第75話:静かなる森の歪み
森の奥へ向かおうとし、ディアナはそういえば御者を村で待たせていたことを思い出す。
日帰りの予定だったので、きっといつまでも戻ってこないディアナを心配していることだろう。
一度帰らせたほうがいいかもしれない。ついでに、レナードへ今日は帰らないことを報告してもらおう。
「ごめんなさい。森を調査する前に、ちょっと村へ寄ってもいいかしら。家に報告をしておかないと」
「もちろんです。気付かず申し訳ありません」
ノエルに断りを入れ、ディアナは村へと向かう。
馬を休ませていた御者はすぐに見つかり、今日はノエルのところに泊まるのでもう帰るように伝えた。
森の異変については報告しなかった。
詳しく伝えればレナードのことだ。すぐにリヴィウスを差し向けてくるに違いない。
それだけは嫌だった。ディアナは、まだ何も成し遂げていない。
あまりにも手に余る状況になれば話は別だが、今はまだ瘴気について何もわかっていない状態だ。
せめて原因を明らかにしてからどうするか決めたかった。
報告は、調査が終わったあとでもいいだろう。
御者を見送り、ディアナはノエルを振り返る。
「せっかく村に来たんだし、先に村の様子を確認していきましょうか。
ノエルは、村については何か話を聞いてる?」
「特に、瘴気については何も聞いていません。作物や水にも、異常はないと思います」
ノエルの言う通り、少し話を聞いて回った限り、村は平和そのもので何もおかしなところはなさそうだった。
森には異変があり、その入り口にある村には何も影響がない。
「瘴気の原因は、森の中でしか効果が現れないのかしら。
精霊や妖精には、何かおかしなところはないの?」
「いつもと違う様子に少し騒いでいることはありますが、基本的にはあまり変わりません。
森の守護者であるドライアドも、いつも通りでした」
「……ドライアド?」
聞き慣れない言葉にディアナは聞き返す。そんなディアナの様子を見て、ノエルは「ああ、」と呟いた。
「木の上位精霊です。この森の主であり、守護者でもあります。
もう随分と昔からこの森の大樹に宿っていて、森に生きるものを見守ってくれているんです」
そう語るノエルの瞳は、今までで一番柔らかく温かな感情を宿していた。
ドライアドの存在が、彼女にとってとても大切な存在だということが、その短い言葉だけで十分に伝わってくる。
「そう。……ドライアドは、森の異変についてはなんて言ってるの?」
森の守護者ならば、森についてはずっと詳しいだろう。
直接的な原因はわからずとも、何かヒントが掴めればいい。
そんな思惑から出たディアナの問いかけに、ノエルは首を振った。
「上位精霊は、人の言葉で語りません。属性によって、多少個性はありますが。
——ドライアドは、在るがまま、そこに在る。
そういう存在なんです」
一通り村を見て回ったディアナたちは、改めて森の様子を見に行くことにした。
ノエルがまず向かったのは、森の中を流れる川だった。
「この辺りに多いの?」
「最近は川沿いに生まれることが多いです。水辺は澱みやすいので理屈はわかるのですが、川は流れがある分澱みにくいので珍しい例だとは思います」
川の水は澄んでおり、不自然に堰き止められることなく川下へと穏やかに流れている。この川はミシュトレイの傍を流れる大河から分かれた派川で、森の中央を通り南東のほうへ流れていくらしい。
ぱっと見た感じでは、異常は見受けられない。だが、ノエルは川から少し離れた木々のほうへ近づくとしゃがみ込んだ。
「ありました」
驚いてディアナはノエルの足元を覗き込む。
そこには、先程のような黒い靄が小さく漂っていた。
「これが瘴気なのよね」
「はい。これくらいなら、普段は自然の浄化作用に任せて放っておくのですが、発生原因がはっきりとしない以上放置しておくのは危険なので浄化してしまいます」
懐から取りだした小さな袋の中から、ノエルは再び青色の石を取り出す。そして両手で優しく包み込むと目を閉じた。
青色の浄化の光が靄を少しずつ晴らしていく。完全に消えたのを確認し、ノエルは目を開けた。
「終わりました」
「今のが浄化なのね。具体的には何をどうしているの?」
「瘴気の元である自然界の歪みを下位精霊を使い正していました。
最近この辺りで発生している瘴気は木属性が弱まっていることが多いので、水の精霊の力を借りて木のマナを強めたんです」
なるほど。さっきの青い光は水属性を表す色だったのか。
感心しながら、ディアナはノエルの手の中にある青い石を見つめる。
「石で精霊が呼べるのね」
「上位精霊になると杖で正式な手順を踏む必要がありますが、下位精霊であれば同じ属性で清めた石で可能なんです」
万物にはマナが宿る。自然物にも人工物にも、生命にもそれは存在する。
マナには属性があり、適したバランスを保つことで正しい姿を保っていられる。
瘴気とは、そのバランスが著しく崩れてしまうことで起きているのだという。
話を聞き、ディアナは木々を見上げる。ディアナが生まれるずっと前から大地に根を張り、多くの命の住処となり、恵みを与えてきた力強く堂々と仰ぎ立つ木々を。
「素人考えで申し訳ないんだけど……森の中で木属性のマナがそんなに弱まるなんてあることなの?」
「普通なら有り得ません。一部のマナのバランスが崩れたとしても、周囲のマナがそれを補うはずなので」
話を聞けば聞くほど、この森での異変は自然に起こりうることとは思えない。
だとしたら、何か人為的なものが関わっているのだろうか。
「最初は、魔術師が関係してるんじゃないかと思ったんです」
考え込むディアナの前で、ノエルが口を開く。
「大規模な魔術を使用すれば、自然界のマナのバランスは著しく変動します。
もし私の知らない間に、この森で大規模な魔術が使用されていたんだとしたら、このような異変が起こっても不思議じゃありません」
でも、国にそのような報告は上がってきていないという。
魔術師がマナの変動に大きく影響する大規模な魔術を使用する際は、瘴気の発生にも直結するため国に報告義務があるらしい。
それがないということは、魔術師は関与していないのか。あるいは。
ディアナの脳裏に、ほんの少し前に都市で起こった謀略が浮かぶ。
嫌な予感を振り払うように、ディアナは軽く頭を振りその記憶を追いやった。




