第56話:相反する瞳
「ここから先は楽しいお仕事の話だ。
すっかり立ち止まってしまっていたが、共同研究の話はまだ生きている。
だが魔術師全体への影響を考えると、慎重に進めていく必要がある。
レナードには軽く話していたように、まずは個人的な研究の補佐。
そこから既存の魔道具の効率性を上げる魔術の活用へと繋げていきたい」
ゆくゆくは都市内限定の試験運用、効果が証明されれば、本部へと許可を取り限定的に商品化の許可をもらっていきたいと思っている。
そうヘンリーが語るのを聞きながら、レナードも「問題ない」と頷く。
「そう一朝一夕にいくとは思っていない。まずは前例を作っていくことが大切だ。
若い世代が育てば、自ずと価値観も変わってくる。少しずつ変えていければいい」
まずは次の会合の日取りを、としばらく代表同士の話が続く。
その間も、リヴィウスは身じろぎ一つせずディアナの腕の中に収まっていた。
手持無沙汰なディアナはその背を撫でる。感触は本物の猫と変わりない。ピクリとリヴィウスの耳が動いたが、文句を言うわけでもなくそのまま大人しくされるがままになっているのを見て、ちょっと気を良くする。
艶やかな毛並みが指の間を滑る感触が心地よく、代表同士の話を耳に入れながらディアナはしばし柔らかな撫で心地を楽しんでいた。
「待たせたね。次が最後——そして最も重要なことだ」
ある程度日取りの目処が立ったのか、ヘンリーが立ち上がり一枚の書類を手に戻ってくる。
目の前に置かれたそれは、リヴィウスの公的な身分を証明するための書類だった。
「戸籍を偽造するわけにはいかないからね。リヴィウスは戦争孤児ということにさせてもらった。争いに巻き込まれ戸籍情報が消失してしまうことは、悲しいが珍しいことではない。魔力の高さを見込まれ魔術師としての訓練を受け、最近ミシュトレイに来たことになっている」
書類にはリヴィウスの名と、ミシュトレイの魔術師ギルドに所属していること、そして、共同研究の一環で専従魔術師としてローズベルト商会に無期限で派遣される旨が書かれていた。
「心に留めてほしいのは、これは魔術師ギルドとしてリヴィウスを保護するというわけではないということだ。
あくまでもギルド長である私の独断。他の魔術師は一切関知していない。
ギルド内で、彼が悪魔だと知るのは私だけだ。それを覚えておいてほしい」
「わかりました」
ヘンリーの真意は理解できる。心優しい彼は、ギルドに属する他の魔術師を巻き込みたくないのだ。
万が一リヴィウスが悪魔だとばれたとき、自分一人が罪を背負えば済むように。
「所属は魔術師ギルドだが、ギルド内の業務を振ることはない。だが、規律を無視されるわけにはいかないから、ある程度の内容は把握しておいてほしい。それ以外は、基本商会で好きなように動いてもらって構わない。
……何か質問は?」
ヘンリーに問われ、ディアナは何かあるだろうかと思案する。
内容としては特に問題ないと思う。商会での業務をどこまで実際に行うかは、レナードと話せばいいことだ。
また丁々発止とやりあうんだろうな、と遠い目をしていると、腕の中でリヴィウスが頭を上げた。
「一つだけ言っておく」
冷たい光を宿した金色の瞳をヘンリーに向け、同じくらい冷たい声を震わせる。
「専従魔術師として振舞うことは了承した。だが、お前の下につく気はない。
俺が契約したのはディアナだ。不測の事態が起こっても、俺の力は一切当てにするな」
あまりにも突き放した物言いにディアナはぎょっとしてリヴィウスを見下ろす。
自分の立場を危険に晒してまでリヴィウスに隠れ蓑を用意してくれたヘンリーに対して、その態度はあまりにも不敬だった。
「ちょっとリヴィウス。いくらなんでも、アルノルト卿に対して失礼だわ」
「いいや、それでいい」
リヴィウスを責めるディアナを制しながら、ヘンリーは彼の冷徹な瞳を真摯に見返す。
「リヴィウス。私も、悪魔としての君に何か命令するつもりはない。
専従魔術師という立場を与えたのは、私のためでも、ましてや君のためでもない。
ディアナ嬢が、なんの憂いもなくこれからの日々を過ごすことができるようにと、そのためのものだ」
国家魔術師に目を付けられてしまえば、契約者のディアナもただでは済まない。
もう二度と、師匠のときの後悔は繰り返さない。——ヘンリーの瞳は、そう物語っているように見えた。
「どうだかな。人間、大きな力が目の前にあればそれを求めずにはいられない。
今はそう思っていても、大切な人間が死の淵に追いやられたとき、同じようなことが言えるか?
たった一言命ずればすべてをひっくり返せる力があって、利用せずにいられるか?
俺はそうは思わない」
ヘンリーの誠実な言葉を前にしても、リヴィウスは冷淡な態度を崩さない。
彼は彼で、思うところがあるのだろう。魔術師に対する強い嫌悪を隠さないリヴィウスは、あまり過去のことは話さない。
けれど、長い年月の中で、そう思うだけの何かがあったのだということだけは、なんとなく想像ができた。
「確かに悪魔の力は強大だ。……だからこそ、安易に手を出していいものではない。
たった一人の心の弱さが、今まで積み上げた一切を破壊してしまって、いいはずがないんだ」
最後のほうは悔やむように、ヘンリーは呟く。
災厄の悪魔が召喚されたときのことが脳裏に呼び起こされる。
銀の風があらゆるものを嬲り蹂躙する。
歴史を積み重ねてきた遺跡も、当時の想いが刻まれた古代文字も、何もかも。
人々が積み重ねてきた一切を砂に還してしまったその力は、確かに人が簡単に手を出してはいけないものだろう。
「師匠もグランも、それぞれの夢のために悪魔を求めたが、私には必要ない。
今を生きる魔術師にもだ。——そういう時代にしなければならない」
どこまでも未来を見るヘンリーの瞳は、過去を決して求めない。
揺るがないその瞳を見つめていると、不意に腕の中の体温が僅かに変わった気がした。
腕の中のリヴィウスへ目を落とす。柔らかな愛らしい猫の姿はそのままで、特に変わった様子はない。
だが、その温かな体温のずっと奥。——途方もない悠久の時を抱えた、重く、冷たい悪魔としての何かが、ほんの少し揺れたような。
膝に乗るその黒猫の背が、いつもよりも少し小さく、儚く見えたような。
そんな気が、ディアナにはした。
「そうか。ならいい」
沈黙を破り、リヴィウスはただそれだけ口にする。
そして元通り丸くなると、それ以降は何も話すことはなかった。




