第63話:崩れ去る崖の下へ
ヴェクスたちの眠りが覚めぬうちにと、リヴィウスたちは足早にもとの道を引き返すことになった。
あまり深い眠りにしてしまうと防塞としての機能が停止してしまう。ちょうどリヴィウスたちが村に帰りつく頃には覚めるように調整したので、あまり悠長にしているわけにはいかない。
行きと同様、適宜休憩を挟みながら引き返していくが、体力が削られている分進みはやや停滞していた。
特にルドルフは足の限界が近づいているのだろう。行きのときよりも重い足取りと僅かに上がる息は、隠そうとしても隠しきれるものではない。
先頭を歩くデニスが、すぐ後ろを歩くルドルフを気遣うように振り返る。その視線を不要というように手を振り、ルドルフは気丈にも杖を突き続けていた。
気概だけは立派な爺さんだ。さすが、あの喰えない当主の父親といったところだろう。
「……リヴィウス」
少しだけ足を緩め、声が聞こえないよう距離を取ったディアナがこっそりとリヴィウスへ耳打ちしてくる。
その視線は前方を歩くルドルフへと向けられており、瞳にはありありと懸念の色が浮かんでいた。
「お祖父様の体力を回復させたり、足の痛みを和らげたりするような魔術ってなにかない?」
問われた内容に、リヴィウスは内心驚く。
まさか、そんな言葉がディアナから飛び出すとは思ってもみなかった。
「魔術は神聖術とは違う。魔力を介して自然のマナを操り、超常現象を引き起こすのが基本原理だ。やろうと思えばやれるが、あまり突飛なことはするもんじゃないな」
人体の不調を整えるのは神聖術の分野だ。
女神の声を聞き、その奇跡の一端を貸し与えられ行使する神聖術は、女神の理を魔力で捻じ曲げる魔術師とは基本的に相性が悪い。
一部の例外もいないことはないが、わざわざ注目を集め、不信を買う必要はないだろう。
ディアナは心配しているようだが、あと二、三回休憩を挟めば村には十分帰り着く。
しんどい思いをするだろうが、そこは気概で何とかしてほしい。
ルドルフのためにリスクを取る義理も義務もないリヴィウスにとって、それは妥当な判断だった。
「でも……」
だが、ディアナは違うらしい。未だルドルフを案じる様子に、不思議なもんだなとリヴィウスは思う。
ルドルフは、ディアナにとって今一番の障害のはずだ。
屋敷を訪問したときの態度からも、この両者に親密な交流があったとは思えない。
もしもリヴィウスがディアナと同じ立場であったなら、これ幸いとばかりに「いい気味だ」と内心嘲笑っていたに違いない。
本当に、人間というのはどうかしている。
肉体的に血の繋がりがあるというだけで、ここまで自身にとって煩わしい人物に心を割くことができるのだから。
「——もう少し下った先に、沢がある」
どうすべきかと悩み続けるディアナに、リヴィウスは口を開く。
「冷たい水で足を冷やしたら、少しはましだろう」
リヴィウスの言葉に、ディアナは喜色を滲ませぱっと顔を上げる。
紫の瞳が輝き、リヴィウスを見た。
「そうね! それがいいわ。ついでにそこでお昼ご飯も食べましょう。もう正午を過ぎているし」
そういえば食事のことをすっかり失念していた。
悪魔には空腹感というものがないので、人間は食事が必要だということをつい忘れてしまう。
先程の提案をしようと、ルドルフたちに向かい駆けていくディアナの背を眺めながら、リヴィウスは時間を計算する。
食事の時間を考慮すると魔術の効果が切れるほうが早いだろうが、ここまで離れていればそんなに問題はないだろう。
ただ問題は、巣窟付近にいなかったヴェクスが一体もいなかったかどうかだけだ。
ヴェクスは縄張り意識が強い。魔物にしては珍しく、交代で巣の周囲を見回る習性を持つ。
もし仮に、あのとき見回りに出ていた個体がいたとしたら。
眠りの風は峡谷周囲にしか吹いていない。狂暴化して縄張りの範囲が拡大していたヴェクスが、その範囲外にいたとしたら。
ぴりりと痺れるような感覚が僅かに走る。
その直後、風を切る鋭い音と、聞き覚えのある唸り声があたりに響き渡った。
突然現れたヴェクスを前に恐怖で固まる三人を視界の端に入れ、リヴィウスは右手を突き出す。
即座に張られた障壁はヴェクスの猛攻を阻み、その巨体を弾き返した。
勢いを殺せなかった翼竜は、その身体を横の岩壁へと激突させる。
振動で大地が震える。動きの止まった隙を見計らい、リヴィウスは瞬時に次の魔術を展開した。
術式から生み出された強固な魔術の鎖が、容赦なくヴェクスを地へと縫い付けていく。
拘束から逃れようと暴れるヴェクスに問答無用で眠りの魔術を施す。瞬く間に力が抜け意識を失うヴェクスを確認し、リヴィウスは周囲を見渡した。
気配を探るが、これ以上攻撃を仕掛けてくる様子は見られないのを確認し、手を下ろす。
そして揺れに耐えられず座り込んでいたディアナを見た。
「平気か」
「びっくりしたわ……」
呆然としながらもはっきりと答えるディアナの言葉を受け、特に問題がなさそうだと判断したリヴィウスは他の二人にも目をやる。
動揺しているようであったが怪我などは見られないのを確認し、リヴィウスは拘束したヴェクスへ近寄った。
ざらついた体表へ手を添える。穏やかに呼吸を繰り返す胸の動きを確認すると、こちらも問題なさそうだと手を離した。
状況を確認しているリヴィウスに、デニスが近づいてくる。
「驚きました。まだ残っていたんですね」
「見回りに出てた個体だろう。他の気配は感じないが、念のため気配遮断はしておいたほうがいいな」
「助かります。卵石を回収したので、もう少ししたら落ち着くでしょう」
ほっと息をつくデニスの背後で、嫌な気配がする。
踏みしめた大地に、小さく亀裂が走る音。
ヴェクスがもたらした衝撃は、底を流れる川に浸食され長い年月をかけて脆くなった岩肌を的確に揺さぶった。
大きく張り出した断崖部分に裂け目ができる。足元が大きく揺れるのに驚く、まだ座り込んだままのディアナの姿が目に飛び込んできた。
舌打ちし、リヴィウスは崖崩れに呑まれようとしているディアナへ右手を伸ばす。
駆け寄り助ける時間はない。多少強引だが魔術を行使し助ける以外にこの場でできる対処はなかった。
術式を展開しようとするリヴィウスの耳に、杖を放り出す乾いた音が響く。
「ルドルフさん!」
驚いたデニスの声の先で、ディアナのすぐ傍にいたルドルフがその手を引き背後へと突き飛ばす。つんのめったディアナは、かろうじて無事な大地にその身を転がした。
ルドルフの足元が崩れる。さっと顔を青ざめるディアナの前で、迷う理由はリヴィウスにはなかった。
地を蹴る。土石と共に川底へと呑み込まれようとしているルドルフへ魔術の鎖を伸ばし引き寄せ、リヴィウスは左手に抱えたままだった卵石をディアナへと放る。
「持ってろ」
危なっかしく受け取ったディアナを確認し、リヴィウスは魔術式を展開した。滝のように落ちる岩や土砂から身を護るように、細かな障壁を幾重にも張り巡らせる。
無情に響く崩落の音が、リヴィウスたちを呑み込んだ。




