も流れている。春真は自分が情けなかった。


「別れたくないよ、俺は。やり直したい。ごめん……ごめんなさい。謝るなというけど、それ以外言葉が見つからないんだ。俺はあのときどうかしていた。信頼を失ったのはわかっている。それでも、もう一度、俺を……」


 口にしながら、春真は佳奈恵にすがるような目を向けた。


「佳奈恵、きみが好きなんだ。本当にきみは俺の特別な人なんだ。今度こそ、絶対に裏切らない。だから……」


 彼女は悲しそうな表情のまま、首を振った。


「ダメだよ。もう無理なんだ、わたしたち」

「そんなことない! だって俺は」

「あなたはわたしをゆるせない」

「きみを――」


 佳奈恵の一言が、再び身を乗り出そうとした春真を止める。

 春真は呆然として、たった今言われたことをつぶやいた。


「……ゆるせない……?」

「あなたはゆるせないんでしょう? 他の人と関係を持ったわたしを」

「そんな、こと」


 春真は反論しようとする。けれどなぜか続かなかった。佳奈恵のまなざしと言葉が、あれほど荒れ狂っていた彼の意識に浸透し、鎮めてしまった。

 彼自身がずっと目を背けていた感情を、見透かされてしまった。


「決めていたの。あなたがゆるせるなら、わたしもゆるすって」

「……違う、違うんだ」

「試すような真似をしてごめんなさい。わたしが一人じゃ決められない、弱虫だったから。あなたを傷つけた」

「……そんなの、俺が最初に裏切って」

「うん。だからあなたはまず、誰より自分をゆるせないんだよね。わたしといる限り、ずっと」


 佳奈恵は立ち上がった。動けない彼を置いて身支度をすませ、微笑む。


「さようなら春真くん。この一年間、楽しかった」


 彼女は返事を待たずに去っていった。

 振り返ることはなかった。




 数十分、彼はぼんやりと座ったままだった。動く気になれなかった。

 気づくと、卓上に置いたスマートフォンの画面に通知メッセージが映った。


 静香:終わった?

 静香:どうだった?


 シンプルな確認。彼は何も考えずに答えた。


 春真:フラれた


 十秒も経たずに返信がある。


 静香:ごめんね

 静香:私のせいで

 春真:俺のせいだよ


 彼はメッセージを送信し、間違いなくその通りだと思った。全て自分に原因があった。彼女をゆるせない――自分の中にそんな独占欲がまだあったなどと、お笑い種としか言えなかった。

 ぴろん、と通知音。新たなメッセージ。


 静香:なぐさめる?


 ぞわり、と彼の背筋に走るものがあった。

 やめろ、と理性が言う。それで全てを失ったんだ。本当に特別な人が離れていったんだ。自分のせいだからこそ、今度こそ流されてはいけない。人として守るべき一線、踏みとどまらなければならない位置があるんだと。

 彼は充分にわかっていた。

 今も、あのときも。

 その手を取り、目が合い、わずかに引き寄せられ、身を寄せられたそのときに、これは破滅の一歩だとがなり立てる自分が確かにいた。

 ――なぜ、どうして、流されてしまったんだ。

 笑わせる。

 答えなど明らかだ。

 最愛の恋人を思った。彼女を思いながら口づけたその瞬間、全身を稲妻が駆け抜けるような衝撃を覚えた。

 肌を重ね、愛撫し合い、粘膜をこすり合わせながらも常に恋人を感じていた。脳が灼けつくような快楽の熱にたまらず身もだえしつつもなおさらなる悦びを求め、貪った。

 ずっと恋人を脳裏に浮かべながら、彼女を裏切る灼熱に身を任せたのだ。


 春真:お願いします

 静香:いいよ

 静香:おいで


 スマートフォンの画面を閉じ、彼は立ち上がる。

 あの一夜の熱は今もこの身をくすぶり、焦がれながらも彼はどこか虚しい気持ちを抱いていた。理解していたからだ。

 あの灼熱は、あの夜、ただ一度だけの熱量だった。

 たった一晩で、彼と彼女二人で築き上げた関係は燃え尽きた。彼が自分の手でくべてしまった。

 脳を焼き焦がすような快楽が生じたのはそのためだ。

 もう、あの熱を感じることは二度とない。

 それどころか、予感がある。あれほどの感情を得ること自体、彼の人生においてもはや望めないだろう。あれほど誰かを特別に思うことなど、きっとない。

 ――それでも、あの夜の残滓だけでもまた味わえたなら。

 彼は店を後にし、生ぬるい空気に身を浸しながら足を速めた。

 いつの間にか雨は小ぶりとなっていた。

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