第34話:最悪の願い
足が地面につく。あっという間に、ディアナは荒涼とした遺跡に立っていた。
崩れた柱や石材から、ここが都市の西側に位置する古代魔術文明の遺跡だと気付く。
重苦しい暗雲が都市に近づこうとしている。じきに嵐が来るだろう。
「——私、商家の娘としての存在意義すらなかったのね」
誰もいない遺跡に独り立ちながら、ディアナはポツリと零す。
兄を失い、兄の代わりにローズベルト家を繋げようと努力してきた。
厳しい淑女教育にも耐え、大人の口さがない言葉も笑顔の仮面で受け流し。
淑女のベールを被ることに抵抗がなくなってからも、どこか心の一部が麻痺したように感じることもあった。
もう記憶の中でしか会えない兄が、優しい笑顔で幼いディアナを見つめる。
まだ少し高さの残る柔らかな声が、ディアナの耳を震わせる。
『ディアナ』
それでもこの道を歩むことをやめなかったのは、少しでも兄に対する償いをしたかったからだ。
思い出す。十二歳のあの日。あと数日で兄——テオドールが成人を迎え、正式なローズベルト商会の後継者として発表されるという頃。
発表当日の服装を張り切って選びながら、ディアナはテオドールに楽しみだと笑っていた。
なんの変哲もない日だった。いつものように魔道具の素材について、自分勝手にまとめたノートを兄に見せながら、ただただ自分の『好き』を兄に聞いてもらいたくて、すごいねと褒めてもらいたくて。
優しく受け入れてくれる兄と、もう遅いからまた明日と。笑顔で別れ床についた、次の日。
——兄は、もう家のどこにもいなかった。
『——北の領地境で、魔物が出たと』
『北門から出るテオドール様の姿が——』
『壊れた馬車と、多量の血痕が残されて——』
泣きじゃくるディアナの耳に入ってくる情報は断片的だが、もう兄とは会えないという絶望を突きつけるには十分だった。
どうして、なんでと泣くディアナの頭を、優しくなでてくれるあの手はもう帰らない。
成人間際の兄の失踪を、両親は事故死と発表した。
それから半年。喪に服していたディアナの耳に、その噂が入ったのは偶然だった。
『なんでもテオドール様は、ご自身の能力を嘆いていたとか』
『妹君が天才だもの。比べられるのも無理はない』
『近くに天賦の才がいるというのは不幸なことですな』
『まさか事故死というのも——』
衝撃だった。ずっと、兄の失踪理由がわからなかった。だが、それは自分自身だった。
自分が兄を追い詰めた。
自分が、兄の居場所を奪ってしまった。
自分が。自分が。
その日ディアナは独りで泣いた。声を押し殺し、シーツの隙間に身を隠して。
そして決めた。自分が兄の居場所を奪ってしまったのなら、その罪を償おう。
でも、もう誰かの居場所を奪うような真似はしない。完璧な淑女として。完璧な、ローズベルト家当主を支える、貞淑な妻として。
それが、ディアナの存在意義だった。
それなのに。
「……もう、なんのために生きているのかわからないわ」
心の中には何も浮かばない。怒りも、絶望も、悲しみも。もう何もかもが、ディアナの心の中には存在しなかった。
何もかもが、もうどうでもよかった。
砂を踏む音にディアナは虚ろな視線を向ける。どこにいてもくっきりと見えるその黒づくめの姿に、ディアナはたった一つ、まだできることが残っていることに気付いた。
「——願いを決めたわ」
なんの感情もこもらない声で、ディアナはそうリヴィウスに伝える。
「お願い。兄を、テオドール・ローズベルトを生き返らせて」
そのためなら、魂だって惜しくはない。ディアナは、本気でそう信じていた。
ディアナの心からの願いに、リヴィウスは応えない。ただ黙ってこちらを見つめる瞳に、苛立ちがディアナの中に生まれる。
「聞こえてた? 兄を生き返らせてと言ったのよ」
「——それは無理だ。死者は生き返らない」
淡々と、リヴィウスは再度の願いに拒否を伝える。それは今までの無理とは違う、絶対的な真理を伝える言葉だった。
かっとなり、ディアナはリヴィウスへと詰め寄る。
「ならローズベルト家に相応しい嫡男を用意して! 商人としての才能に溢れ、世間から疎まれず、両親に変な苦労をかけない、そんな嫡男を!!」
「それがお前の心の底からの願いなら叶えてやる。だが本当にそうか? お前はその願いが叶えられたとき、本当に心の底から魂を差し出すことができるのか」
静かな声にディアナの表情が歪む。責めるようなリヴィウスの視線に、ディアナは苦しそうに「なんなのよ、」と言葉を振り絞った。
「いったいなによ! 貴方が求めているのは魂でしょう⁉ 対価を得ることができるのなら、願いなんてなんだって構わないじゃない!」
リヴィウスの顔色が変わる。反射的に彼を怒らせてしまったのだと悟ったディアナだが、自分自身もまた感情の高ぶりを抑えることはできなかった。
勢いに任せ、ディアナは「いつもそう」と唇を噛む。
「最初からそうよ。契約を重んじるようなことを言いながら、貴方は決して私を対等な契約者だとは扱わない。対価の要求は一方的で譲歩してくれないくせに、誓いだけは勝手に押し付けて願いを求める。
もうたくさん! 心の底からの願い? 魂を懸けるに値する望み?
──そんなの知ったこっちゃないわ!!」
止まらない言葉は刃となって自分の心まで抉る。
違う。わかっている。リヴィウスは確かに魂だけは譲らない。けれど、それ以外の部分では最大限ディアナの意思を尊重しようとしてくれていた。
それはただ己の立てた誓いを守るためかもしれないが、リヴィウスはただの一度だって誓いも願いも強要してはいない。
ただ、自ら魂を差し出すときに後悔のないようにと、それだけをディアナに求めていた。
しかし一度飛び出した言葉をなかったことにはできない。がくりと膝をつきながら、ディアナは顔を覆う。
「——もう、疲れたの」
悲痛な叫びが遺跡に溶けていく。風が荒々しく吹き始める。
「……早く、誰でもいいから、楽にしてほしい」
それは偽りのない、ディアナの弱音であり、本心だった。
沈黙が訪れる。動かない時間の中、ただディアナのすすり泣く声だけが耳を打った。
「——そうだな」
長い沈黙のあと、リヴィウスが重い口を開く。
その声にはなんの感情も乗っておらず、怒っているのか呆れているのか、彼の心の内を一切読み取ることはできなかった。
「この契約は不幸な事故だった。
——お前にとっても、俺にとっても」
静かな声だ。出会ってから今までで、おそらくは一番。
「誓いも約束も俺が勝手に定めたことだ。お前がこの契約に、俺に、誠実である必要はない。
——だが覚えておけ。命にとって、死はいつだって突然だ。
その直前まで、お前は今のように自分を欺いて生きるのか」
リヴィウスは動かない。ディアナを慰めるために両手で抱きしめることも、穏やかな声で優しい言葉を掛けたりもしない。
ただ黙って膝をつくディアナの前に立ち、それでいいのかと問いかける。
「それがお前の望む人生なら、俺はもう否定しない」
よく考えろ、と言ってリヴィウスは姿を消す。
今度こそ、遺跡にただ独りディアナは取り残された。涙で濡れた顔を強い風が乱暴に拭っていく。巻き上げられた砂が目に入り、ディアナは溢れる涙を見られぬよう顔を伏せた。
「どうすればいいって言うのよ……」
その問いに、答えてくれる者はいなかった。




