第72話:東の森の魔女
幼い少女は、新しく祖母となった師に連れられて大樹の前へ立つ。
『——ノエル。彼女がドライアド。この森一帯の守護精霊よ』
力強い緑の光が眩しい。その光に重なるように、穏やかな笑みを浮かべた女性が立ち少女を見下ろしていた。
少女のすべてを受け入れてくれる温かな眼差しは、好奇や恐怖の視線に晒され続けていた少女の心を優しく包み込む。
精霊は人の言葉を用いない。
ただ、自然のままに、そこに在る。
それが、少女にとって何よりの救いだった。
『これから、あなたは魔女になる。
そうしたら、もう独りじゃない。
……私が、いつかいなくなっても。
彼女たちが、ずっと傍にいてくれるわ』
師匠の声が、少女の心に染みわたっていく。
——そうして、少女は魔女となった。
◆
街道を進む馬車の中で、ディアナは資料に目を通す。
東の森へは、子どもの頃レナードについて何度か訪れたことがある。
森の中まで入るのは危険ということで、入り口の村で待たされることがほとんどだったが、先代にも何回か会ったことがあった。
だが、後継の少女には一度も会ったことがない。
ここ四、五年は訪れる機会がなかったので、その間に弟子になったとかなのだろうか。
魔女は遺伝ではなく、素質を持つ者を家族に迎え入れるという。それならば会ったことがないのにも説明がつく。
書かれた名前を指でなぞる。ノエル、とそこには記されていた。
「どんな人なのかしら」
レナードが推薦するくらいだ。人となりは問題ないのだろう。
だが、再契約を固辞していたり、支援を断ったりと、一筋縄ではいかない印象も受ける。
まずは話してみないことには始まらない。ディアナは窓の外へ目を向けた。
考え事をしていれば、東の森まではあっという間だった。
草原の中に濃い緑がうっそうと茂るのが見えてくる。その手前には村の共同耕作地である麦畑が広がっていた。
秋の収穫に向けて鍬入れや種蒔きを終えた豊かな土壌の中に、誰かが立っているのが見える。
それは女性だった。纏った濃い灰色のローブから、夜明けの空のような藍色の髪が覗く。
作業中といった様子ではない。周囲でも村人が数人彼女を見守っているのを見て、ディアナは馬車から降り村人へ近づいた。
「こんにちは」
「おや。ローズベルト家のお嬢さんじゃないか。どうしたんだ、こんなところまで」
見知った顔の村人へ声を掛けると、向こうもこちらを覚えてくれていたようで気さくに声を掛けてくれる。
「少し用があって。……あれは、なにをしているの?」
「麦穂の豊かな恵みを祈るんだ。見るのは初めてか? きっと驚くぞ」
村人の言葉にディアナは麦畑の中に立つ女性へ目を戻す。
彼女は腰に下げた袋から緑の石を取り出した。両手で捧げるように頭上を仰ぎ、目を閉じる。
その瞬間、空気が変わった気がした。
「——金の花輪、雪の綿羽、赤目の子」
静かに、凛とした声が響く。
女性が言葉を紡ぐ度に、吹いていた風が意思を持って巡り始める。
穏やかに服を、髪を揺らす風に色が混じる。捧げる石と同じ緑と、麦穂を思わせる金が風の中で煌めいている。
「捧げるのは金の十字、牡山羊と猫。実りの風吹かんことを」
風の中に透き通った女性の姿が浮かび上がる。両の手で彼女を包み込めるほど大きな女性は、その両腕を大きく伸ばした。石を捧げる女性を中心に風が渦を巻き、緑と金が弾ける。
光の粒はきらきらと煌めきながら麦畑全体へ広がり、土壌へと落ち消えていった。
「綺麗……」
「すごいよなあ。ああやって、コルンムーメに麦の豊作を祈るんだ」
「コルンムーメ?」
聞き慣れない言葉に村人を見上げる。村人は精霊さ、と誇らしげに答えた。
「穀物の実りを助けてくれるんだ。麦が育つ時期の風はコルンムーメが起こしていて、受粉を助けてくれる。
おれたちには祈りを捧げるときしか見えないが、ありがたい存在だよ」
そうして無事に収穫を迎えたときには、お礼として最初の麦を捧げるのだという。
「見えなくても敬意を払うのね」
「そりゃあそうさ。見えなくたって、いるのは変わらない。
おれたちは『お隣さん』って呼んでるがね。生活を共にする存在だ、仲良くしたいだろう」
まあ、イタズラには困ったもんだがね、と笑う様子は近所の子どもの悪さを笑うようだ。
精霊や妖精もイタズラをするのねと返すと、そっちのほうが多いという。
「だけど適切な距離感を保っていれば可愛いイタズラさ。魔女はその距離感を教えてくれる。だから、ノエルにはほんとに助かってるんだ」
「ノエル……」
一般の人々には見えない精霊や妖精を見ることができ、橋渡しをする魔女。
彼女がノエルだったのか。予想はしていたが、改めてディアナは女性を見た。
石をしまった彼女はゆっくりと麦畑から出てくる。まっすぐディアナのほうへ向かってくると、その髪よりも深い紺の瞳でディアナをじっと見つめた。
「レナード様から話は聞いております。
……東の森の魔女、ノエルといいます。ようこそお越しくださいました」
鈴を鳴らすような、静かな声が歓迎を伝えた。




