第61話:開戦の唸り
村からヴェクスの巣がある峡谷までは徒歩で二時間ほどかかる。
昼前には到着していたいということで、早朝には出発することになった。
「これを持っていけ」
簡単に支度を済ませるリヴィウスに、ルドルフが小さな球体を差し出す。
それは無機物と生物の中間のような、奇妙な質感をしていた。じっと見つめていると、ぎょろりと単眼が開きディアナを見る。
「ひ——っ⁉」
「監視用ゴーレムだ。登録した対象を追尾し行動を記録する。
元々ギルドが依頼実行者に貸し出すものだが、ハンターギルドに伝手があってな。一つ用意してもらった」
なるほど、これでリヴィウスの行動を監視しようということか。リヴィウスの周りを浮遊する球体を見上げながら、ディアナはついうっかり叩き落とさないようにしようと肝に銘じる。いきなり近くに現れたら、悲鳴を上げ叩いてしまいそうだ。
「それじゃあ行きましょうか」
「……待て」
準備は万端。さっそく出発しようとディアナがリヴィウスに声を掛けると、ルドルフが眉を寄せディアナを見る。
「なぜお前まで行こうとしている」
「リヴィウスがお祖父様に認められるかどうかは、私の今後にも重要なことです。リヴィウスを専従魔術師として選んだのは私ですし、傍で見届ける責任があります」
ディアナの当然の主張にも、ルドルフは良い顔をせず首を振る。
「ヴェクスが狂暴化しているのは昨日も言ったろう。下手に刺激をして被害を広げては、彼奴の負担を増やすことにもなる。ここで待て」
「それは……」
傍で見届けたいというのはディアナの勝手な想いだ。だが、それがリヴィウスの負担になるというなら押し通すことはできない。
どうなのだろうか、と一抹の不安と共にリヴィウスを見上げる。
「……だめ?」
リヴィウスはちらりとディアナを見やり、肩を竦めた。
「好きにしたらいい」
「だそうです」
今度こそ、安心してディアナはルドルフに向き直る。
その言葉にルドルフは戸惑うように瞳を揺らした。鋭い眼光をリヴィウスへと向ける。
「わざわざ危険に晒そうと?」
「どうやらご祖父君と俺では、危険の認識に齟齬があるようだ」
ルドルフの静かな怒りを受け流しながら、リヴィウスは悠然とした笑みを浮かべる。
ぴりりと緊迫した空気が一瞬走る。意見を変えようとしないリヴィウスを一瞥し、ルドルフは「よかろう」と低く呟いた。
「ならば私も行こう」
「お祖父様も?」
ぎょっとして、ディアナはゴーレムを回収するルドルフへ視線を向ける。
はったりでも強がりでもなく、本気で祖父が行こうとしているのを感じ取り、慌ててディアナは止めようと口を開いた。
「杖を突いて峡谷までの道中を歩くなんて、危険過ぎます。お祖父様は、ここで待っていてください」
「若い頃は峡谷沿いを毎日歩き回っていた。道には慣れている」
ディアナの制止を振り切り、従者と共に着々と準備を進めていくルドルフを呆然と見つめる。
これはもう止まらないと感じ、ディアナは最後の頼みとリヴィウスを見た。
「貴方からも言ってよ」
「別に何人増えようと大して変わりはしない。諦めるんだな」
ばっさりと、リヴィウスはディアナの頼みを断ち切る。
「大丈夫かしら……」
自身のことは棚に上げ、ディアナは峡谷までの道のりに不安を募らせるのだった。
◆
峡谷までの道は想像以上に険しかった。ごつごつとした地面が歩きにくさを助長し、曲がりくねった道や勾配が体力を容赦なく奪っていく。ルドルフもいるため、多めに休憩を取りながら峡谷の近くまで辿り着いたときには、村を出発してから三時間ほどが経過していた。
「——おかしいですね」
案内をしてくれていたデニスが周囲を見渡しながら呟く。その声音は安堵しているようでもあり、嵐の前の静けさに不安を覚えているようでもあった。不思議に思い、ディアナは前を歩くデニスに声を掛ける。
「どうしたんですか?」
「この辺りまで近づけば、もっとヴェクスが騒いでいてもおかしくないんですが。
——今日は、まったくといっていいほど気配がしません」
青い空を見上げる。晴れ渡った空にヴェクスの姿は見えず、穏やかな快晴が広がるばかりだった。
狂暴化しているというのが真実であれば、それは確かにおかしいことだった。巣にあるという卵石に何かトラブルでもあったのだろうか。
心配しているディアナの横で、まったく疲れを感じさせないリヴィウスが口を開く。
「魔術で気配を遮断してるからな。まだ気付かれてないんだろう」
いつの間にそんな魔術を使っていたのか。こともなげに言い放つリヴィウスを、デニスが驚いて振り返る。
「それはすごいですね。ギルドの方々が来た際も同じような対策をしますが、この距離だと気付かれてしまうことが多いのに。
彼らは気配にとても敏感ですから」
あそこです、とデニスが物陰にしゃがみ込み前方を指さす。ディアナたちがいる場所よりも少し下った先に、大地の裂け目が見える。
深く切り立った峡谷の岩肌には複数の穴が開いており、その中で羽を休めたり周囲を飛び回ったりするヴェクスの姿がここからでもはっきり確認することができた。
峡谷の底にあるという卵石はここからだと見ることはできない。いったいどれほど深いのだろう、とディアナは思わずにはいられなかった。
「あの、本当にお一人で行くんですか? ヴェクスは魔術耐性が高いことでも有名なんです。
やっぱり、応援を呼んだほうがいいんじゃ……」
「必要ない。応援が来ても邪魔になるだけだ」
巣を前に、デニスが恐る恐るルドルフとリヴィウスを交互に見て最後の確認を行うが、それをリヴィウスは軽く流す。
もはや彼の意識は、目の前の遊びに完全に持っていかれているらしい。
泰然と構えながらもその双眸だけは好戦的に光らせている悪魔を見やり、ディアナは心配になってくる。
「……気を付けてよね」
これはリヴィウスの身を案じての言葉ではない。
調子に乗って化けの皮が剥がれるようなことにならないように、という意思表示だ。
わかってるわよね、と言外に言葉を乗せリヴィウスを見ると、正確に意味を読み取った悪魔ははん、と鼻で笑った。
「誰に言ってる?」
大人しく待ってろ、と頭をくしゃりと撫でられ、ディアナは目を白黒とさせる。
頭を撫でられるなんて子どもの頃以来されたことがない。
驚きと、乱暴な指使いに文句を言おうと口を開きかけたときには、リヴィウスは立ち上がりヴェクスの巣窟に向け一歩踏み出したところだった。
指輪のはまる右手をひらりと振り、「さあて」とリヴィウスは気配遮断の魔術から自身だけを切り離す。
途端に、膨らんだ殺気が空気を震わせる。ヴェクスたちが、侵入者を認識したのが一目でわかった。
「大事な契約者様の新たな門出だ。邪魔してくれるなよ」
リヴィウスが駆け出す。
それと同時に、峡谷の狭間から空を割く唸り声と共に、無数のヴェクスが躍り出てきた。




