第6話:契約破棄を要求します
最後の悪あがきとばかりにディアナは深く息を吐くと、目の前の黒猫に話しかける。
「……本当に、貴方は悪魔なのね」
「そうだ」
「契約で、私は願いを叶えてもらう代わりに魂を差し出さないといけないのね」
「そうなる」
「わかった。わかったわ」
心を静め現実を受け入れ、ディアナは背筋を伸ばし毅然とした態度でソファへ腰かける。
先程までとは打って変わって冷静なディアナのまっすぐな視線に、リヴィウスは黙ってその丸い目を更に丸くした。
「なによ」
「いや、てっきりもう少し騒ぎ立てるかと思ったが。案外肝が据わってるんだな」
「騒ぎ立てて結果が変わるなら、私だってそうするわ」
これが揺るがない現実だと受け入れた以上、ディアナがしなければならないのは少しでも現状を改善させることだった。
「話をしましょう」とディアナは冷静に口を開いた。
「正直言って、このままでは私も納得しきれないわ。情報を頂戴」
「そうだな。お前は魔術師じゃない。いきなり魂をと言われても、戸惑うのは当然だ」
なんせ人間は魂を過度に神聖視したがる生き物だからな。
そう言って、リヴィウスは対面のソファへと軽やかに飛び乗る。
寛ぐように丸くなる黒猫の仕草に、つい和んでしまう。
あれが悪魔だと知っていてもそう思ってしまうのは、相手の思う壷なのだろうか、とディアナは少しだけ不安になった。
「まず、なぜ俺が召還されたのか話をしよう」
尾を優雅に揺らしながらリヴィウスが口火を切る。最も知りたい内容に、自然とディアナは前のめりになった。
「それよ。いったい、なぜ貴方は現れたの?」
「昨夜指を怪我しただろう? その血がランタンにかかった。たとえ少量でもランタンに触れれば、召喚の儀式は発動する」
「そんな、たったあれだけで?」
ディアナは指へ視線を落とす。血が流れるほど深く切ったというのに、傷口はもうすっかりなくなっていた。
そのことに違和感を覚える。
それだけではない。ランタンのレバーに手を触れただけであのような切れ方は、普通に考えておかしい。
それに、今リヴィウスが何気なく口にした『発動』という言葉。
やけに馴染みのあるその単語から、ディアナはとある可能性を思いつく。
「あのランタンは、魔道具なのね?」
「察しがいいな。その通りだ。
正しくは魔道具ではなく、魔具——魔術の粋を集めた逸品だ」
リヴィウスは感心したように肯定し、ゆるりと尾を振った。目の前に黒い炎が燃え上がり、昨夜書斎で見たランタンが現れる。
「悪魔を召喚するには、高度な技術や知識はもちろん、異界への扉を開くだけでも膨大な魔力が必要だ。
だけどこれは特注品でな。召喚に必要な魔力と召喚陣を組み込んでる。
発動の引き金になる契約者の魔力が僅かにでも込められれば、自動的に俺が召喚されるってわけだ」
便利なもんだろ? と胸を張るリヴィウスに対して、まったく肯定することができない。
ぐったりと、ディアナは項垂れ呟く。
「曾お祖父様は、なんてものを保管していてくれたのかしら……」
「そう言うな。お前の先祖も、まさか魔具とは知らなかったんだろう。
これは大気中のマナを変換して召喚の魔力を蓄えるが、一度発動すると必要量を満たすのに百年はかかるからな」
魔力が満ちるのに、もっと時間がかかるような設計であればよかったのに。
何故か曾祖父の肩を持つ悪魔を睨んでから、ディアナは居住まいを正した。
「とりあえず、貴方がここにいる理由はわかったわ。では本題に入りましょう」
ディアナは目の前の黒猫を睨みつける。
「契約破棄を要求します。
先程も言ったけど、これは事故。商談の場も設けず一方的に突きつけられた契約を、呑むつもりはないわ」
「お前も随分と強情だな」
当たり前だ。自分の命が懸かっているのだ。
絶対にこの契約を認めるわけにはいかない。
どんな手を使ってでも破棄してやるという気概溢れるディアナを見つめ返しながら、リヴィウスは「そうもいかない」と冷静な声音で告げた。
「お前との契約を果たさないと、俺は異界に還れないからな」
「どういうことよ」
雲行きの怪しい言葉に、ディアナは眉を寄せる。
「俺たち悪魔は、自由に異界と現世を行き来できるわけじゃない。魔術師の召喚術によって、世界の壁を越え、魔力の器によってこの世に留められる。
その力に俺たち悪魔は抗えない。このランタンは召喚の原理に魔術師の秘術を用いている。理屈は同じだ」
異界に還るには召喚者の願いを叶えるか、召喚者を殺すくらいしかない。
そう告げるリヴィウスの言葉に、ディアナは眩暈を覚えた。
「お前に残された道は二つだ」
小さな前足を組み直し、リヴィウスは淡々と告げる。
「命を懸けるに値する願いを見つけ、悔いなく魂を差し出すか。
悪魔との契約を破棄するためだけに、今すぐその命を絶つか。
俺としては前者を勧める。人間の一生は短い。命を懸けても、望みを叶えられずに終わる人間は星の数ほどいる。
悪くない提案だと思うけどな」
「生憎、私にとってはそうじゃないのよ」
どう考えても八方塞がりだ。追い詰められていることを自覚しながら、ディアナは悪あがきのように口を開く。
「――貴方の言葉が真実だという証拠は?」
「証拠はない。だが俺は契約に関して嘘はつかない。
どうしても信じられないというなら、魔術師ギルドにでも駆け込み真実を訴えたらいい」
だが、そんなことしてみろ。
自分で提案しておきながら、リヴィウスは悪魔らしくその瞳を細める。
「狂人のレッテルを貼られるくらいならまだいいが、悪魔の存在を知る者に知られてみろ。
待っているのは秘術を勝手に行使した罪での投獄か、悪魔の力を行使するための道具として一生使われ続けるか。
まあ、碌な運命じゃないだろうな」
あんまりな未来にディアナは青ざめる。
「そんな、非人道的なこと」
「ないと思うか? それならお前は幸せだ。この世の闇を知らずに生きてくることができたんだからな」
脅すように凄むわけでもなく、ただ事実を伝えていると言わんばかりの声音にディアナはそれ以上の反論はできなかった。
もしもそのようなことがまかり通るというのであれば、ディアナが真実を訴え第三者に保護を求めるということはできない。
この問題はディアナの不注意によって起きたことだ。ディアナだけが被害を受けるならともかく、下手をすればローズベルト家まで巻き込んでしまう。
それだけは、避けなければならない。
膝の上で拳を固く握り、ディアナはこの状況をどうすれば打開できるか必死に思考を巡らせていた。
召喚を取り消すことはできない。契約内容についても、こちらの願いを聞く気はあるが対価を変える気は一切ない悪魔に、これ以上交渉しても意味がないだろう。
なら他は。どの部分だったら、まだ交渉の余地があるだろうか。
時計の針の音だけが部屋の中に響く。随分長く黙り込んでいるにもかかわらず、文句の一つも飛んでこない悪魔の様子がふと気になり、ディアナは顔を上げた。
対面のソファで寛いでいたはずの黒猫は姿が見えず、いつの間にか文机の上に移動しじっと瓶を見つめていた。
豊穣祭でローラと揃いで買った、あのハニードロップの瓶だ。
「……食べたいの?」
「俺が? 馬鹿言え。悪魔は物を食べない」
一蹴するリヴィウスを、ディアナは訝しげに見つめる。
「じゃあ、なぜそんな熱心に見つめているの」
「これはクイーンビーの蜜で作った飴だろう。
大戦の頃は王族連中の嗜好品だったっていうのに、今じゃ子どものおやつだ。時代ってのは変わるもんだ。
クイーンビーといえば、生息地域で蜜の味も変わるらしいな。
昔北で食ったやつは香りがだいぶ特徴的だったから、これはどうかと思っただけだ」
やたら饒舌に話す悪魔だ。
しかも、食べないと言っておきながら詳しい。
これは、と思いながら立ち上がり、瓶の蓋を開ける。
傾ければ琥珀色の小さな粒が二三個転がり出てきた。
本物の猫のように鼻を突きつけ匂いを嗅ぐ悪魔に「食べていいわよ」と告げる。
「食べられないわけじゃないんでしょう。私も北とどう味が違うのか興味があるわ」
「そこまで言うなら食べてやろう」
急に生き生きと背筋を伸ばした悪魔は転がる飴を器用に一粒口に運ぶ。
そのまま舐めるかと思いきや、氷を齧るように勢いよく嚙み砕く姿に、呆気にとられた。
あれで味などわかるのだろうか。
「どうかしら」
「甘い。硬い」
「貴方に食を語る権利はないわ」
ディアナの辛らつな言葉も気にせず、機嫌良く飴を食べ続けるリヴィウスを見て毒気が抜ける。
先程まで心を占めていた焦燥感は消え、冷静になった頭がある考えをディアナに囁いた。
目の前に示された、二つの道の間。
そこに、細いが確かに光る道を、ディアナは見つけた。




