加賀美文也④
『しばらく距離を置きたい』
そう言われた瞬間、文也は「ついに来た」と悟った。じっと彼を見つめる佳奈恵を文也は見て、綺麗だな、と思った。
佳奈恵は美しかった。罪悪感なのか顔を強張らせ、瞳をうっすらと涙で揺らし、肩に力が入った姿勢はお世辞にも整っているとは言えない。それでも彼女は輝いていた。少なくとも文也の目に、そのときの彼女はそう映った。
明るい茶色の髪を長く伸ばし、切れ長の目と形のいい鼻は人形のような可憐な造形を保ち、指の一本に至るまで崩れない。
古びた公園の、擦り減ったベンチに座っているのに、彼女がいるだけで特別な風景になる……文也はぼんやりとそんなことを考えていた。
『わたし、今のまま文也に頼り続けちゃいけない。一人でも大丈夫になりたいの』
『……できる?』
『……わからない。まだあの頃のことは嫌な思い出だよ。多分、一生引きずるんだと思う。でもこの二年、文也に助けてもらって、前ほどすごく落ち込むことはなくなったから』
佳奈恵は不安そうに、勇気を振り絞るように微笑んだ。
『もう一度、ちゃんと友達をつくりたいの』
『そっか』
文也はうなずいた。
『なら僕から言うことはない。わかった。健闘を祈っている』
『……それだけ?』
『それだけって言ってもな……お願い僕を捨てないでってすがりつけばいい?』
『そういうのじゃなくて。それはちょっと見たいけどそうじゃなくて……怒らないの?』
『怒る? 何を?』
『……そうだよね』
佳奈恵は嘆息し、ベンチから立ち上がると文也の前に行き、彼の肩に手を乗せ、顔を覗き込むように目線を合わせた。
『今までありがとう、文也。わたし、頑張ってくるね』
口づける。唇を合わせるだけの、これまで二人で何度も交わした、あいさつのようなキス。
離れると、さっぱりとした顔で佳奈恵は笑った。
『じゃ、また学校で』
『うん、また』
そうして二人は別れた。
中学一年の七月のこと。その年、文也は初めて隣に佳奈恵のいない夏を経験することになる。
以降四年、彼と彼女はあいさつ以上の言葉を交わすことはほとんどなかった。
四年間、文也はただ彼女を遠くから見ていた。
活発に人間関係を築き、徐々にクラスの中心人物となっていく姿を。バレーボール部の活動に打ち込み、厳しい上下関係の中でも次第に認められ、慕われるようになる姿を。ただでさえ綺麗だったのに、校則を破らない程度にオシャレを工夫し、より美しくなっていく姿を。
中学校の卒業式の後、友達に囲まれ、泣きながら笑い合う彼女の姿を文也は見て「終わったんだな」と実感した。
最後に一瞬、あいさつを交わした。
二人の中学時代はそれだけだった。
文也が佳奈恵の隣にいたのは、ひとえに彼女が望んだからだった。彼女が望み、彼は我慢ならなかった。それだけで二人はそばにいた。満ち足りていた。けれど結局、彼女が彼を望まざるをえなくなったのは、彼女が「友達」という存在を信じられなくなったからに過ぎない。
月日が経ち、環境が変わり、彼の助けもあって彼女の心の傷は癒えていった。
二人が別れるのは必然だった。
いつかその日が来ることを文也もわかっていた。
後悔はない。未練もないことにできる。心残りはあったが、それは贅沢だと吞み込んだ。
高校に上がり、中学と同じように瞬く間に人気になり、華やかな学生生活を送る彼女の姿に、文也は本当に安堵したのだ。彼女に恋人ができたと知って、自分の中にあるよどみを自覚しながらも、目をそらして遠くから祝福していた。
自分はもう関われない人の幸福を、ただ祈った。
『彼氏が浮気した。――だから、わたしとセックスして、文也』
その日、彼女がそう告げるまで、彼は自分の役目が終わったことを心から信じていた。
◇
かなえ:話がある
かなえ:明日の放課後、時間ある?
かなえ:文也の部屋行ってもいい?
暗い室内に、スマートフォンの画面だけが光を放っている。表示された昨夜の会話を眺め、文也は改めて呆れた。こんなことが起こる「話」だとは思ってもみなかった。この文面から予想できるはずもない。
文也は隣、うずくまるような姿勢で眠っている佳奈恵の肩を揺さぶった。
「佳奈恵、そろそろ起きろ。八時過ぎた。門限は九時って言ったろ」
「んー……」
うなるような返答。眉間にしわが寄り、顔を振って拒否を示す。変わらない寝起きの悪さに昔を思い出しながら、文也はまた肩を揺さぶり声をかける。
「シャワー浴びないといけないだろ。まさかそのままで家に帰るつもりか」
「……わかってる。わかってる」
目を閉じたまま、本当に理解しているのか怪しい返答を口にしつつも佳奈恵は身を起こした。ブルーライトに照らされた裸体はどこか無機質であり、彼女の造形美を際立たせていた。
「……あー」
ベッドの上で上半身だけ起こした彼女は、目をしょぼつかせながら徐々に頭が動き出したのか、文也を見てぎょっと目を見開いた。
「なんで文也がいるの」
「……待て。マジで待て。経緯を思い出してくれ。そこ忘れられてこの状況は俺が死ぬ」
佳奈恵は固まり文也を凝視したまま自分の肩や胸、腰に触れ、何も身に着けていないことを確認すると、また「あー」とうなった。
「そっか。やったんだったね。あれ夢じゃなかったんだ」
うんうんと彼女はうなずく。固まった表情がほどけていく。
「思い出したらからだの色んなところに違和感出てきたんだけど。これ、ちゃんと歩けるかな」
「……」
「まぁお母さんにはバレそうな気がするんだけど」
「待ってくれ」
「大丈夫だよちゃんと避妊したし。文也まだうちの親から評価高いし」
「限度があるだろ……」
「ま、本当に大丈夫だって多分。それに思い出してみると最後の方かなりがっつかれた記憶あるんですけど」
「……」
「わたし途中からやられっぱなしだった気がするんですけど、その点どうなんですか文也さん?」
「……」
「目をそらさないでよ。そんなにわたしとするの、良かった?」
「……良かったよ」
ぼそっと文也は言った。顔をしかめ、目は合わせなかった。
「ありがと」
柔らかな佳奈恵の声が耳を打った。
「おかげで、わたしもなんとかなりそう」
「……決まったの」
「決まったというか、元から決めてたというか、結局話し合い次第というか。まぁ、覚悟はできたよ」
「そうか」
文也は一息ついた。
「手助けは」
「いらない」
きっぱりと佳奈恵は首を横に振った。
「もう大丈夫。これ以上はもらいすぎ」
「……うん。わかった」
今日訪れてすぐのときとは違い、意志に満ちた佳奈恵の顔を見て文也はうなずいた。
ベッドから下り、着替えを手にして佳奈恵は部屋を後にしようとする。もう引き留める言葉は文也の中になく、壁に身を預け、ただその姿を見ていた。
「じゃ、シャワー先使わせてもらうね」
ドアを開いてから振り返り、佳奈恵は穏やかな表情で言った。
文也がうなずくと、
「ところでさ」
佳奈恵はにっこりと笑った。
「さっき、かなちゃんって呼んでくれたでしょ」
ぴしり、と文也は固まる。
「懐かしいね。本当に古い呼び方じゃない。可愛かったよ、文也くん」
「さっさと行けバカ!」
あはははは、と笑いながら佳奈恵は部屋から去っていった。
文也は大きく嘆息し、身を傾け、ぼすんとベッドに倒れる。目を閉じ、たった今目の当たりにした佳奈恵の笑顔を脳裏に思い浮かべる。楽しげな、信頼した人にのみ向けているのであろう特別な顔。
いい顔だと素直に彼は思う。
もう大丈夫だというのも本当だろうと。
「……それでも、違うんだよなあ」
文也はつぶやく。
記憶が巡る。思い出が去来する。佳奈恵とおままごとのように付き合っていたあの頃、彼が何度となく思い浮かべていたあの笑顔。
『ふみやくん!』
屈託のない、傷一つなかった幼いあの頃に彼女が浮かべていた満面の笑み。
彼はただ、彼女からその顔が失われたことが悲しくて、取り戻したかった。
それだけだった。




