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浮気者にも夏は来る  作者: 雑木


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2/11

加賀美文也②

 いじめが起きたのは、二人が小学五年生のときだった。

 佳奈恵は当時から際立って優れた容姿を持っており、嫉妬、独占欲、嗜虐心、庇護欲、様々な感情を男女問わず向けられ続けた結果、その発露の一つとしていじめという形で現れた。

 佳奈恵にとって幸いだったことに、周囲の大人はまともだったことが挙げられる。

 被害者、加害者、第三者からの聞き取り。保護者を交えての面談。それらを経ておおよその事実を客観的に導きだし、厳重な注意とクラス変更を加害者たちに与えることで事態は収束を見た。

 だからといって、佳奈恵の傷ついた心が元に戻るわけではない。

 学校を休むことはなかったが以前と比べて明らかに消沈した姿を文也は見ていられなかった。

 可能な限り文也は佳奈恵に寄り添うことにした。クラスが違ったために当初彼女の様子に気づかなかったことを当時の彼は深く後悔していた。登下校を共にし、長い休み時間は様子を見に行き、放課後も彼女に嫌がられるまで支えようとした。

 ある日、佳奈恵がぼんやりと口にした。


『……なんで文也くんはわたしのそばにいるの』


 文也の部屋で、二人でゲームをしている最中のことだった。


『なんでって……友達だから?』

『信じられないよ』


 佳奈恵は目を伏せた。


『あの子も、わたしのこと友達だって言ってた』


 誰のことを指しているか、言わずとも文也にはわかった。

 いじめの主犯格となる少女はもともと佳奈恵と親しかった。だというのに、あるときから急に彼女を虐げるようになったのだ。

 理由はいくつも挙げられた。聞き取りで判明したものと、それこそいじめの最中にその少女が口にした言葉がある。

 生意気。媚び売ってる。とろくさい。目立ちたがり。頭悪い。見た目だけ。察しが悪い。なんでこんなこともわからないの。グズ。あなたが悪い。あたしは悪くない。

 聞くに堪えない罵倒を佳奈恵は友達だった少女に浴びせられた。

 客観的には、いじめを行っていた同級生たちの動機は嫉妬であると断定された。注目を集める佳奈恵が憎らしかったのだと。


『友達なんて、うそだよ』


 文也には否定できなかった。ひどい体験を経て彼女から放たれたその言葉は一つの真実としてその場に存在した。

 だから、こんなことしか言えなかった。


『友達がダメならなんでもいいよ。幼なじみでも、召使いでも、ボディガードでも。好きにして』


 文也としては形にこだわるつもりなどなく、ひどい目に遭った幼馴染を少しでも助けたいだけだった。

 どんな要求でも受け入れる。当時彼は幼いなりにそう決めていた。


『なんでも……?』


 それが、二人の関係を決定的に変化させるものであったとしても。


『じゃあ、わたしのカレシになって』


 七月のある日のこと。外ではざあざあと雨が降っていた。他の誰も聞いていない彼女の言葉を、彼は受け入れた。

 小学五年から中学一年の一学期までおよそ二年、二人は誰よりも近しかった。




      ◇




 ――俺たちの関係が変わるのは、いつも夏の入口だ。

 文也は窓に目を向けた。遠く、密集した住宅街の屋根の隙間から青空が見える。もう少しすれば夕暮れに変わる。外はきっと蒸し暑いだろう。


「あらかじめ言っておくと、拒絶された場合も考えている」

「言わなくていい。言うな」

「そのときは他の男を探す。後腐れないのが望ましいんだけど、最悪、行きずりの男を捕まえるかもしれない」

「言うなっつったろ。がっつり後腐れる可能性があるじゃねえか」


 嘘だ。わかっている。文也は焦げ付いたように煙がかった思考の中、自分に言い聞かせる。いくらなんでも、そんな自暴自棄なことを佳奈恵はやらない。

 ――万に一つは、あるかもしれない。

 考えてしまう。一体自分は彼女の何を知っているというのだろう。彼女がこんな風になるなど、小五のあの頃に、中一のあのときに予見できただろうか。わかっていればもっとマシな関係が結べていたはずだった。

 わかっていることは一つだけ。

 加賀美文也は織川佳奈恵を拒絶できない。


「……後悔、しないな?」


 窓の外に目を向けたまま、文也は言った。


「する」

「おい」


 文也は佳奈恵に目を向ける。

 彼女はいたずらっぽく笑った。


「でも、絶対あなたが一番後悔しない。他の誰かだったら多分一生引きずる」

「……」


 もう一度視線を外して、文也は口をへの字に曲げた。


「都合よく扱いやがって」

「照れた?」

「うるさい」


 あはは、と佳奈恵は声を上げて笑う。彼女が身体を揺らすのに合わせて、きい、きい、と椅子が鳴る。


「んじゃ、準備しようか。ゴム持ってる?」

「……ある」

「なんで持ってんの。キモ」

「前、バイト先の先輩に押し付けられたんだよ。人生何があるかわからんとか言って」

「ごめん、理由聞いてもやっぱキモい。ていうかそれサイズあってんの? 試した?」

「……一回」

「うん。想像したらもっとキモかった。聞かなきゃよかった」

「本当にヤる気あるのかその言い種」

「おばさん今日夜勤? おじさんは単身赴任中でしょ」

「……そう。そっちは?」

「門限九時。ちなみにここに来るとは言ってある」

「……おばさんおじさん、ごめん」

「そこらへんあんまり考えるとできなくなるよ」

「じゃあ話題に出すなよ!」


 叫んでから、ふと文也は思い至り、彼のベッドを整えだした佳奈恵に顔を向けた。


「恥を忍んで言うが、本当に可能性がある」

「何の?」

「できない可能性。さっき言った先輩、初体験のとき緊張して、あー、立たなかったらしい。わりとよくある話なんだと」

「ふーん」

「ふーんって。困るだろ、それじゃ」

「別に。また日を改めればいい話だし」


 ぴしっとシーツを伸ばし終えた佳奈恵が横目で文也を見る。


「やるって決めたんだから、失敗したら再チャレンジするだけ。わかった?」

「……はい」


 文也と佳奈恵が向かい合う。

 他に何か、と彼は視線も合わせず部屋を見渡した。


「ほこりっぽいかもしれん。先に掃除機……」

「いい。うるさい」

「シャワーは?」

「来る前に浴びてきた」

「じゃあ、俺が……」


 ずい、と佳奈恵が文也に身を寄せた。

 首元に顔を近寄せ、すん、と鼻を鳴らす。すぐに離れ、固まる文也にかまわずに平然と言う。


「これならいいでしょ」

「あ、ああ。それなら、他は」

「いいよ、もう」


 佳奈恵は微笑んだ。仕方ないなと言いたげな顔だった。


「やろ」


 文也は固まったまま何も言えず、こくん、とうなずいた。

 佳奈恵はジャージのチャックに手をかけると、じいい、と下ろす。

 緊張しながらその様子をぼーっと見ていた文也の目が見開かれた。


「……何よ」


 ジャージの下から、素肌が覗いている。

 形のいい鎖骨があらわとなり、その下、白く豊かなふくらみの途中まで肌を覆うものがない。チャックが下ろされるにつれて薄い水色の下着が現れたところで自失から覚め、顔を上げた。

 佳奈恵はうっすらと頬を赤らめ、文也から目をそらしていた。


「それで、うちまで来たのかよ」

「ほとんど目の前なんだから、平気」

「そういう問題だけどそういう問題じゃねえだろ……」

「しぶったらこれで誘惑しようと思ってた」

「……」


 文也が黙り込む間にも佳奈恵はジャージを脱ぎ、きっちりと畳んでベッドの脇に置いた。

 下着姿となった佳奈恵が文也を見る。


「で、あなたはいつ脱ぐわけ?」


 一分後、同じく下着姿となった文也と佳奈恵は向かい合っていた。はしゃぎながら家の前を通る子どもたちの声が窓を叩く。


「あー……こういうときの手順、わからないんだが」

「わたしもわからない。でも、最初にやることは知ってる」


 そっと距離を詰める佳奈恵を受け止め、その肩に手をかけた文也は眉根を寄せた。手のひらから彼女の肩がわずかに震えていることが伝わってくる。


「……いいのか」

「もっとすごいことやろうってときに何言ってんの」

「いや、そうじゃなくて……たとえばこれだけはしないとか、そういう」

「変な漫画の読みすぎ。そんな大層なことじゃない。それに」


 佳奈恵は呆れたように半眼で文也をにらんだ。


「付き合ってたとき、何回もしたでしょ」

「……小学生の経験なんかノーカンだろ」

「中学入ってからもした」


 見つめ合い、どちらからともなく二人は唇を重ねた。




      ◇




 佳奈恵と付き合うことになった。

 文也にとって転機であることは確かだったが、彼は交際そのものを重大なことととらえていなかった。単純に、当時の彼にとって異性と交際するということと、幼馴染と遊ぶということに違いを見出せなかったのだ。

 だから、表向きの彼と彼女は何も変わらなかった。よく二人で会うようになったのだが、もともとの二人に戻っただけでもあった。

 ただ、二人にしか知りえないこととして、佳奈恵から文也に向ける言葉や仕草の端々は明確に変わった。

 ある日、佳奈恵が文也を詰問したことがある。


『文也くん、明日も遊べる? ダメ? ……なんで』


 独占欲というには切実すぎる執着。佳奈恵は自分と文也が自由にできる時間の全てを可能な限り共有しようとした。そばにあろうとした。不安定な人間が恋人に向ける束縛にも見えるが、あれは幼児が自分から離れる親を信じられないのと一緒だった……と、後になって文也は思う。

 二人にとって幸か不幸か、文也はすがりつく佳奈恵を邪険にしなかった。重荷とも思わなかった。頼まれたのだからそうしよう。彼はシンプルに傷心の幼馴染を心配し、望まれるままに振る舞った。


『友達と先に約束しちゃったんだけど』

『……友達はダメだよ。信じられない』


 だから唯一、文也にとって難しいことはそれだった。

 佳奈恵は友達という存在に忌避感を抱くようになっていた。仲が良いと信じていた女子に裏切られ、虐げられた少女は、自身どころか文也の交友関係にまで疑いの目を向けるようになっていた。

 ただの同級生なら構わない。友達という関わりは、より深く関わる分裏切られたときがつらいのだと経験によって当時の彼女は断じていた。


『僕はもう友達じゃないの?』

『文也くんは、カレシだから』


 カレシという関係性を表す単語を、当時の文也は上手く受け止めていなかった。不自然に聞こえた。二人を表す言葉としてしっくりこなかった。

 それでも、彼は彼女が望むことを受け入れた。

 まだ幼く、世の複雑さに考えが及ばない彼でも、佳奈恵にとってその線引きは譲れないものなのだと理解できてしまったから。

 なだめすかし、どうにか文也が彼の友達と遊ぶことを受け入れさせた頃には、夕飯の時間が近づいていた。しばらくすると佳奈恵の母が終わりを告げに来る。佳奈恵もそこには文句がなかった。

 いつも通り、彼女は目をつむり、顔を突き出して彼に要求した。

 二人が恋人という関係になってからすぐに佳奈恵が求めた、特別な別れのあいさつ。

 文也はこのときどう思うのが正解かわからなかった。結局、最後まで彼は困ったように眉尻を下げて応じ続けた。

 中学一年の七月に二人が別れるまで、幼い二人は別れるたびにキスをした。

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