第5話:戻れなかった日常
「……取って喰おうとしてるじゃない!」
「おっとようやく理解が追いついたか。やっぱり一般人との契約は最初ごたつくのが面倒だな。
かといって魔術師と契約するのは死んでも御免だ。悪魔に死の概念なんざないが」
「貴方の事情なんてこれっぽっちも知らないわよ!」
けろりと宣う男の言葉を一蹴し、ディアナはきっと睨む。
「それより、さっき言ったじゃない。『別に取って喰おうというんじゃない』って!
魂が対価ってなによ、完全に獲物じゃない!」
ディアナの主張に、リヴィウスは心外だというように眉を寄せた。
「語弊があるな、正当な願いに対する対価だ。
お前はこの世の森羅万象を支配するような大きな力が、金貨一枚で手に入るとでも思ってるのか?
大いなる奇跡の前には多大な代償が不可欠だ。そうだろう?」
「じゃあささやかな願いを言うから、対価もささやかなものに変えなさいよ」
得意げに言い放っているが、やっていることはほぼ詐欺と変わらない。
ならば、とディアナが条件を提示すると、リヴィウスは嫌そうにかぶりを振った。
「なんで俺が譲歩しなきゃならない。召喚については抗えないが、契約の主導権は悪魔にある。
対価として要求するのは魂だ。それは譲れない」
「なによそれ、不当契約もいいとこだわ!」
最初は薄気味の悪さから恐怖が上回っていたディアナだったが、現状を把握するにつれあまりにも理不尽な要求に怒りが込み上げてくる。
本人の合意なく契約が半強制的に交わされたこともそうだし、願いと対価の交渉すら一方的とはあまりにも舐められ過ぎている。
商家の娘としてこんな契約を鵜吞みにするわけにはいかなかった。
相手が悪魔であるかどうかなど、もはやどうでもいいことだった。
ディアナは鋭い眼差しをリヴィウスへと向ける。
「契約破棄を要求するわ。あれは事故よ。このままなにもせず、大人しく帰ってちょうだい」
「わからない奴だな。いいか、悪魔契約っていうのは――」
「いいから私の前から消えて!」
くどくどとうるさい男を一喝すると、リヴィウスは呆れたように息を吐き口を閉じる。
と、その直後背後で静寂を守っていた扉からノックの音が響いた。
「お嬢様、おはようございます。お支度の手伝いに参りました」
「っローラ。ちょっと待って、まだ――!」
聞こえてきた声にぎょっとして、ディアナは男から視線を外し扉を振り返る。
ディアナの制止もむなしく、先程は頑なにディアナを拒んでいた扉はあっさりと開きローラが顔を出した。
「あ、もう起きていらしたんですね。静かなのでまだお休みになっているのかと思いました」
「え……」
あまりにもいつも通りの様子であるローラにディアナのほうが戸惑ってしまう。
はっと気付き室内へ目を向けると、そこに先程までいた男の姿はどこにも見えず、穏やかな日差しが窓から差し込むばかりだった。
手慣れた様子で準備を進めるローラがソファの枕を見つけ、おかしそうに持ち上げる。
「もうお嬢様、いくら熱中しているからってソファで寝るのは身体に良くないですよ」
「……ちゃんとベッドで寝たわ」
「え、じゃあなんでソファに枕が置いてあるんですか?」
「それは、……」
男のことを話そうとして、やめる。
この穏やかで平凡な日常の光景にそんな話をするのは、あまりにも荒唐無稽で不釣り合いだと感じたからだ。
されるがまま崩れた髪を結い直してもらい、ディアナは階下へと下りる。
行き交う使用人たちも、食堂で待つ両親もいたっていつも通り。
拍子抜けするほど変わらない朝の風景の中、やはりさっきの出来事はすべて性質の悪い冗談だったのではないかと思い始めていた。
「ディアナ、どこか調子が悪いの?」
ぼんやりと朝食を口に運んでいると、母・セシリアが心配そうに顔を覗き込んできた。
隣でレナードも気遣わしげな眼差しを向けている。
「最近忙しかったから風邪でも引いたかい」
「お医者様を呼んだほうがいいかしら」
「だ、大丈夫よ。少し疲れているだけだから」
慌てて否定するが心配の色は消えない。
目の前で交わされる視線でのやり取りを見て、焦りながらどう話を逸らそうかと考えていると、父が口を開いた。
「調子が悪いなら明日のパーティは欠席にするかい。
ケレメン氏には、また改めて挨拶に行ったらいい」
「……パーティ?」
「明日ケレメン家で競売があるだろう。
そこで行われるパーティに是非参加をと、誘われていたじゃないか」
そういえばそうであった。仕事で遠方にいたため、ケレメン氏はディアナの誕生パーティに参加できなかった。
ようやくミシュトレイに帰ってきたので改めてお祝いしたい、とパーティの誘いを受けていたのをディアナはようやく思い出した。
昨日までは確かに頭にあったはずの予定は、どうやら今朝の出来事で見事に飛んでしまっていたらしい。
このままではいけない、とディアナはいったん昨夜からの出来事を頭の隅に追いやり気持ちを切り替える。
「いえ、参加するわ。私もケレメン様には早めにご挨拶をと思っていたもの」
ケレメン家といえば、金融業を生業とし、王侯貴族だけでなく聖界諸侯とも縁を持つこの都市でも有力な家だ。
あそこの家は子どもが嫡男一人しかおらず、ディアナの婚約者候補とはなりえないが、ローズベルト家として友好関係を築いておくのは悪くない。
奮起するディアナの様子にまだ心配の色を残しながらも、レナードは「そうかい?」と首を傾げるだけに留まり、それ以上無理に休めとは言わず納得してくれた。
「ディアナがいいならいいが、無理はしないように。
なんなら途中で帰ってもいい」
「そういうわけにはいかないでしょう。どういうものが出品されるの?」
ウォルターが差し出した出品物の目録を眺める。目録には挿絵もついており、どのような品か一目でわかるようになっていた。
「ノワール王朝の絵画に水神の力を宿す短剣……あら、人魚の涙まで。
随分と希少なものが多く出品されるのね」
「ケレメン氏は昔から稀代の収集家だからね。
今回はその収集物から、選りすぐりのものを出品されるそうだよ」
「競売だけではなくて、パーティの方もすごい力の入れ具合だそうよ。楽しみね」
にこにこと笑うセシリアに微笑み返し、食後のお茶に口をつける。
喉を滑り落ちる温もりと香りに、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのがわかった。
ゆっくりと思考を巡らせる中、ディアナは今朝の出来事は自分の胸だけに秘めておこうと決めた。
レナードは新たな事業展開でここ数日忙しく、セシリアも施療院での活動や家の切り盛りに忙しくしている。
あれが本当に悪魔かどうかの確証もない中、下手に騒ぎ立て彼らを心配させることは避けたかった。
なにもないならそれでいい。このまま、もとの日常に戻っていければディアナはなんの問題もない。
三人での朝食の席を和やかに終え、ディアナは自室へ戻るため階段を上り廊下を歩く。
自室の扉の前で足を止めると、否応なしに黒と金が思い起こされ、恐怖と不安が一瞬胸を占めた。
もしかしたら、と一瞬浮かぶ気持ちを無理やり押し込め、冷たく感じるドアノブに手をかけゆっくりと開いた。
部屋の中を見渡す。その向こうには想像した黒と金はどこにも見えず、いつもと同じ静かな風景がディアナを迎え入れた。
拍子抜けするほどの静寂がしばしその場を支配する。
ディアナは無意識に強張っていた身体から力を抜き、安堵から誰にともなく「ほらね!」と強気の声を発した。
「なんともないじゃない。やっぱり悪魔なんて嘘だったのよ。どうせ分の悪くなった妖精が逃げ出したんだわ」
都市に妖精が出るのは珍しいが、いないわけではない。
ディアナの前になぜ姿を見せたのか。どんな意味があってあのような悪戯を仕掛けたのか。
疑問は尽きることがないが、所詮妖精の気まぐれとすべてを棚の上に放り投げ、ディアナは思考を放棄することに決めた。
気を取り直し、ディアナは日常を続けようと声を弾ませる。
「せっかくだしローラとまた祭りにでも行ってこようかしら。リックに予定を聞かないといけないわね」
幼馴染である二人と祭りを巡る光景を思い浮かべる。彼らとの時間は、良い気分転換になるに違いない。
善は急げとベルに手を伸ばしたときだった。
「少しは頭が冷えたか」
聞こえた声にびくりと身体を震わせ振り返る。
だが、そこにディアナの想像した男の姿はなかった。
警戒しながら忙しなく視線を周囲に走らせるディアナの耳に、「ここだ」ともう一度声が届く。
随分と足元から届く声に疑問を持ちながら、ディアナは視線を床に落とした。
「……猫?」
そこには一匹の黒猫がいた。
艶やかな短い毛並みに丸い金色の瞳。洗練された見た目は、貴族のような気品を備えていた。
だが、その瞳だけはまるで違う。
したたかな知恵を宿した金色の瞳が、ディアナを見つめる。
今しゃべったのはこの猫なのかと見つめ返していると、猫は小首を傾げディアナを見上げた。
「俺も考えたんだが、寝起きから男が自室にいたらご令嬢が動転して激高するのも当然だ。
どうだ、この姿ならまだましだろう」
ふんと小さな胸を張り、自慢げに耳を小さく動かす様子はどこから見ても愛らしい猫そのものだ。
そこでディアナはようやく理解が追いつく。
この猫が、あの悪魔と名乗る男なのだと。
「小鳥のほうがいいか?」
見当違いの問いを重ねる猫にディアナは沈黙する。
自身の内に、先程のような激情はない。代わりに込み上げてくるのは、これが現実だという圧倒的なまでに無情な絶望感だった。
ここまで来たらディアナは認めてしまわなければならないだろう。
一度ならず二度までも、この男は目の前で信じられない光景を生み出しているのだから。




