第2話:譲れないこと
成人を迎えたディアナの日常は忙しかった。方々からくる社交の誘いに返事を書く毎日。祝いの品への返礼に、女性同士の社交も欠かせない。
痛む手を休ませているディアナの横で、小さく茶器の触れ合う音とご機嫌な様子が窺える鼻歌が響く。
本来業務中に鼻歌など、叱責の一つ飛んできてもおかしくない状態だがディアナは気にしない。
ここは私室で、彼女とは生まれたときからの縁だ。
社交に関わる場ならばともかく、プライベートな空間でそのような小言を言うほど浅い付き合いをしているつもりはない。
それを彼女もわかっているのだろう。鼻歌の主は特に気にすることもないままディアナの手元に淹れたてのカップを置く。
澄んだ紅と広がる甘い香りに、ディアナは目を細めて置いた人物を見上げた。
「ありがとうローラ。これは新しい茶葉?」
見上げた先で、ディアナ付きの侍女・ローラは深い青の瞳を細めた。
「わかりますか? 市で見つけたんですが、お嬢様好きそうだと思って」
「本当ね。ミルクと合わせても美味しそう」
「それもいいですね、午後のおやつで試してみましょう」
名案だとばかりにローラは手を合わせ瞳を輝かせる。
どんな菓子と合わせようか楽しそうに語るローラを見ていると、文字を追い続け凝り固まった身体もほぐれていくようだった。
いつだって明るく元気いっぱいの彼女は、傍にいるだけでいつもディアナに活力を与えてくれる。
「それにしても、いつもながらすごい量の手紙ですね」
やれやれと呟くローラの目の前には、山のような手紙が積まれている。
そのうちの一通を手に取って、家名や内容を確認し、必要事項を手元の用紙に書きつける。
朝から作業してもなかなか減らない手紙の量に、ディアナはうんざりと呟いた。
「やっぱり正式に顔見せしてから増えたわね」
「それだけお嬢様が魅力的だったんですよ! でも素敵な男性もたくさんいましたね。どなたか気になる方とかいらっしゃいましたか?」
「そうね……」
楽しそうに話を振るローラにディアナは記憶を探るよう視線を上に向ける。そんなディアナをローラは期待した目で見つめた。
「筆頭はメレス家かしら。果樹園のこともそうだけど、確か鍛冶ギルドの長がメレス家当主と親類関係だったでしょう。メリットが大きいもの。
でもツェーリア商会も捨てがたいわね。彼らは南への販路に強いから、共同経営できれば一気にローズベルト商会の間口も広がるわ」
「……そういうんじゃなくてですね」
我ながら完璧な情報分析だと頷くと、ローラが肩を落とし呟く。何か間違えたかと彼女を見たところ、「いいですか」とローラは気を取り直したように姿勢を正し両手を組んだ。
「そんな仕事一辺倒な視点ではなくて、もっとこう、かっこよかったとか、あの言葉が素敵だったとか、そういうのが聞きたいんです私は」
「そう言われても」
「いなかったんですか、そういうときめきを与えてくれた方は」
「ときめきってそんなに重要?」
「そりゃそうですよ。どうせなら好きあった方と結婚したいじゃないですか」
ローラの言葉にディアナは先日の誕生パーティを思い出す。確かに顔を合わせた中には容姿の美しい者もいた。
都市貴族の中には周囲に領地を持つ貴族ももちろんいる。彼らは一様に整った見た目をしており、所作もやはりというべきか美しかった。
だが、そんな客観的な評価とディアナの心情はまた別だ。至近距離で見たそれらの容姿を思い出してみても、ディアナの鼓動は常と変わらないリズムを保ったまま。ときめきにはほど遠い。
でも、それでいいのかもしれない。紆余曲折ある恋など物語の中だけで十分だ。
重要なのはローズベルト商会にとっていかに有利な婚姻になるかどうかだ。人間性が破綻しているとか、ローズベルト商会を乗っ取るつもりだとかは論外だが、それ以外は特にディアナから伴侶に対して求めるものはなかった。
「別に、パートナーとして問題なければどうでもいいわ」
「そんなお歳で達観していてどうするんですか!」
ローラの叫びを無視してディアナは手元に視線を落とす。すると、ノックする音が響いた。
返事をすると老執事のウォルターが恭しく銀のトレイを持ち入室してくる。
「ルドルフ様からお嬢様へお手紙が届いております」
「お祖父様から?」
戸惑いながら受け取ると、ウォルターは丁寧に礼をして退室する。
それを確認してから、ディアナは緊張の面持ちで封筒を見つめた。
ルドルフ・ローズベルト。
ディアナとは血の繋がった家族であり、ローズベルト商会をここまで大きくした実力者でもある。
不慮の事故で足が不自由となり、引退してからは表立って姿を現すことは無くなったが、彼の影響力は現在も大きい。
その偉大さはわかっているものの、ディアナにとっては気難しい方という印象が拭えない。
恐る恐るディアナは封を開ける。中には、彼の性格を表すような固い文字が並んでいた。
『これからは、お前も大人としての振る舞いが求められる。
縁は、よく選ぶように』
大きめの封筒へ目を移す。そこには、有力貴族だろう人物の釣書が入っていた。
大きく息を吐きディアナはソファへ身を預ける。
なんだか一気に疲れてしまった。
一息つこうと、横の小箱を手に取る。
開けるとそこには虹色のブローチが収まっていた。
滑らかな表面を指で撫でる。ディアナの様子に気付いて、ローラが声を上げた。
「それ、結局買ったんですね」
「ええ。やっぱり気になって」
このブローチは昨日、気晴らしにとローラと豊穣祭へ繰り出したときに見つけたものだ。
「すごいですよね。それって、シヴァーニの鱗なんですよね?」
「そうは見えないわよね。どんな職人が作ったのかしら」
ローラが驚くのも無理はない。シヴァーニという魚の鱗はとても小さく、それを石のように加工する技術なんて、聞いたことがない。
おまけに、シヴァーニは危険を感じると透明になってしまう。そんな魚の鱗を加工するなんて、よほど腕の良い職人の仕事だろう。
だが、ディアナが購入を決めたのはその高い技術からではない。
ひっくり返し裏面を確認する。そこには職人が入れたであろう、刻印が掘られていた。
ブローチの淵に刻まれた、角ばった線と鉱石のような点。
工房の意匠としては違和感がある。
これを目に入れてから、ディアナの中にずっと既視感があった。
最近ではない、ずっと昔。どこかでこの文様を見たことがある気がする。
「……お嬢様」
考え込むディアナの思考に、ローラの静かな声が入り込む。
顔を上げると、彼女はいつもの快活な笑顔ではない、静かな微笑みを浮かべていた。
「人間、生きていると大変なことはたくさんあると思います。
理不尽だって思うことも、それに耐えなければならないときも、たくさん。
——でも、どうしても譲れないものも、一つくらいあると思うんです」
珍しいローラの静かな声に、ディアナは耳を傾ける。
四つ年上の彼女は、いつもは本当に年上かと思うような振る舞いをしてみせるのに、こういうときは姉替わりだと強く思わせる。
「私は、お嬢様にはその一つを、大事にしてほしいと思います」
まっすぐに見つめてくるローラの、海のような青をじっと見つめ返しながら、ディアナは「大丈夫よ」と微笑む。
「そのたった一つを、私は間違えないわ」
ディアナの言葉に、ローラは微笑む。
その笑みは、さっきまでのものよりも、少しだけ悲しそうだった。
「また豊穣祭に行ってみるのもいいわね。あのハニードロップ。とても美味しかったから、今度はみんなにもお土産に買ってくるのはどうかしら」
努めて明るい声を出しながら、ディアナは文机に置かれた小瓶へ視線を移す。
隣の都市から出店していたハニードロップは、ローラとお揃いで買ったものだ。
「リックの予定を聞いておかないとね。昨日は、無理やり連れだしちゃったから」
突発的に豊穣祭行きを決めたディアナたちのお供をするために、庭師の青年には随分と無理を言ってしまった。
だが、やはり共に出歩くなら気安い関係の者のほうがいい。
生まれたときから一緒である幼馴染のローラとリックは、ディアナが心置きなく過ごせる数少ない人間だった。
楽しそうに今後の予定を語るディアナを、ローラはしばらく見つめたあと小さく息を吐く。
そして気を取り直すように、いつもの笑顔を浮かべポットを差し出した。
お茶のお代わりを淹れてもらいながら、ディアナは手元のブローチへ再度目を落とす。
そこに刻まれた刻印が、ちりちりとディアナの記憶を刺激する。
あと少しで出てきそうな記憶の手がかりを振り払い、ディアナはカップを傾けた。




