第52話:最高の目覚めと最悪の悪魔
大陸の中央部に位置するスウィフト王国。その西方に存在する自由都市・ミシュトレイ。
豊かな平原と国を両断する大河に挟まれた都市に、またいつもの朝が始まりつつあった。
職人街では賑やかな音がそこかしこから響き始め、使いの徒弟が忙しそうに走り回っている。
大通りには馬車が走り始め、都市は日が上るのと同じ速さでにわかに活気づいていった。
そんな喧噪から少し離れた、上流階級の屋敷が並ぶ区画にも朝がやってくる。
そのうちの一軒。とある一室。大きな窓の傍らに置かれた寝台で、眠る少女が一人。
背の中ほどまである豊かな金髪がシーツにあどけなく散らばり、陽の光を反射している。落ち着いた深い呼吸は、まだ彼女が眠りの底にいることを示していた。
窓の外では鳥のさえずりが囁き始め、風が日除けのレースを優しく揺らす。
隙間から零れた眩しい光が眠る少女の顔を掠め、長い睫毛がふるりと震えた。頬を撫でる冷たい空気に身震いし、剥き出しになっていた肩を温かな布団へと潜り込ませる。
まだ覚醒を拒む頭でとろとろと微睡みながら、少女は穏やかな夜の名残を胸いっぱいに吸い込む。
途端に、甘くむせ返るような香りが鼻腔を刺激した。
その香りに少女は覚えがあった。冬から春に移り変わるこの時期になると庭で満開に咲き乱れる、白と桃色の小ぶりの花。
その愛らしい姿をまだ開けぬ瞼の裏に思い浮かべながら、昨日庭師がもうすぐ咲くのだと嬉しそうに語っていたことを少女——ディアナはだんだんと思い出していく。
気の利く誰かが活けてくれたのか。それとも窓が開いているのか。
しかしどちらの場合でも、このように部屋いっぱいに充満するほど香るだろうか。
嫌な予感に再び夢の世界に旅立ちたくなる気持ちを堪え、ディアナはそっと目を開ける。
深い紫の瞳が最初に映し出したのは、白いシーツにはらはらと零れ落ちる桃色の花弁だった。
身を起こす。自身から滑り落ちていく小さな花びらを指で摘まみ、ディアナは周囲へと目をやった。
寝台の上はこれでもかという量の花弁で埋め尽くされており、他の家具もまた同様、いやそれ以上であった。
バルコニーへと続く窓には蔦を這わせ、文机の上に置いていたペンとインク壺の周りには小さな花が散らされ、部屋中央のソファ周辺は花束や花かごで埋め尽くされ。
まるで部屋が一つの園庭になってしまったかのようだ。
夢物語を愛する乙女であれば、うっとりと頬を染めたかもしれない。
呆然と眺めたのは数秒のこと。あまりにも度が過ぎた行いにわなわなと身体を震わせ、ディアナは犯人を糾弾するため深く息を吸った。
「リヴィウス!!」
「呼んだか」
誰もいないはずの部屋にディアナ以外の声が響く。
その声に驚くこともなく、ディアナはきっと鋭い視線をソファへと向けた。
もうすっかりこの部屋での定位置となったソファに、瞬きの間に現れた男——いや、悪魔は、月のようにも見えるアンバーの瞳を楽しそうに細める。
「最高の目覚めだろ、お姫様」
「これが楽しそうに見えるなら、一度医者に診てもらうことをお勧めするわ。
いったいこれはどういうことなわけ?」
「ちょっと小耳に挟んだんだが。今の時期はこの花を贈り合うのがこの国の風習らしいな」
詰問するディアナを気にする風もなく、リヴィウスはディアナに見えるよう、手近にある花を一本手に取る。
別名春を告げる花。この国を象徴する花であり、花言葉は『幸福の訪れ』。
「目を覚ますと甘い香りが広がる部屋に無数の花々。
どうだ。一日の始まりとしては、これ以上ないくらい幸福に満たされた目覚めだろう? 契約者様」
大仰に手を広げ得意げに語る悪魔は、その表面だけを素直に捉えれば、契約者のために健気に尽くしているように見えるだろう。
だがディアナは知っている。この悪魔が、そんな殊勝な存在でないことを。
こちらを見返すリヴィウスの目に揶揄いの色が多分に含まれていることを捉え、ディアナは大きく息を吸う。
「限度があるに決まっているでしょう!」
本日二度目の怒声が響く。窓の外で寛いでいた鳥が一斉に羽ばたいていった。
それは残念だ、とちっとも残念そうに見えないリヴィウスを無視して頭を抱える。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
思い出すのは一週間前。あの古代遺跡の場で、リヴィウスと契約を交わした日。
確かに、ディアナは持ち前の機転と知略によって、魂を求める悪魔に一矢報いた。
『自分が天寿を全うするのを見届けてほしい』という願いで、魂を対価に捧げることなくこの悪魔を使い倒す契約を結んだはずだったのだ。
ところが蓋を開けてみれば。未だにソファで足を組み優雅に寛ぐリヴィウスを、ディアナは再度睨みつける。
「契約内容を書き換えるなんて。悪魔の矜持が聞いて呆れるわ」
「人聞きの悪いことを言うな。
俺は確かにこう言った。『お前が真の幸せを掴むまで、この俺が誠心誠意お前の手足となってそれを助けることを誓おう』と。
契約書にも、『最高の幸福の享受』と刻まれている。それをきちんと確認しなかったのは、お前の落ち度だ」
「古代文字なんて読めるわけないでしょう!」
抜かった。ぎりぎりとシーツを握りしめながら、ディアナは何度目かわからない後悔を噛み締める。
この不遜で傲慢な悪魔が、あんなにすんなりと無茶な願いを呑んだ時点で、もっと違和感を持つべきだったのだ。
『今回は俺の負け』という言葉に、もっと注意を払うべきだった。
だがいくら後悔しても、時は巻き戻らない。
ディアナは言いくるめた時点で満足してしまい、最後の最後で気を抜いた。
だがリヴィウスは、負けが見えた時点で次の一手を打っていたのだ。
その事実は、覆らない。
「俺が一方的に嵌めた、と言わんばかりの言い草だが、これは俺の純然たる親切心だ。
生きていれば、考えが変わるのが人間だろう。『最高の幸せ』がなんなのか、こんな若いうちからあれだけがちがちに固めてしまうのはもったいないってもんだ。
心配するな。お前が挙げたあの具体例も、望み続ければきちんと機能する。死ぬまで考えを変えなければいいだけの話だ。そうだろう?」
リヴィウスは悔しがっているディアナを宥めるよう優しく言葉を重ねるが、その目は明らかにディアナの反応を楽しんでいる。
「——つまり。貴方はこれから私の人生を懸けて、あの願い以上に私が幸せだと感じられるものを与え、魂を得ようと。
……そう言っているわけね?」
「そうなるな」
悪びれず頷く悪魔に、ディアナは深い溜息を吐く。
これではあの日とまったくの逆だ。本当に、いったいどうしてこうなってしまったのか。
俯いていた顔を上げ、ディアナはまっすぐリヴィウスを見据える。
「絶対に、死に逃げしてやるわ」
「やれるものならやってみろ」
バチバチと火花を散らす二人の空気を破ったのは、小さく響く軽やかなノックの音だった。
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