百三十八
「そして、段 深緑さんは、どこかに行ってしまったのですね」
梨菜は、決して咎めることを口調に帯びさせない配慮をもって言ったつもりだったが、今にも泣き出しそうな長門 暁海が抱える自責という重い石を取り除くことは叶わなかった。
「日向さん……」
梨菜は、隣に座る日向 夕子に視線を向けた。
日向は、長門のそばに寄り添い、優しい声をかけた。
「あなたは、きちんと役割を果たしました。深緑さんが目覚めて、行動を起こす、なんて想定は、全然できていなかったのです。
私も、羽蕗社長も、長門さんを責めてませんよ」
日向の声かけによって、長門は安堵感を得られたが、その後に泣き崩れてしまうことまでは防止できなかった。
梨菜は、日向が長門に付き添って退室するのを見届けてから、右隣に座る段 深藍に話しかけた。
「どう思います?」
「ネエちゃんは自由になった、ってことやな。ウチは、もう何もできへんで」
段は、肩をすくめた。
「サロモン・ハーシュが『走査』した報告によると」
梨菜の正面に座るオイゲンが言った。
「深緑ちゃんは、長期間拘束されてきたにも関わらず、とても穏やかだったらしいよ。
感情は安定してて、逆にサロモンの心を読まれてしまってあげたそうだ。
サロモンに対して、好感を持ったようだね。
少しの『走査』だったけど、おそらく深藍ちゃんに対する恨みとか、怒りとかは感じられなかった、と言っていたよ」
「そうやとエエけどな。
そのサロモンはん、ネエちゃんに触るなんて、勇気のいる対応してくれたんやな。後でウチもお礼言いたい」
段の言葉に、オイゲンはにっこりと笑った。
「穏やかな雰囲気はあったけど、侵入した賊に対して、『観音化』を披露したときは、凄まじい強さだったらしいよ」
「ネエちゃんの強さは、ウチも闘ったことあるから、ようわかる。たぶん、『観音化』を覚えたボスとエエ勝負やと思う」
「問題は」と、今度は梨菜の左隣に座る御神 奈良江が口を開いた。
「段 深緑さんを解放したことで、誰にメリットがあるのか、ですね」
「ネエちゃんを縛りつけるよう指示したのは、宋 鵬や。
ネエちゃんは、宋鵬を倒して、エイシード社を乗っ取ろうとしたんや。
エイシード社が、みすみすネエちゃんを解放したりは、せんと思うで」
「IMEAの加入会社による造反行為である可能性は……」
「無いだろうね」
御神の問いに、即座に繋げたのは、松川 貴代子だった。
「現在、IMEAに登録されている全社が、岡産業と資本関係を提携してるの。もちろんエイシード社も含めてね。
劉くんが美園会長の意志を継いでいた話は、みんなもう知ってると思うけど」
貴代子の視線が隣に動いたのに合わせて、その視線の先にいる劉 梓朗が軽く会釈した。
「IMEAの同志たちの立場から見ても、段 深緑を解放するメリットが無い、と思う」
オイゲンの右隣に座るアルトゥール・レーシンが言った。彼は、先日、マギーレイン研究社の最高経営責任者に就任した。
「我々に敵対心を抱いている虞のある脅威だ。
むしろ、拘束されたままであってほしかった、というのが本音ですよ」
「確かに」と、御神は頷いた。
「賊の風貌が、岡常務のご兄弟である岡 大に似ていた、と報告があった点で、当社との協力筋を疑ったのですが、容疑の対象からは外しましょう」
「いや……容疑対象から外すべきではない、と思います……」
御神の意見を覆したのは、アルトゥールの右隣に位置していた岡 将だった。
一同は、予想外の発言者に驚きの表情をした。
梨菜だけは、両目をキラキラ輝かせて、将を見つめた。
「もし、本当に、兄が関わっているとしたら、兄はとても臆病で、だらしないほど愚かな人間です。ここに集まっておられる皆さんのようなインテリジェントを相手にできるほどの知性はありません。
兄が相手できるのは、自分の優位性を保てる、もっと末端にいるヒトたちです。
つまり、必ず皆さんの視界に入らないような現場にのみ干渉し、決して上階に登ってくるようなことはしません。
それだけに、悪事の発見は容易ではなく、また、そこはかとない能動性と計画性を伴っている点で、厄介な存在であることは事実です。
ですから、捜査範囲は同盟組織を含めて、できるだけ大きく広げ、目線を低くした方が良いと思います」
「確かに、ショーちゃんの意見はもっともね」
と、貴代子は頷きながら言った。
「あのボンクラのこす狡さは、私もよく知ってるわ。
そして、監視する難しさもね」
「ずっと監視を付ける、というのは不可能ですかね?」
そう訊ねたのは、御神だった。
「思考は、不良高校生男子レベルよ。
収穫を得ようと思ったら、長い期間、辛抱強く見張らなきゃね」
貴代子は、呆れ顔で、そう答えた。
「ということは、段 深緑を解放した理由も、不良男子レベルの発想だと」
と、アルトゥールが訊ねる。
貴代子は、「私は、そう思ってる」と答えた。
「そうなると、『固体弾』や、『超小型保護具』を破った『電撃銃』を所有していたことなど、腑に落ちない点があります」
御神が言うと、貴代子は「誰かにそそのかされているのよ」と、苦笑を浮かべた。
「ボクも、そう思います」と、将。
「兄の単独行動ではないと思います。松川専務がおっしゃるように、きっと背景に誰かがいて、武器とかの支援を受けてるのだと思います」
いったい誰が……そして何のために………
一同は、この特定に悩まされ、その後は、納得できる意見が出ることもなく、幹部会合は打ち切りとなった。
ただ、その場にいた全員が、共通してとある疑念を抱いたのだが、誰もそのことについて言及しなかった。




