第37話:自分が自分らしくあるために
私はまた、役割を間違えてしまったんだろうか。
母の悲痛な叫びに、ディアナは拳を握りしめる。
違う。苦しめたいんじゃない。
ただ、安心してほしいだけ。
今まで守ってもらったように、私もみんなを守りたいだけ。
それだけなのに。
——ディアナの選択はいつも、誰かを苦しめ、追い詰めてしまう。
背後でどさりと重たい音がし、ディアナは目を向ける。
見ると、文机の下に革張りの本が落ちていた。ゆっくりと立ち上がり、それを拾う。
今までずっと欠かさず、寝る前に書いていた日記。
淑女の仮面を被り始めても、ここだけは誰にも侵すことのできないディアナの世界だった。
誰にも言えないような愚痴も、身を切るような罪悪感も、この日記になら吐き出せた。
あの悪魔が現れてからは、書くことはおろかしまうことすら忘れていた。それどころではなかったというのもある。
だがリヴィウスとの会話が、いつしか自分自身と向き合うことに繋がっていたことにディアナは今更気付いた。
『周りと比べて何になる。有象無象に染まるより、俺が俺らしくあることのほうが重要だ』
自分が自分らしくあることが大切だと、リヴィウスは語った。
だけど、それでは駄目だったのだ。
私が私らしくあったから、兄はいなくなってしまったのだから。
——本当に?
幼い少女の声が内側から響く。
無邪気に兄を慕っていた幼い少女。
『好き』を全力で追いかけていた、眩しい光を詰め込んだ瞳が。声が。今のディアナにまっすぐ突き刺さる。
そしてその声が、不意にあの誕生パーティの日を思い起こさせた。
子どもとして最後の、大人として最初の望みは何か。
無難な答えを返す私に、歩み寄ろうとしてくれた父の言葉が、少女のそれと重なる。
『人間、生きていると大変なことはたくさんあると思います。
理不尽だって思うことも、それに耐えなければならないときも、たくさん。
——でも、どうしても譲れないものも、一つくらいあると思うんです』
ある日のローラが浮かぶ。私には、その一つを大事にしてほしいのだと語った、静かな微笑み。
『命にとって、死はいつだって突然だ。
その直前まで、お前は今のように自分を欺いて生きるのか』
静かなリヴィウスの言葉が心に染みる。
あのときは拒絶しか出てこなかった。
無情にも聞こえる言葉が。冷酷な事実を突きつけるような声が。まるでディアナを鼓舞するように、立ち止まるその背を押す。
『——ディアナは、本当に魔道具が好きだなあ』
夢の続きで、兄の言葉が優しく響く。
手を引きながら興奮して語るディアナを嬉しそうに眺めながら、テオドールは笑って言う。
『いっつも私ばっかり。お兄さまも、もっと話してよ』
『僕はいいよ。ディアナの話を聞いてるのが楽しいんだ』
『でも、二人ならもっと楽しくなるわ』
『そうだね。きっと。
——でもね、ディアナ』
記憶の中、テオドールは幼いディアナを見つめる。
それは敢えてディアナが封じ込めていた記憶。
ずっとずっと、罪の意識と共に思い出してはならないと深い記憶の底に沈めていた、幸せの形。
『僕はね、ディアナがそうやって『好き』をいっぱい表現して、——そうして、僕に語る姿を見るのが。
一番愛おしくて、一番幸せなんだ』
幸せそうな兄の顔が、今はくっきりと思い出せる。
どうして忘れていたんだろう。
どうして、思い出してあげなかったんだろう。
ずっと、役割からはみ出したことを後悔していた。
私が兄の領域に踏み込んだから、兄の居場所を奪ってしまったから、だからいけなかったんだと。
でも兄は、そんなディアナを愛おしいと言ってくれていた。
決して、ディアナを疎んじていたわけではなかった。
日記にポタリと雫が落ちる。きっと、兄には何か理由があったのだ。誰にも話せない理由が。
もっと話せばよかった。
もっと兄の言葉を聞けばよかった。
この手は届いていたのに。聞く機会は何度もあったのに。どうしてもっと、兄の心に歩み寄ろうとしなかったんだろう。
ページをめくる。魔道具に対してはやけに文量が多くなる日記。
自分の『好き』はこんなにも溢れているのに。自分が何を望んでいるかは、こんなにも明確なのに。
これを誰かに伝えたことがあっただろうか。
偽りの後悔に身を浸して、結局私は、あの頃から何も成長していない。
日記を閉じる。胸に抱き締めながら、ディアナは涙を拭き、顔を上げた。
今こそ歩み寄りたい。父に、母に、心の内すべてを話したい。
でも、今のままじゃそれは不可能。
ならばディアナがすることは決まっていた。
それは決して、誰かのためじゃない。自分自身のために必要なこと。




