第6話 自由な旅、始めました!
屋敷を出たのは、もちろん夜中。誰にも見つからないようにするためだ。
あたしは光魔法で姿を隠し、スーとラーと一緒に屋敷の外へ出た。
夜の公爵邸は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。広い廊下には人影もなく、窓から差し込む月明かりが、磨き上げられた床を淡く照らしている。
六年間暮らした屋敷。
その中を、あたしは今、誰にも気づかれないように歩いている。
……いや、待って。
そもそも、普段から誰にも気にされていないんだから、わざわざ姿を隠す必要ってあるのかしら?
でも、用心するに越したことはない。
見つかったら面倒だし、何より、今夜は絶対にここを出ると決めたのだ。広い庭を抜け、屋敷から十分に離れたところで、スーが足を止めた。
「マナ、ここからは僕に任せて」
「うん! お願い!」
スーの身体が、ふわりと輪郭を失った。
執事服をまとった少年の姿が、みるみる大きくなっていく。四本のたくましい脚が地面を踏みしめ、背中には大きな翼が広がった。
そして現れたのは、堂々たるグリフィン!
「……おおおっ!」
思わず目を輝かせてしまった。
グリフィン!
グリフィンですよ、グリフィン!
鷲のような頭と翼、獅子を思わせる力強い身体。
異世界ファンタジーではおなじみの、あの格好いい幻獣である。
スー、分かってる!
ものすごく分かってる!
せっかく空を飛ぶなら、こういう姿がいいよね!
「かっこいい! スー、最高!」
グリフィンスーが誇らしげに胸を張った。
……いや、もしかして照れているのかな?
グリフィンの姿だと表情は少しわかりにくいけれど、何となく嬉しそうなのは伝わってくる。あたしはスーの背中によじ登り、首のあたりにしっかりつかまった。ラーは小さなスライムの姿になり、あたしの肩にちょこんと乗っている。
「ラー、落ちないようにね」
肩の上のラーが、ぷるんと揺れた。
うん。大丈夫そう。
それにしても、こんな小さなスライムが、普段はかわいいメイドさんの姿(侍女だけど)をしているんだから、本当に不思議だよねぇ。
準備が整うと、スーが大きく翼を広げた。次の瞬間、身体がふわりと浮き上がる。
「わあああっ!」
思わず声を上げそうになって、慌てて口を押さえた。
静かに、静かに。
今は家出の真っ最中なのだ。
スーの翼が夜気を捉え、あたしたちの身体はぐんぐん高度を上げていく。屋敷の屋根が、みるみる小さくなっていった。
庭も、塀も、見慣れた建物も。
あたしが六年間暮らした場所が、少しずつ遠ざかっていく。高いところから眺める公爵邸は、思っていた以上に大きかった。
広い庭園に、いくつもの建物。立派な塀に囲まれたその場所は、まるでひとつの小さな町のようにも見える。
あたしにとっては、ずっと世界のほとんどすべてだった場所でもある。
生まれてから六年間、あたしが知っていたのは、あの屋敷と、その周辺くらいだったのだから。
不思議と、寂しさはなかった。
もちろん、父には一度くらいちゃんと会って、話をしてみたかったけれど。お父様は、あたしに優しくしてくれた数少ない人だった(と思う)。
ただ、辺境に赴任しているため、もう長いこと会っていない。あたしが屋敷でどんな扱いを受けていたのか、きっと知らないのだろう。
もし知っていたら、どうしただろう。
……ううん。
今は考えないことにしよう。会いたい気持ちがないわけではないけれど、今はそれよりも、自分の身を守る方が大切だ。
「スー、とにかく領地の外までお願い!」
スーが小さく頭を動かした。そして、力強く翼を羽ばたかせる。
夜空を飛びながら、あたしは思った。
異世界転生。
魔法。
守護霊獣。
そして、六歳で家出。
……何だか、思っていたのと違う方向に進んでいる気がする。
でも。
「……楽しい!」
思わず笑みがこぼれた。
前世では、こんなふうに自由に空を飛ぶなんて、想像すらできなかった。
夜風が気持ちいい。
星がきれい。
そして、何より。
これからどこへでも行ける。
あたしは顔を上げた。
空には、数えきれないほどの星が瞬いていた。屋敷の窓から眺めていた星空とは、まるで違う。遮るもののない夜空は、どこまでも広がっている。
月の光を受けた雲が、遠くで銀色に輝いていた。その下を、あたしたちは風を切って進んでいく。
……ああ、すごい。世界って、こんなに広かったんだ。
肩の上でラーがぷるんと震えた。
「ラー、寒い?」
小さな身体が左右に揺れる。
「大丈夫? あたしはすっごく気持ちいいよ!」
すると、ラーが嬉しそうにぴょこんと跳ねた。スーも、あたしを乗せたまま滑らかに翼を動かしている。
あたしはその背中に身を預け、夜空を見上げた。
家族から見捨てられた。
売られそうになった。
それだけを考えれば、確かにひどい話だと思う。
でも、今のあたしは、こうして大好きな二人と一緒に空を飛んでいる。
誰にも行き先を決められず、誰の顔色をうかがうこともなく、自分で選んだ場所へ向かっている。同じ出来事でも、どこを見るかで、こんなにも気持ちが変わるものなんだね。
もちろん、嫌なことをなかったことにはできない。
でも、その先に何を見つけるかは、自分で決められる。
「……よーし!」
あたしは小さく拳を握った。
「これから、いっぱい、いーっぱい異世界転生を楽しむぞー!」
……あ。
ちょっと声が大きかったかも。
慌てて口を押さすと、肩の上のラーがぷるぷると震えた。
笑ってる?絶対、笑ってるよね!?
こうして、あたしたち三人?の旅が始まった。
◇◇◇◇
公爵領を抜けたあと、あたしたちは人目につかない場所を探して降り立った。
周囲には木々が広がり、遠くに小さな町の明かりが見える。夜の森は静かで、ときおり風が枝葉を揺らす音が聞こえてくる。少し離れた場所では、小さな虫の声もしていた。
……うん。
こういう雰囲気、嫌いじゃない。
ただし、今のあたしは六歳の女の子である。
いくら魔法が使えるとはいえ、森の中で野宿するのは、さすがに避けたい。
でも、そこは心配ご無用!
あたしには、スーがいるのだから!
スーはグリフィンの姿から、いつもの執事姿に戻った。
「今日はここで休もうか」
「うん。僕が家になるね」
「お願い!」
スーがそう言うと、その身体が再び形を変え始めた。
今度は横へ、上へと広がっていき、やがて目の前に一軒の家が現れた。もちろん、あたしたちが何度も試作を重ねた、日本風の家である。
「……おおっ!」
何度見ても感動する。
だって、さっきまで執事だったスーが、今は立派な一軒家になっているんだもの。もう、何でもありだよねぇ。
外観は落ち着いた雰囲気の家だけれど、中に入れば、前世の日本で暮らしていたときと同じような設備が整っている。
玄関で靴を脱ぎ、居間に入る。
ふかふかの寝具に、使いやすい台所。
そして、念願のお風呂!
「……最高!」
思わず両手を広げてしまった。
家出初日だというのに、何という快適さだろう。前世で旅行に行ったときだって、こんなに設備の整った宿に泊まれるとは限らなかった。
しかも、この家はスーが変身したものだから、必要に応じて間取りや家具の配置まで変えられる。
収納もたっぷり。
掃除の手間もほとんどかからない。
そして、何より素晴らしいのが、水回りである。
台所では清潔な水が使えるし、お風呂には温かいお湯を張ることができる。
さらに!
なんと、トイレまで水洗式なのだ!
これ、大事!ものすごく大事!
異世界に転生してからというもの、あたしは魔法の便利さに何度も感動してきたけれど、やっぱり生活に欠かせない設備が整っているというのは、本当にありがたい。
しかも、ただ水が流れるだけではない。
使った水はスーが浄化してくれるので、いつでも清潔な状態が保たれているのだ。
嫌な臭いも残らないし、掃除だってほとんど必要ない。
……何これ。
前世の住宅設備メーカーが聞いたら、卒倒するんじゃない?
ただし、ひとつだけ疑問がある。流したものは、最終的にどこへ行くのだろう?
以前、一度だけスーに尋ねたことがある。
「スー、トイレで流したものって、どうなってるの?」
「ちゃんと処理しているよ」
「処理?」
「うん。マナが困らないようにしてあるから、安心して」
「……そうなんだ?」
「そこは僕に任せて。マナは気にしなくていいよ」
そう言って、スーは爽やかな笑顔を浮かべた。
……うん。何だろう。
ものすごく気になるけれど、これ以上聞かない方がいいような気がする。世の中には、知らない方が幸せなこともあるのだ。
とにかく!
我が家のトイレは清潔で快適!それで十分なのである。
ちなみに、スーが家になっている間は、人間の姿で会話することはできない。でも、家の設備はちゃんと機能するし、こちらの希望にも応えてくれる。
まったく、本当に便利な守護霊獣だ。
……というか、ここまでくると、守護霊獣というより住宅設備会社では?
しかも、家そのものになれるんだから、建築会社まで兼ねている。
スー、万能過ぎ。
もちろん、ラーだって負けていない。
ラーは料理も裁縫も上手だし、あたしの髪を整えてくれるし、何より一緒にいて楽しい。
あたし、本当に最高の二人を授かったんだなぁ。
◇◇◇◇
お風呂に入る前に、あたしはドレスを脱ぎ、ラーと一緒に作ったTシャツとズボンに着替えてみた。
……うん。
やっぱり、こっちの方が断然動きやすい!
家を出た今なら、誰に気兼ねすることもなく好きな服を着られる。
これだけでも、何だか自由になった気分だ。
せっかくだから、パーカーも羽織ってみる。
ファスナーを引き上げると、滑らかに閉まった。
シャッ。
「ふふふ。やっぱり便利!」
前世では当たり前のように使っていたファスナー。でも、今世では、自分で材料から作り上げたものだ。そう考えると、何だか特別なものに思えてくる。
「マナ、その服、やっぱり似合ってるね!」
「ありがとう! これからは、こういう服をもっと増やしたいな」
「ラーも、もっといろいろ作ってみたい!」
「いいね! 旅先で布地を買うのも楽しそう!」
もちろん、町の人たちがどんな服を着ているのかは、まだわからない。あまりに変わった格好をしていたら、目立ってしまうかもしれないけれど。
……まあ、そのときはそのとき! 今は、好きな服を着られることを喜んでおこう。
「マナ、ご飯できたよ!」
ラーが嬉しそうに呼んでくれる。
食卓には、温かな料理が並んでいた。しかも、今はちゃんと味がついている。
「ラー、すごい! おいしい!」
「えへへ! ラー、いっぱい練習したんだよ!」
ラーが得意そうに胸を張る。
最初のころは、味つけが少し不思議な料理もあったけれど、今ではすっかり上達している。
スーもラーも、あたしが教えたことをどんどん覚えていく。
その成長の早さには、いつも驚かされるばかりだ。
おいしいご飯を食べて、温かいお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠る。
……あれ?
これ、本当に家出?
何だか、ちょっと豪華な旅行みたいなんだけど。もちろん、油断は禁物。
今は誰にも見つからないように行動しなければならないし、これからの生活も考えなくてはいけない。
でも、スーとラーがいれば、きっと大丈夫。
あたしはベッドに潜り込み、柔らかな布団に包まれながら、今日一日の出来事を思い返した。
公爵家を出て、グリフィンになったスーの背中に乗って、夜空を飛んだ。知らない土地に降り立ち、こうして温かな家の中で眠ろうとしている。
たった一日で、こんなにも世界が変わるなんて。
……いや、違うか。
世界が変わったというより、あたしが自分で動いたから、見える景色が変わったのかもしれない。
これから、どんなことが待っているのだろう。
少しの不安と、それ以上の期待を胸に抱きながら、あたしはゆっくりと目を閉じた。
◇◇◇◇
翌朝。
あたしは地図を広げ、近くの町を指さした。
「まずは、この町のことを調べようと思うの」
「冒険するんじゃないの?」
ラーが不思議そうに尋ねた。
「もちろん、冒険もしたいよ!」
異世界ものが大好きだったあたしとしては、冒険者ギルドに登録して、依頼を受けて、魔物を倒して……なんて生活にも憧れる。
でも、現実問題として、あたしはまだ六歳なのだ。
しかも、身分を隠して家出してきた公爵令嬢。
いきなり冒険者ギルドに飛び込んで、「今日から冒険者になります!」なんて言っても、門前払いされるのが目に見えている。
「だから、まずは情報収集!」
「何を調べるの?」
ラーが尋ねる。
「この領地がどんなところなのか。領主はどんな人なのか。治安はいいのか。それから、物価や暮らし方も知りたいかな」
「なるほど!」
「あと、おいしいものがあるかどうか!」
ラーが勢いよく手を挙げた。
「それも大事!」
あたしも思わず頷く。
そう。
せっかく自由になったのだから、おいしいものだって食べたい。
珍しい景色も見たいし、いろいろな人にも会ってみたい。
でも、まずは安全な場所を見つけること。
冒険は、それからでも遅くない。
「よし! まずは町の様子を調べよう!」
「うん!」
「ラーも楽しみ!」
こうして、あたしたちは新しい領地での第一歩を踏み出すことになった。
スーが家の姿から元の執事姿に戻ると、あたしたちは町へ向かって歩き始めた。木々の間から差し込む朝日が、足元の道を明るく照らしている。
遠くに見えていた町の建物が、少しずつ近づいてきた。
あたしは期待に胸を膨らませながら、二人と並んで歩いていく。
……とはいえ。
六歳の女の子と、執事姿の美少年と、メイド姿の美少女。この組み合わせで町に入ったら、ものすごく目立つんじゃない?
町へ続く街道に出ると、荷馬車や旅人とすれ違うようになった。そのたびに、何となく視線を感じる。
……いや、気のせいかな?
でも、よく考えてみれば、執事とメイドを連れた六歳の女の子なんて、どう見ても普通ではない。しかも、あたしはTシャツとズボンにパーカーという、この世界ではかなり珍しい格好をしている。
だって、すれ違う人たちを見ても、こんな格好をしている人なんて一人もいないんだもの。
……うん。
これは駄目かもしれない。
「ねえ、二人とも」
「どうしたの?」
「なあに、マナ?」
「まずは、目立たない格好を考えるところから始めようか」
冒険への道は、なかなか遠いらしい。




