第4話:その男、悪魔につき
力強く小さな足が野を駆けていく。草が肌をくすぐっていく感触を感じながら、息を弾ませ少女は丘の上の木を目指した。
木陰に探した影を見つけ、駆ける速度は更に増す。大きな本を熱心にめくる少年が少女に気付き、顔を上げた。
『――!』
声をかけ、少女は少年の横へ腰を下ろす。
『聞いて! あのね、フレイバードの巣を見つけたの。雛もいたのよ。毎日観察していれば、尾羽を採取できるかも!』
向こうの木々のところにね、と興奮のまま身振り手振りを加え話す。
つい先程の発見を楽しそうに語る少女の声に、少年は柔らかな表情で相槌を打つ。
そして一通り説明を終え、息を吐く少女の頭を優しく撫でた。
『ディアナは本当に素材収集が好きだね』
『だって色々試してみたら面白い発見があるかもでしょう? そうしたら、お父様の魔道具作りのお役に立てるもの』
そうでしょ? と首を傾げて問うと少年は黙って微笑む。
その笑みが少しだけ寂しげだった理由に、ディアナは気付くことができなかった。
わからず、ただ黙って手を引いた。――を一人にしたくなくて。
『ほら、――も見てみて。一緒に探しましょうよ』
自分よりも少し固く、大きな手を力強く引く。いつだって、――はディアナが引くと仕方ないというようについてきてくれた。
ディアナの駆け足を少年はたった一歩で縮めてしまう。四つ年上の彼は、ディアナよりもずっと大人に見えた。
だから、気付かなかった。
引く手はディアナより大きくても、まだまだ細く頼りないことに。
だから、わからなかった。
その背はディアナより高くても、世間でいえばまだまだ子どもであることが。
だから、知ろうともしなかったのだ。
ディアナからは見えない世界が、――からはよく見えていたことを。
◆
浮上する意識と夢の狭間に漂いながら、ディアナはあれはいつのことだったかと定まらない思考でぼんやりと考える。
ああそうだ。あれは初夏、家族でルナ湖の別荘へ遊びに行ったときのことだ。
父の仕事の都合で一月ほど滞在することになり、暇を持て余していたディアナは、毎日素材採集と称しながら湖畔を探検していた。
今思えば後をついて回る大人は大変な思いをしただろう。普通に考えて、豪商の娘を一人で放置なんてできるわけがない。
あのときは本当に考え無しで、目の前のことしか見えていなかった。
あのときに比べたら、自分はきちんと成長しているだろうと思う。
そうでなければならない。
小鳥のさえずりが微かに聞こえる。もう朝かと、ディアナは目をうっすらと開いた。
ぼやける視界に見慣れた寝台のシーツが映る。
その向こう側に文机の上で広げられたままの日記を見つけ、あのまま寝てしまったのかと大きく息を吐いた。
どうもまだ疲れが残っているように感じる。
成人してからここ最近、確かに予定がずっと詰まりっぱなしではあった。だからだろうか、あんな妙な夢を見たのは。
とても恐ろしい悪夢だった。曾祖父の書斎での一夜を思い出し、ディアナは身震いする。あのときの金が、まだ脳裏にこびり付いて離れない。
もう逃がさないというような、闇を切り裂く鮮烈な光が。
「ようやくお目覚めか」
ディアナしかいないはずの部屋に男の声が響く。
聞いたことのない声にディアナは寝台から飛び起きた。己の身を守るようにシーツを抱きしめながら、慌てて周囲に目を走らせる。
朝の陽光が差し込む部屋に似つかわしくない、黒一色の男がそこにいた。
若く不自然なほどに美しい男だった。
年のころは二十代半ばといったところだろうか。
正装を着崩したような衣服は一見だらしなくも見えそうだが、男の雰囲気が合わさるとそれが妙に様になっていた。
柔らかそうな黒髪が男の動きに合わせて揺れる。ソファで長い足を組み、ゆったりと寛いでいた男は、ディアナと目が合うと鋭いアンバーの瞳を面白そうに細めた。
その光にあの夢と同じものを見て、ディアナは青ざめる。
「今まで多くの人間に召喚されてきたが、直後に一晩放置されたのは初めてだ」
「あ、貴方、なんっ……!」
「何者か、か? 名乗りも聞かず倒れたからな、混乱するのも無理はない。
だけどまずは身だしなみくらい整えたらどうだ」
ぱちりと指を鳴らす音が響く。その途端ディアナの周囲に風が巻き起こった。
あの悪夢のような炎を纏う風ではない。春の息吹を感じる心地よい風が髪を攫う。
風の中、乱れた髪は櫛で梳かしたように整い結われ、皺が刻まれていた夜着は柔らかな室内着へ瞬く間に変化した。
驚き自身を見下ろすディアナを見て、満足そうに男は頷く。
「俺の名はリヴィウス。見ての通り悪魔だ。
久しぶりに呼び出されたと思ったら、まさか契約者がこんな小娘とは思いも――おっと」
話の途中に飛んできた枕をリヴィウスは平然と受け止める。投げつけたディアナはそのまま脇をすり抜け扉へ手をかけた。力任せに押し開けようとするが扉はびくともしない。
「開かない……⁈」
「意外と血気盛んなお嬢様だな。そう逃げようとするな。別に取って喰おうというんじゃない。
俺はただ契約の履行を――ああ、言っとくが大声を出しても無駄だからな。今この部屋は外部から遮断されてる。喉が潰れるだけだ」
息を大きく吸ったディアナの口は、見えない手によって無理矢理閉ざされる。
目を白黒させるディアナを呆れたように眺めていたリヴィウスは、「まずは話を聞け。いいな?」と念を押した。
頷くディアナから向けていた指先を下ろす。途端に自由になった口に手を当て、ディアナは茫然とリヴィウスを見た。
いったいこの男はなんなのだ。
目の前で次々と起こる不可思議な出来事に、ディアナは理解が追いつかない。
万が一、鍵をかけ忘れ侵入した不審者だったとして、誰にも気付かれることなくディアナの自室まで来るのはほぼ不可能だ。
あるいは魔術師の類だったとしても、魔術を使うには呪文や杖、触媒がいる。それなのに、なぜこの男は指先一つでこうも軽々と奇跡を操るのだろう。
そこでディアナは先程の男の言葉を思い出した。
悪魔。確かに男はそう言った。
だがそれを受け入れることを感情が、いや本能が拒絶している。信じたくないという思いを込め、ディアナは口を開く。
「……悪魔ですって?」
「さっきからそう言ってる」
「そんなわけないじゃない。あれはお伽噺。神話の世界の話よ。現実にいるわけない」
「目の前でこれだけ不可思議なことが起こっているのにか?」
「妖精にだって同じようなことはできるわ」
たぶん、と心中で付け加える。
そんなディアナの内心を見透かすように、目の前の男は鼻で笑った。
しかし、悪魔よりはずっと現実的だった。
この世界には妖精や精霊、魔物など不可思議なものが溢れかえっているが、悪魔なんて単語、古い魔術師の逸話の中でしかお目にかかったことがない。
遠い昔、この世界がもっと混沌に満ちていた時代。異界の未知なる存在を使役し、力を振るったという太古の魔術師たちのお伽噺。
その力は天地を割り、軍勢を容易く屠るだけでは飽き足らず、この世に満ちる万物の理すら覆したという。
だがそれは神話的誇張か抽象的な表現であり、現実にそんな存在がいるなんて想像したこともなかった。
現に、今存在する魔術師たちはそんな怪しげな術は使わない。
そんな存在を信じるよりも、悪戯好きの妖精がディアナを騙そうとしていると思うほうがよっぽど納得がいく。
ディアナの理性は、確かにそう訴えていた。
だが、どこか小骨が引っかかったような違和感と、座りの悪い気持ちがディアナの心の内でずっと燻り続けている。
目の前の男は悪魔なんかじゃない。そんなものは存在しない。――本当に?
「大方あのランタンに閉じ込められていた妖精かなにかでしょう。もう一度自由を奪われたくなかったら、さっさとどこかに行ったほうが身のためよ」
そんな心の声を掻き消すように、気丈な様子でディアナは声を張り上げる。そんなディアナの強がりを歯牙にもかけず、リヴィウスは軽く肩を竦めるだけだった。
「お前が信じようと信じまいと結構だが、契約は果たさなくちゃならない。昨夜の答えを俺はまだ聞いていない」
「答え?」
何のことかとディアナは眉を寄せる。
そんな自分に、目の前の男は形の良い眉を動かし口を開いた。
「言ったろう。『血の契約に基づき、どんな願いも一つだけ』」
「血の契約……?」
「血を捧げただろう。忘れたとは言わせない」
思い出したくもない、昨夜の情景が強制的に呼び起こされる。
指先に鋭く走った痛み。黒に包まれた室内。煌々と己を見下ろす禍々しい月を。
あれは、夢ではなかったのか。
息を呑み固まるディアナをよそに、目の前の男はソファから立ち上がる。そして改まってディアナに向き合いその両手を広げた。
大仰で芝居染みたその仕草は、不思議と人を惹きつけ視線を逸らすことを許さない。
未だ混乱の最中にある思考をそのままに、ディアナはすらりと伸びた指先を無意識に目で追った。
「契約した人間は一つだけ願いを叶えることができる。莫大な富か、権力か、永遠の恋の成就か。なんでも好きなことを願うといい。
魂を対価に、この俺が叶えてやろう!」
よく通る声が部屋中に響き渡った。堂々とした佇まいは宣誓を行う騎士のようであり、それでいてどこか道化のように滑稽だった。
どこかちぐはぐなこの男の言葉が少し遅れてディアナの頭へと浸透していく。
契約した人間の願いを叶えるという悪魔。
たった一言ディアナが願うだけで、富も、権力も、人の心すら自由にできるという。
魂を対価に。
……魂を。




