第49話:座るのは交渉の席
ヘンリーがグランを拘束する。その様子を静かな決意と共に眺めていたディアナは、背後から近づく気配に驚くことなく振り返った。
リヴィウスが静かに立っている。そう、事件は終わった。だが、ディアナにとってはまだ、終わりじゃない。
「じきに日が暮れる。契約の時だな」
「ええ、そうね。——リヴィウス。話をしましょう」
静かにリヴィウスの瞳が見開かれる。何に驚いているのか、ディアナには見当がついた。
初めて呼ぶ悪魔の名前を、ディアナはもう一度口の中で転がす。
初めて出会ってから今まで、ディアナはこの悪魔の名前を呼んだことはなかった。
怖かったのだ。名を呼び、受け入れてしまえば、もう後戻りはできない気がして。
両親に対して背を向けていたように、ディアナは彼に関してもまた、心から向き合っていたわけではなかった。
契約を受け入れ、願いを伝えるということは、悪魔契約に屈することだとずっと考えていたから。
だからこそ、避ける道を探してきた。
契約自体を破棄する方法を、この三日間ずっと。
だが三日間、この悪魔と走り続けてきて、考えが変わった。
向き合うことは、受け入れることは、決して屈するというわけではない。
逆に、乗り越えるために必要なことなのだと。
悪魔契約は悪魔の領域。人間であるディアナが立ち向かえるものではない。
本当に?
いや違う。これから挑むのは交渉だ。
そして交渉は、商人であるディアナの領域だ。
「願いを聞こうか」
「いいわ。——私の願いはね、幸せになることよ。
この世界の誰よりも。誰もが羨む、最高の幸福の享受。
それが、私の願い」
「幸せね」
少しだけつまらなそうに、リヴィウスは呟く。
「昔から多くの人間が願ってきた、有り触れた望みだな。だがそれじゃあ具体性に欠ける。お前にとっての幸せとは何だ?」
ここからだ。一世一代の大勝負を前に、ディアナは一度目を閉じる。
これはもしかしたら、交渉とは言えないのかもしれない。なんなら、博打にだって近い。
だがディアナは、この賭けに負けるつもりはなかった。
相手がリヴィウスだからこそ、決して負けないと信じることができた。
目を開く。決意を秘めた眼差しで、ディアナは勝負の狼煙を上げた。
「私の幸せはね。ローズベルト商会が世界に名だたる大商会へ発展すること。
世界中の人が、魔術師も一般人も関係なく、魔道具によってほんの少し豊かで幸せな日常を送れるようになる。
そんな世界を、私自身の手で作り出すことよ」
ディアナの背後でレナードが驚いたように息を呑む。その様子に、リヴィウスに集中しているディアナは気付くことはなかった。
「なるほど、世間相手に宣戦布告するわけか。
いいだろう。お前がその信念を貫くっていうなら、俺も手を——」
「あら、まだ終わりじゃないわ」
一人で勝手に納得し契約に進もうとするリヴィウスを遮る。
出鼻をくじかれたリヴィウスは、呆れたように高々と挙げかけた手を下ろしディアナを見た。
「……まだあるのか?」
「当然でしょ。なんせ魂が懸かっているのよ。これだけで私が満足するわけないでしょう?」
よく聞いてね、とにっこりと微笑みながらディアナは続ける。
「商会の発展はもちろんだけど、人生それだけじゃないものね。
私や私の大切な人たちが心身ともに健やかに日々を過ごし、いずれは愛する人と結ばれ、みんなに見守られながら式を挙げるの。
かわいい子どもに恵まれて、そうそうペットも飼ったりなんかしちゃったりして。
喧嘩したりもしながら絆を深めて、孫たちを可愛がりながら穏やかに老後を過ごしたりするんだわ。
──それで最期は家族に見守られて、自宅のベッドの上で天寿を全うするの」
立て板に水の勢いでぺらぺらとまくしたて、ディアナは極めつけとばかりにリヴィウスに満面の笑みを返す。
「それを、貴方に見届けてほしいのよ」
ぽかんとリヴィウスが呆気に取られる。彼のこのような表情を見るのは新鮮だ。
反応の悪い悪魔に、ディアナはにんまりと意地の悪い笑みを濃くして囁く。
「この意味が、悪魔である貴方にわからないわけがないわよね?」
数秒の硬直。
開いた口が塞がらない様子だったリヴィウスは、ディアナの言葉を聞き僅かにその口元をひきつらせた。
その反応に、ディアナは賭けに勝ったことを知った。




