加賀美文也①
「はあ?」
加賀美文也は思わず声を出した。一切意味がわからなかった。
「聞こえなかった?」
織川佳奈恵は憮然とした表情で言った。からかってやろうなんて雰囲気はまるでなかった。
文也は眉間にしわを寄せた。
「聞こえてた。聞こえてたからわからないんだ。でも俺の聞き間違いかもしれないという一縷の望みに賭けたくもある。もう一回言ってくれ」
「わたしとセックスして」
かぶせるように佳奈恵は言った。淡々とした声音で、感情は読み取れない。
文也は今度こそため息をついた。
「なんだってそんな結論になる」
「聞こえたんでしょ」
「ああ。大変だったな。心労は察するに余りある。愚痴くらいならいくらでも聞いてやる。でもその結論はわからない」
「別に結論とは言ってない」
「何か目的があるんだな? つまり手段ってわけだ。手段にしていいものじゃない」
「女の貞操を気にする男?」
「気にしない方が問題だろ」
「……ま、そうね」
佳奈恵は目を閉じ、背もたれに身を預けた。文也が中学校に入学するときに購入したそれは、きい、と普段よりささやかに軋んだ。
部屋の明かりは点けていない。窓から差し込む光にだけ照らされた室内は沈むような空気だった。
その中で、佳奈恵だけは輝いていた。少なくとも文也の目に、佳奈恵はそう映った。
ショートカットの明るい茶髪のもと、切れ長の目と鮮やかな唇が目立つ。ほんの少しの幼さが残る顔立ちは、目が離せない引力のようなものを感じさせるほど整っていた。今まさに羽化しつつあるこの瞬間だけの美しさがあった。
文也は目線を少し下げた。
ぴっちりと前が閉じられた、野暮ったくも懐かしい装いが目に入る。
「……なんで中学ジャージなんだよ」
「部屋着にいいの」
「ここは俺の部屋だが」
「部屋でしょ」
理屈が通っているとも思えなかったが文也は黙った。彼は佳奈恵に口で勝てるとは思っていなかった。ただし悪い気分ではない。昔のようにやり取りできて、懐かしさを感じていた。
だからこそ尋ねなければならなかった。
「とりあえず、説明してくれよ。ちゃんと」
「ん……」
佳奈恵は目を閉じたままうなずいた。言葉を選んでいるようだった。変わらないな、と文也は思った。彼女はいい加減な言葉を口にしない。
腰を下ろしていたベッドに手をつき、体重をかけて文也も天を仰いだ。嫌な沈黙ではなかった。一分も経たずに佳奈恵は口を開いた。
「対等にならなければいけないの」
いつの間にか文也を見つめていた。
文也も姿勢を戻し、佳奈恵に向き直る。
「誰と誰が?」
「わたしと彼氏」
「……そうかもなと思っていたが、およそ最悪の回答だぞそれは」
「わかってる」
「つまり」
深く、文也はまたため息をついた。
「……浮気されたから、自分も浮気しようってことか」
「簡単に言えばそういうこと」
文也は額に手を置いて、重くなってきた頭を支える。
――こいつ、昔よりダメになってないか?
『ふみやくん!』
こちらに向かって笑いかける幼い佳奈恵の姿が文也の脳裏に浮かぶ。
記憶の中の彼女は、満面の笑みを彼に向けていた。
◇
文也と佳奈恵の出会いは、保育園にまでさかのぼる。
文也が二歳のとき預けられた保育園が初対面のはずだ。お互いにその頃の記憶はほとんどない。物心がつく頃にはもういた、そんな相手だった。
さらに家が近所であったこと。母親同士の年齢が比較的近く、話も合ったこと。子ども同士の相性も良いように見えたこと。それらの要素が重なって、二人は幼馴染と呼んでいい関係を育んだ。
幼い頃の佳奈恵は今とは違い、引っ込み思案の少女だった。その頃から後の美貌の片鱗を見せていた可憐な容姿を不安の色に染め、文也の後ろをついて回っていた。彼女が安心して笑顔を見せるのは家の中だけだった。
文也はと言えば現在の理屈っぽさとは裏腹に、能天気な少年だった。特に何も考えていなかった、とは本人の述懐だ。当時の彼の世界はシンプルで、家族と佳奈恵がいて、毎日何して遊ぶかだけを考えて生きていた。
相性は良かったのだろう、少なくともその当時は。
『ふみやくん! あーそーぼ!』
彼女はいつも笑顔で彼を誘いに来た。垣根のない感情を彼に向け、断られることなどまるで考えてもいないような、無防備な顔だった。
『あぶないよ?』
『いいの』
二人はいつも休日、公園に向かった。
晴れの日も、曇りの日も、雨の日はさすがに家の中だったが、雨が上がるといつも通りに。手をつないで文也が縁石の上を渡り、佳奈恵がその隣で公園についたらどう遊ぶか言い募るという姿を毎週飽きずに繰り返した。どちらか、あるいは両方の親が少し後ろから温かく微笑みながらそんな二人を見守っていた。
佳奈恵は文也の緩い空気が居心地よく、文也は佳奈恵という常にそばにいる遊び相手に満足していたのだ。
小学校に上がり、さらに学年を重ねるにつれて、二人だけの時間は少しずつ失われていく。
文也に佳奈恵以外の友達がそれなりにでき、佳奈恵にも文也とは違う女子たちの関係性ができたことによって二人の時間は減った。それでも二人は友達でいられた。週に一日は必ず二人で遊んでいた。
結局、その日々も終わった。
佳奈恵がいじめに遭うようになって。
◇
「彼と付き合うようになったのは、大体一年前」
ぽつり、と再び佳奈恵が話し出した。文也からは視線を外し、独り言のようだった。
「高校に入って、同じクラスで、気が合った。グループで遊びに出かけて、その内二人で会うようになって、告白された。受け入れた」
知ってるよ、と文也は口にしなかった。
文也も同じ高校に通っている。佳奈恵は美人で有名だ。文也のクラスにも佳奈恵に惹かれている同級生が何人もいた。彼女の動向は噂されていた。
あの織川佳奈恵に恋人ができたらしい。
同じクラスのやつらしい。
その内「らしい」が取れて、仲睦まじい姿が校内でも散見されるようになって、多少のやっかみはあれど美男美女のカップルだと認識されていった。
文也が積極的に知ろうとしなくとも、その程度は耳に入ってきた。
「まぁ、仲は悪くなかったよ。部活もあるからずっと一緒ってわけにはいかなかったけど、空いてるときはデートしたし、楽しかった」
一度、文也も見たことがある。
駅前、明らかにデート帰りだろう佳奈恵と彼氏の姿を。一目で気合を入れたとわかるめかし込んだ姿で、幸せそうに笑っていた。
「彼も同じ気持ちでいたと思う。大事にされていた、とも思う。わたしのこと好きでいてくれてるんだなと感じる瞬間は何度もあった」
そこで佳奈恵は、ふっと皮肉げに微笑んだ。文也を横目で見る。
「誰かさんと違って」
「幼馴染に期待するもんじゃねえだろ」
「そう? そうかな……」
佳奈恵はつまらなそうに視線を戻し、ふう、と一息ついた。
「付き合って半年くらいかな。一つだけわたしは彼を拒絶した」
「何を?」
「セックスはしない。高校を卒業するまでは」
沈黙が下りた。
文也は特に表情を変えず、佳奈恵も彼から視線を外したまま、感情を見せない。
エアコンの稼働音だけが部屋に響いた。
「場所の問題もあった。うちは親がいる。彼には兄弟がいる。ラブホには年齢制限がある。誤魔化せるのはわかっていたけど、万に一つも経歴に傷はつけたくなかった。それに、焦ってやるものでもないと思っていた。大人になってからでいいでしょって彼に言ったの。うちの高校からは少ないけど卒業後働く人もいる。多分わたしたちは大学に行くけど、それからでも遅くないでしょって」
「いいよ別に、それ以上は。わかるから」
文也は口を挟んだ。
聞いていられなかった。
「大事なことだ。おかしな話じゃない。それを拒絶なんていうやつがいたら別れるべきだ」
「……」
佳奈恵はしかめっ面を見せた。すぐに緩める。
「そうだね。ごめん、ちょっとおかしいね、わたし」
「そもそもがおかしな話だって自覚を持ってほしい」
「文也の悪いところだね。この世はもっとおかしなことばかりだよ。現実を受け入れなきゃ」
少しだけ穏やかになった声で、佳奈恵は再び話し出した。
「彼も同意してくれたよ。無理強いすることも、不機嫌になることもなかった。その通りだねって」
「……」
「それから半年、二年に上がって最近まで、わたしたちは変わらず過ごしていた」
「何があった」
文也は佳奈恵を見つめた。
「ゴールデンウイークの後、様子がおかしかったの、彼」
穏やかな声のまま、佳奈恵は続けた。
「冷たくなったとか、そういう話じゃないよ。よそよそしくなったというのも多分違う。まぁ、隠し事かな。不自然に優しすぎたり、ふとした瞬間悩んでたり、かと思ったらなんかわたしのこと微妙な目で見てたり、後ろめたいことでもあるんじゃないかって感じた」
嘘つく才能無いんだよね、とこぼす。
「わたしからは何も聞かなかった。や、何かあった? くらいは聞いたけどはぐらかされて、それからは。だから、まぁ、何も知らないでいられたはずなんだ」
「……知らない方が良かったのか?」
「どうかな。わからない。結局、不信感を抱え続けたかもしれないし、いつかは忘れられたかも。わからないよ。そうはならなかったんだから」
佳奈恵ははっきりと口にした。
「彼は浮気した。他の女とセックスした」
そこだけは疲れをにじませた声だった。
「彼が、自分からわたしに打ち明けてきた。謝られても困るものだね、ああいうときって」
いわく、佳奈恵の恋人には幼馴染がいた。三つ年上の女性だ。ストレートで大学に進学し、現在二年。
その幼馴染が失恋をした。
落ち込む彼女を彼は慰めた。
「慰めているうちに誘われて、関係を持ってしまった……だってさ」
「……そうか」
文也はうなずいた。
特に感情を揺さぶられることもない話だった。
「言っちゃなんだが、ありきたりな話だな。ありふれている。自分で体験したくはないが」
「そう。他人の話なら笑えるし、呆れられるよね」
佳奈恵は皮肉げに表情をゆがませた。
似合わないな、と文也は思った。
「自分事となると、相応に思うことはあるし、対応しなきゃいけない」
「わかるとは言えないが、だろうな。大変だな」
「だから、文也。わたしとセックスして」
「それはわからない」
「わかるでしょ?」
「わかりたくない」
文也は佳奈恵の思考がある程度理解できる。長い付き合いだからだ。彼女は公平を尊ぶ。
恋人に浮気されたから自分も浮気する。そう聞かされた人は復讐と思うかもしれない。相手にやられたことを自分もやってやろうじゃないか、これは仕返しだと。
目には目を、歯には歯を。浮気には、浮気を。
――それは違う。平等なだけで公平ではない。
織川佳奈恵はそんなことを望まない。
「同じ立場になるためか。自分も落ちてやろうと」
「そ」
佳奈恵はあっさりとうなずいた。文也は渋面を作った。
「最悪だ」
「こんなことは最悪と呼ばない」
「俺が最悪の気分なんだよ。もっと自分を大事にしろ」
「した。してきた。その結果がこれ。わたしは間違っていた」
「かな、えは間違っていない」
文也は苦々しい顔で言い募る。
「……単純な話だろう。ゆるせないなら別れればいい。ゆるせるなら別れなきゃいい。浮気自体に特別な意味なんてない。相手と同じ立場になったからって、結論が変わったりするか」
「変わるよ」
佳奈恵は断言した。
「変わる。というか、今のままだとわたしは答えを出せない。ゆるすことも、別れることもできない。エラーだね。ずっと思考がループしてるんだよ。被害者のままじゃどこにも行けないみたい」
そこで佳奈恵は文也を見つめた。眉尻を下げ、どこか申し訳なさそうに彼女は言った。
「わたしをたすけて、文也」
文也は息を呑んだ。我慢ならなかった。
「……なんで、俺なんだよ」
「だって……」
佳奈恵は淡い微笑を浮かべた。
「元カレだし。甘えてもいいかなって」
「……ノーカンだろ、小学生の関係なんて」




