佐城春真①
ざあざあと雨が降っていた。
窓から離れた席でもその音ははっきりと伝わり、自分が店に着いたときよりも強まった雨の勢いに、佐城春真はコーヒーを口に含みながら待ち人を心配した。
扉に備え付けられたベルが鳴る。喫茶店に入ってきたその人物は、入り口脇の傘立てに傘を差し込んでから、軽く店内を見渡した。春真を確認すると一つうなずき、店員に手振りで待ち合わせであることを告げてから近寄ってくる。
白いTシャツの上に水色のシャツを羽織り、デニムパンツ、スニーカーというシンプルな姿だからこそ余計に引き立つものがある。店内、彼女に気づいた他の客や店員が一瞬目を奪われている。
――やっぱり、綺麗だな。
春真は歩く彼女の姿を見つめながら改めて思った。会うたびに新鮮に覚える感情だった。
「ごめん、少し遅れたね」
「この雨だから仕方ないよ」
その思いは対面の席に着き、顔を合わせた瞬間になお強くなる。
明るく短い茶髪のもと、鋭ささえ感じさせる整った顔立ち。以前は目が合った瞬間に嬉しそうな微笑を浮かべ、すぐに柔らかな印象を帯びたものだが今はそれもない。
どんな感情も読み取れない静かな目が春真に向けられている。
「何か頼む?」
「うーん……正直今アイスの気分だけど、店内涼しいしね。温かい紅茶にしようかな。すいません!」
ちょうど近くを通りがかった店員を彼女は呼び止め、手早く注文を伝えた。
気負う様子などまるでなく、自分の心情とはかけ離れた彼女の様子に春真は若干の苛立ちさえ覚えた。自分にそんな資格はない、そう理解していながらも。
注文後、即座に運ばれてきたホットタオルで手を拭きながら温め、お冷をごくごくと半分近く飲んだ後、彼女はふうっと一息つき、春真に向き直った。
「浮気、してきたよ」
一瞬で空気が重さを増したようだった。春真は手足が自身と切り離されたのではないかという錯覚さえ感じた。腹の奥で黒々とした塊がごろごろと転がっている、そんな不快感に苛まれた。
先ほどコーヒーを飲んだばかりなのにカラカラに干上がったのどを、春真は無理やり動かす。
「浮気って……」
「他の男の人と寝てきた。セックスした」
と、織川佳奈恵は一切の誤解を拒絶する直接的な表現で告白した。
「……嘘じゃ、ないのか」
「本当。特に証拠とかあるわけじゃないから信じてもらうしかないけど、わたしは確かにあなた以外の男性と肉体関係を持った。ごめんなさい」
淡々とした声音だった。寄り添うでも突き放すでもない、ただ事実だけを口にする静かな言葉が春真に届き、彼はそれ以上疑うことができなかった。
最愛の恋人が自分以外の男と体を重ねた。
春真の意識はその情報を受け止めきれず、逃げようとした。
どうしてこんなことに――彼の脳裏に、なぜ、どうして、と、原因を責め立てる叫びがいくつもいくつも浮かんでは消えていく。わかっている。原因など自明のことだ。逃げ場などない。
自分のせいだ。
春真が浮気したから、佳奈恵もそうしたのだ。
◇
初めて佳奈恵と出会ったときの衝撃を、春真は鮮明に覚えている。
高校一年の春、入学直後の教室。新生活に緊張しつつ近くの男子と当たり障りのない会話を交わしていたときのこと。出入口が開く音がして、彼は何気なく目をやった。
文字通り、固まった。
彼女が教室に入ってきた。普通に歩き、自分の席を確認して周囲の同級生にあいさつしながら席に着く。ただそれだけの動作を、彼は微動だにせず見続けた。気づけば、談笑していた同級生も自分と同じく、彼女に見とれていた。
すっげえ美人。
ぽつりとつぶやかれた言葉に彼は心の中で賛同した。自分と同じ空間にいることが信じられないほど彼女の容姿は優れていた。すぐに女子たちに囲まれた彼女は同い年であり、同じ制服を着ているのに、彼の目にはっきりと浮かび上がって見えた。
画面の向こうにいてもおかしくないような存在感を持った少女がそこにいた。一年間、同じ教室にいることになったのだ。
初恋が破れて五年、佐城春真にとって二度目の恋だった。
最初のそれとは比べ物にならないほど熱く、激しく、重く……これが本物の恋なのだと彼は思った。
『よろしくね、佐城くん』
彼女は瞬く間に噂になり、多くの学生たちを魅了した。同性の多くも飾らず驕らない彼女の人柄を好ましく思ったが、やはり異性からの注目はすさまじく、はたから見ている春真にさえ恐ろしいものが感じられた。休み時間のたび、登下校のたびに彼女は多くの視線を向けられ、ときには実際に近づかれた。
光に群がる虫のようなものだ。
春真もまた一匹の虫に過ぎなかったのだが、彼にとって最大の幸運はやはり同じクラスであったことだろう。早々に彼女を中心にしたグループが形成され、その内の一人として認められたことは、入学までの彼の努力と幼馴染からの薫陶が大きい。
それなりの容姿を備え、部活動に力を入れ、勉学にも手を抜かず、さらに身だしなみにも気を遣い、男子高校生としては女性相手に如才なく振る舞える彼は、クラスの女子たちから当たりとしてみなされたのだ。
佳奈恵グループの一員として休日も遊びに出かけるようになったが、彼はそこで気を抜かなかった。春の間、せめて五月までは関係を築く期間だと考えたのだ。同性間の牽制はともかく、彼女本人に対しては焦って距離を詰めないようにした。
結果から見れば、春真は正しかった。
『佳奈恵、またモーションかけられてたね』
『あー……さっきの二年生の人ね』
『結構かっこよかったじゃん。なのに塩対応でウケたわ』
『だって知らない人だし。急に来られても困るよ』
『それはね。まあ男たちの気持ちもわかるよ。実際、あたしが男でもあんた目にしてがっつかない自信ないもん』
『そのときはごめんなさいだね』
『そっこーフってくるじゃん!』
教室で談笑する佳奈恵たちの様子を目にして、春真は安堵した。自分は間違っていない。
佳奈恵は隙を見せない。年相応の女子高生として、特に同性の友人たちといるときはかなり気を許した様子も見せるが、そこまで親しくない異性相手には別だ。もちろん蔑ろにしたり、馬鹿にしたりすることはない。彼女は軽薄に他人をこき下ろす風潮に迎合しない。あまり交流のないクラスメイトにも親切に、穏やかに振る舞う。
一線を引いているだけだ。誰もがそうしているように、他の人よりも少しだけ明確にその相手との関係の境目を定めている。
春真がそれに気づけたのは結局、彼が本気で彼女を観察していたからだった。
境目を越えるには彼女に許してもらうしかないと彼は結論づけた。
何度目かのグループで遊びに行った帰り道、彼女と二人で歩いていた。ここだと思った。
『今度、二人で遊びに行かない?』
佳奈恵はこちらを見て、一拍後、うなずいた。
『いいよ』
天にも昇れそうな喜びが春真を満たした。
それから、何度か二人で遊びに出かけた。最後には毎回次の予定を決めて、この縁を途切れさせないようにした。
距離が縮まる実感があった。
彼女は次第に他の人には見せない笑顔を見せてくれるようになり、楽しそうに「次はどこに行く?」と聞いてくれるようにさえなった。
だから七月に入ってすぐのこと、夏休み前に彼はついに勝負に出た。
初めてデートに誘ったときよりもさらに勇気を振り絞り、
『わかってると思うんだけど』
などと後になって恥ずかしく感じる前置きをつぶやきながらもそのときばかりは彼女の目を見て、言った。
『きみが好きなんだ。俺と付き合ってほしい』
覚えている。
春真はその時のことをはっきりと記憶している。
彼女は、笑ったのだ。
佳奈恵は嬉しそうに笑ってくれた。
『うん、付き合おう。……よろしくお願いします、春真くん』
◇
「ここ、久しぶりだね」
佳奈恵の言葉に、呆然としていた春真の意識が戻る。
彼女は店内を見渡していた。落ち着いた色合いの調度品で構成され、穏やかな音楽が流れる中、他の客も静かに会話するその場は一年前の春真にとって少し敷居が高かった。
「……うん。良い店だよな」
「最初は、初めてのデートのときだった」
佳奈恵は店内にぼうっと目を向けたままつぶやいた。
「……実はあのとき、結構緊張していたんだ」
「ほんと? わたしも。高校生になるとこういう大人っぽい店にも来るんだなって思ってたよ」
「背伸びして選んだんだ。かっこいいって思ってくれるんじゃないかって」
春真は彼女を視界に収めたまま窓を見る。雨脚はまだ強く、弱まる気配がない。
「そっか。それなら成功していたね。良いデートコース考えてくれたんだなって感心してたから」
「良かった。当時の俺が救われるよ」
――きみに認めてほしかった、選ばれたかった俺が。
そこまで春真は口に出せなかった。ただ、彼女がぽつぽつと続ける思い出に耳を傾ける。
「あとは夏休みに二、三回? 二学期が始まってからも月一くらいで来たっけ。知り合いの顔を見たことないから便利だったっていうのもあるけど、やっぱり雰囲気が良いね」
二人ともこの店を気に入っていた。初デートで訪れた店だという思い入れと、居心地の良さも合わさって、二人がここでどれほど言葉を交わしたことか。
春真にとっても思い出深い店だった。
だから、最後にこの店に来たときのことも記憶している。
「文化祭の後、二人での打ち上げもここだったよね。それが十月で、次が」
「十一月だった」
続きを春真は引き取った。彼女に言わせるわけにはいかなかった。
「クリスマスの予定を立てるためにここを使わせてもらって、今日はそれ以来だ」
「……そうだったね」
佳奈恵は春真に向き直った。
春真も目を合わせた。
「後藤の話題が出たんだよな」
ふたりの共通の友人でありクラスメイトである後藤詩織は、グループ内のみに恥ずかしそうに、自慢げに打ち明けたのだ。
『この前、彼氏と初体験したんだ』
彼女の幸せそうな顔を、春真も佳奈恵も目の当たりにした。驚きながらも祝福もした。そこに負の感情はなかった。
ただし春真の意識にその出来事が残ったことは確かだ。
去年の十一月のその日、二人はこの店を訪れて、クリスマスをどのように過ごすかを話し合った。十代である二人の会話はよく脱線し、直近の文化祭の思い出話や友人たちも話題にした。
その中に後藤の名も出た。思わず、春真は佳奈恵のことを見てしまった。彼女の輪郭をなぞるように見つめ、思い描いた。ふっと気づくと、佳奈恵が無言で春真を見つめていた。
『春真くんは、したいの?』
静かな、怒るでも照れるでもない目を向けて佳奈恵は尋ねた。
春真は息を呑み、けれど何か言わなければと口を開いた。
『したくないと言えば、嘘になる』
のどがねばついた記憶が彼にはある。
『けど、無理する話じゃない。できるならお互い納得してやりたい』
『そう』
佳奈恵はうなずいて、こう言った。
『わたしはセックスしたくない。少なくとも、高校を卒業するまでは』
淡々とした声だった。
『大人になるまで、自分で自分のからだに責任が取れるまで、そういうことはしたくない。わたしたちは進学希望だけど、就職する人もいるでしょ。そこで一応大人になったってことでさ、卒業後でも遅くないと思うんだ。……どう?』
そのとき春真は言葉よりも自分と彼女の間にある線を感じていた。はっきりとしたライン。これ以上無遠慮に踏み込んだなら、関係そのものが終わりかねない境界線。
『その通りだと思う。わかった。俺たちはそうしよう』
彼にはそういうしかなかったが、反発もなかった。そのときの彼は自分が彼女の主張を心から受け入れたと信じていた。
以降、この喫茶店から足が遠のいていたとしても。
「正直に言うと、あれは痛かった。佳奈恵がどうこうじゃない。俺の問題だ。自分の性欲が見透かされたことが恥ずかしくて、忘れたかったんだ」
「うん」
「だから、言い訳に聞こえると思うけど、きみとセックスできなかったのが……浮気の、原因じゃない」
「うん」
佳奈恵はうなずいた。穏やかな声音だった。
「信じるよ。だから、今日はここに決めたんでしょう?」
「……」
春真は歯を食いしばる。涙が出そうになった。それだけは許せない。彼の千々に乱れた心でさえ今自分に泣きだす資格はないと理解していた。
――なぜ俺は、彼女を裏切ったのだろう。
――彼女を嫌いになったわけでも、セックスできないことがつらかったわけでもないのに。
何度も自問した。答えはいつも同じだった。
彼が弱かったからだ。




