第3話:黒の世界で悪魔は嗤う
夜闇が覗く窓に帳を下ろし、ディアナは文机へ腰を下ろした。手元のランプに手を伸ばす。
鉱石の部分に触れると自然に手から魔力が流れ込み、優しい明かりが机の上を照らした。
蛍石は魔力に反応して日中蓄えた光を放出する性質を持つため、光源として重宝され屋敷の至る所で用いられている。
この大きさだとそこまで光を溜め込めないため持続時間は僅かだが、寝る前のひと時を過ごすだけならば十分だ。
今日も一日やり切った充足感と軽い疲労感で身体を満たしながら、寝台へ潜り込む前の最後の日課を行おうと引き出しを開ける。
そこには革張りの分厚い本が一冊収まっていた。金の装丁を撫で、ページを開く。
今日一日を通してやったこと、見聞きしたこと、ふとひらめいたアイデアや気になったことなどを思い付くままに書き留めている日記は、文量は異なれど毎日欠かされることなく綴られており、なんだかんだともう三冊目になる。
インクの染みたペンを紙面に付ける。
日記の中では、ディアナは少しだけ自由だった。返事を認める際の几帳面な筆跡とは異なり、流れるように続く文字が生き生きと踊る。
今日仕上げた手紙の数、明日の予定などを記していると、ふと脳内にローラの言葉が浮かび上がった。
机の端に視線をずらす。そこには虹色に輝くブローチが置かれていた。
譲れないこと、と紙面の端に書き足す。じわりとインクが黒い染みを作った。
ディアナにとって譲れないことは、当然ローズベルト商会の発展だ。そのためなら次期夫人として、どんなことにも耐える覚悟があった。
商会を受け継ぐ夫を支え、家を守る。時には母のように慈善活動に従事したり、社交に出て人脈を築くこともあるだろう。
淑女として夫を立て、陰に家を支える。
それ以上に、大事なことなどない。
瞼が重くなってくる。そろそろ寝台へ向かったほうがいいかもしれない。
だけどあと少しだけ。ブローチのことだけ記しておきたい。あの不思議な文様。いつかどこかで見たことがある気がする、あの——。
硬くひんやりとした感触が頬に心地良い。
重たい頭を机に預け、少しだけとディアナは目を瞑った。
◆
風が窓を叩く音で目が覚めた。強張ってしまった身体をゆっくりと起こす。気付くとランプは消え、部屋を暗闇が満たしていた。
随分と長く居眠りしてしまっていたことを感じ、ディアナは頭を抱える。
目の前のことに夢中になると周囲が見えなくなってしまうのは、ディアナの悪い癖だ。
そのことでよくローラに小言を言われるし、両親には未だに幼子を見守るような視線を向けられてしまう。
特に父には「そういうところは君の曾祖父にそっくりだね」と揶揄われることが多かった。
どうやらディアナとローズベルト商会の創始者である曾祖父はよく似ているらしい。
吊り目がちの瞳も曾祖父から受け継いだのだと聞いたことがある。
ディアナには曾祖父との思い出はないが、幼い頃は曾祖父の書斎で父が色々な品物を見せてくれながら話をしてくれたものだ。
ふとディアナはひらめくものがあった。
曾祖父の書斎。そういえばあの文様は、あそこで見たことがあったのではないか。
気付いた瞬間、ディアナの心はそわそわと落ち着きなく高鳴った。今すぐ確かめてみたいという好奇心と、こんな深夜に自室を出るなんてという理性が激しく言い争っている。
ひと眠りしてしまったせいで、眠気はまるで訪れようとしない。
「……少しだけなら、平気よね」
誰にともなく言い訳を口にする。
どうせこんな夜にまともに探すことなどできやしない。だが、このまま眠ることはできそうになかった。
少し書斎を覗けばこの好奇心も満足するだろうと、ディアナは立ち上がる。
携帯用のランタンを手に取り、ディアナは静かに扉を開けた。
人の気配がないしんと静まり返る廊下をまっすぐ進む。
日中とは違い、ほんの少しの衣擦れがやけに大きく響くような気がした。
目的の部屋はすぐそこだ。この屋敷で最も奥まった突き当りの一室。
主亡き今は、資料庫としても機能している曾祖父の書斎の扉を前に、ディアナは一瞬だけためらった。
ここはディアナの家だ。何も悪いことをしているわけではない。だが夜の闇と、普段とは逸脱した行動が、まるで禁忌を破っているかのような背徳感を自身に与えていた。
うるさく鳴る心臓と足元からじわじわとせりあがってくる緊張感に踵を返したくなる。
そんな気持ちとは裏腹に、ディアナは恐る恐る手をドアノブにかけた。
かちゃりと音がする。もしかしたら鍵がかかっているかもという懸念を裏切り、重厚な木の扉はあっさりと開いた。
蝶番の軋む金属的な音が静寂を切り裂く。古い紙とインクの匂いが肺を満たした。
夜の世界で見る曾祖父の書斎は、まるで異世界だった。
部屋の両側の壁は天井まで届く本棚が並び、多種多様の書籍や文献たちが詰め込まれている。
正面の窓の下に備えつけられたチェストの上には小箱が並び、紙の束や用途不明の木製細工などが乱雑に突っ込まれていた。
まるで子どものおもちゃ箱のように、何もかもが浮つき雑然としている部屋の中で、ただ書斎机だけがどっしりと鎮座していた。
近寄り手を添えると、滑らかな感触が伝わる。
この部屋の掃除だけは、他のメイドに任せずウォルターが行っている。
曾祖父との交流もあったという彼は、きっと思い出を思い返しながらこの机を磨いているのだろう。
音を立てぬようランタンを机の上に置く。するとその瞬間ランタンの光がかき消えた。
「やだ、故障?」
蓄えられた光が尽きるには早過ぎる。
原因はわからないが、闇夜に慣れぬ視界で、こんな何が転がっているかわからない部屋に滞在するのは危険過ぎた。
慎重に壁に手を添える。確かそこには備え付けの燭台があった。手探りでマッチを手に取り、明かりを点ける。
蛍石よりも頼りないが温かみを感じる小さな火が、ディアナの周囲を満たした。
とりあえず身の危険を回避した安堵から小さく息を吐くと、ディアナは周囲を見渡す。
自室へ戻るにしても滞在するにしても、もう少し明かりが欲しいところだ。できれば手で持ち運べるものがいい。
何かないかと探るディアナの足が、何かにぶつかった。
同時に響いた金属音に、驚いて足元を見る。
「……ランタン?」
積まれた書籍の上にはランタンが一つ置いてあった。
拾い上げて、確認する。
年季は入っていそうだが手入れは行き届いており、今すぐ使えそうだった。
ウォルターか父が最近使い、置き忘れていったのかもしれない。オイルを入れたまま放置するのは危ないが、今夜ばかりは助かった、とディアナは火を点けるためレバーを探す。
――今思えば。
この日、何か一つでも違っていたら。
きっと、何もかもが違う未来を歩んでいたのだろう。
もしも豊穣祭でブローチを見つけていなければ。
自室で素直に床に就いていたら。
ランタンの明かりが消えた時点で書斎を出ていたら。
そんな無数の『もしも』を搔い潜り、手繰り寄せたたった一つの未来は、果たして『運命』と呼ばれる類のものなのだろうか。
今の私にはわからない。
ただ、一つ言えることは。
この夜から、ディアナ・ローズベルトという人間は始まったのだ。
レバーを見つけ、火をつけるため力を込めた。途端指先に鋭い痛みが走る。
「いたっ」
咄嗟に手を引くと同時に、微かに濡れる感触が指を滑る。
切ってしまったのだ、とディアナは眉を寄せた。
清潔な布などこんな夜中に持ち合わせているわけもなく、溢れた血はゆっくりと垂れランタンへと落ちた。
その刹那、世界は一変した。
ランタンに勢いよく炎が灯る。
まるで噴き出すように、視界を赤が染めていく。
同時に、薄暗く締め切られているはずの部屋に、季節に似つかわしくない生温い風が吹き荒れた。
風は意思を持つように分厚いカーテンを大きく揺らし、棚の調度品を薙ぎ倒し、唯一の光源であった燭台の炎を呆気なく吹き消す。
ディアナは思わず叫び、頭を守るようしゃがみ込んだ。視界の端で影が動き、世界が黒く染まっていくのが見える。
赤から黒へ。乱雑に書物が散らばる床が、闇に浸食されていく。
恐る恐る顔を上げる。自分以外のすべてが闇に呑み込まれた世界で、ディアナは煌々と輝く金を見た。
闇の狭間から声がする。獲物を見つけた、この世ならざる者の歓喜の声が。
――願いを。
声の主は、黒の世界に一人取り残されたディアナへとそっと囁く。
甘く、撫でつけるような、それでいて魂の底から深い恐怖を呼び起こさせるような声で。
――血の契約に基づき、どんな願いも一つだけ。
信じられない気持ちでディアナは虚空を見上げた。暗闇の中に月が浮かんでいる。いや、月ではない。あれは瞳だ。
およそ血の通った生き物のものとは思えない、金色の瞳が悠然とディアナを見下ろしていた。――そう、見ていた。
それは確かに明確な意思を持ち、ディアナを見つめている。そのことに気付いた瞬間、ディアナを大きな恐怖が襲った。
この世のものではない何かに、己を認識されているという事実に身体が震える。
金色が歪んだ。まるで嗤うように。
再び声が響いた気がしたが、ディアナにはその言葉がどのような意味を持つか認識することができなかった。
目の前が暗くなる。己を包む、闇よりも深い黒。
心音がすぐ近くで聞こえる。急激に襲いかかる睡魔に、ディアナは抗う術を持たなかった。
身体が傾く。そして。
──ゆっくりと、ディアナは意識を手放した。
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