第38話:嵐の幕開け
「——いるんでしょう」
静かに、ディアナは呟く。なんの気配もしなかった室内に黒い炎が生まれ、黒づくめの悪魔が立っていた。
そのことにディアナは驚かない。都市の外から何にも干渉されず無事に帰ってくることができたのも、今思えば彼がずっと傍にいたからだろう。
「随分な姿だな」
「そうね。私もそう思うわ。
……この日記を落としたのも貴方?」
「さあな」
リヴィウスは否定しなかった。じっとディアナを見つめ、次の言葉を待っている。
言葉はないが、ディアナには痛いほど彼の声が伝わってくる。
——さあ、お前はどうするのだと。
「——貴方言ったわよね。私が心の底から納得して契約を結ぶために必要なら、その手伝いをしてくれるって」
「言ったな」
「最後に、手伝ってほしいことがあるの」
「聞くだけ聞いてやる」
何も読み取れないリヴィウスの言葉に、ディアナは唾を飲み込む。
今から、とても厚かましいことを言う自覚はあった。
断られる可能性のほうがずっと高い。それでも、今のディアナはこの悪魔に賭けるしかなかった。
「お願い。お父様とリックを助けるのを、手伝ってほしい。
——それが終わったら、必ず貴方と契約を結ぶから」
「それはつまり、その願いは命を懸けた願いにはならないということなんだな」
わかってるか、とリヴィウスは念を押すようディアナに問い掛ける。
「お前が魂を対価に願うなら、今すぐ二人を助けてやれる。国家魔術師あたりの対処は時間がかかるだろうが、契約ならば完璧に遂行しよう。
だが手伝いというのなら、お前は自分自身の手で二人を助けなきゃならない」
「わかってるわ。それでいいの。——これは、叶えてもらうんじゃなくて、自分でやり遂げなければいけないことだから」
ただ、誰かに与えられるのを待っているだけでは駄目だ。
魂という対価を払い得た結果だとしても。ディアナ自身が動かなければ。
たとえ、今日限りの命だったとしても——きっとディアナは後悔する。
「虫がいい話なのはわかってるわ。私は、貴方にひどいことを言ったもの」
ごめんなさい、とディアナは苦しそうに目を伏せる。
「私が求められることじゃないわ。貴方がこれを願いにしろと言うのであれば——」
「いいだろう」
それを受け入れる。そう言おうとしたディアナに被せるように、リヴィウスは口を開く。
「お前が言ったことは正しい。誓いも約束も、立てた俺が守るべきものであって、押し付けるものじゃない。
——そして俺は確かに、お前が契約に至るために必要なら手助けをすると、そう約束した」
約束は守る。それが俺の矜持だからな。
そう答えるリヴィウスをディアナはおずおずと見つめる。
「本当にいいの……?」
「なんだ。やっぱり契約にするか? 俺はそっちでも構わないが」
ぶんぶんと首を振るディアナを楽しそうに眺めながら、「それに」とリヴィウスは目を細め口角を上げる。
「お前がこの騒動の果てにどんな願いを掴むのか興味がある。
——さてお嬢様、ご命令は?」
◆
ソファに沈み込み、セシリアは重く息を吐く。
身体が重い。商会と、大切な人の安否と。華奢な肩に突然背負わされた重責は、セシリアから立つ気力を奪い去るのに十分過ぎた。
それでも泣き寝入りすることはしない。今すべてを守れるのは、自分だけなのだから。
「奥方様」
「……ディアナは?」
「静かにしております。眠ってしまったかもしれません」
「そう……よかった」
あの子は時々突拍子もないことをするから。
幼い頃を思い出しながら、セシリアはその傍に常にあったテオドールのことを思い出し唇を噛んだ。
息子が何かを隠していることには気付いていた。
世間では悪意ある噂も飛び交っていたが、テオドールがディアナの才も自身の適性も認めた上で、商会を継ぐことを受け入れていたことを知っていた。
だから、隠しているのはそれ以外の何かだろうと。
いつか話してくれる。そう、子どもを信じるふりをして、もしかしたら向き合うことを恐れていたのかもしれない。
今となってはもう取り返しがつかない。
でも、ディアナは違う。
まだ私にもできることがある。いつの間にか閉じていた瞼を開き、セシリアはウォルターを見上げる。
「お義父様にはもう遣いを出した?」
「先程走らせました。しかし、合流するには時間がかかるかと」
ルドルフの住む別邸は都市郊外の北、喧騒とは離れた高台にある。状況を把握し、ルドルフが動くにはまだ時間を要するだろう。
しかしやれることはすべてやっておかなければ。参事会で味方してくれるだろう人物のリストを脳内で上げていると、突然大きなガラスの割れる音が響いた。
「ディアナ……⁈」
物音は二階から響いてきた。ぱっと立ち上がりセシリアはディアナの自室へと急ぐ。
扉の前にはローラがいた。必死に扉を叩きディアナを呼ぶ彼女を一歩後ろに下がらせ、セシリアは扉を勢い良く開ける。
強い風が吹き抜けた。割れた窓から入り込む風には雨の匂いが混じり、彼方からは雷雲が轟く気配がした。
大きくなびくカーテンの間。魔獣かと思われるような大鷲に寄り添うように、ディアナが立っている。
その鉤爪は鋭く、ディアナの薄い腹など簡単に引き裂いてしまいそうだった。
「お母様」
危ない、早くこっちへ。
そう叫ぼうとして、まっすぐこちらを見つめるディアナの瞳を見て、言葉を失う。
悲しみと絶望に濡れていた瞳は、もう曇ってはいなかった。
強い意志を秘めた眼がセシリアを映す。
そこにはもう、無邪気な幼子はどこにも見えなかった。
「帰ったら、話したいことがあるの。——だから、待っていて」
疾風が巻き起こる。その場で立っていられず、セシリアは扉を掴み顔を覆った。
勢いが弱まり顔を上げれば、もう大鷲の姿は遥か彼方へと消えていた。
「ディアナ……」
風の消えた部屋は、恐ろしいほど乱れていない。大鷲の痕跡は、割れた窓と一枚の羽根だけ。
それも、すぐ黒い煙となって消えてしまった。
割れた窓から、セシリアは空を見上げる。
嵐はもうすぐそこまで迫っていた。




