第32話:生きる命の責任
「意外と柔軟なのね」
「そうだろう? だが願いの内容は厳選させてもらう。『魂を取るな』というような、俺が提示する対価に真っ向から矛盾する願いは受け付けられない。
そこだけ気を付けてくれたら、何を願ったっていい」
だからさっさと願いを決めてしまえ。そう囁く悪魔の甘言に、今までで一番ディアナの心は揺れた。
今までディアナが焦って契約破棄を進めようとしていたのは、三日以内に魂を取られる——つまりは、命を落としてしまうと考えていたからだ。それが、今のリヴィウスの提案では心配する必要がなくなる。
悪魔と関わりを断ちながら、平穏に人生を生き切り、最後に魂を悪魔に渡すだけでいい。
そのあまりにも魅力的な提案に、ディアナはつい頷きたくなる。
だが。
一度大きく息を吐き、ディアナは答えを待つリヴィウスを見上げる。
「ありがとう。少し気持ちに余裕ができたわ」
「そうか。それで?」
「その提案に乗るのは、一番最後の手段に取っておく。……まだ、最後まであがきたいの」
ディアナの言葉に、リヴィウスはつまらなそうに息を吐く。
「そんなに魂を取られるのが怖いか? お前も魂と精神を同一視する口か。
死後の世界なんて幻想だ。魂の行方が、お前個人の精神の安寧を左右することはない。
どうせ女神からの借り物だ。誰に渡したって同じだろう」
魂には、女神の込めた生命の力が宿っている。私たちは、その力を魂という形で女神から貸し与えられ、生きている。
寿命を迎え力をなくした魂は、死後女神の元へ還り、再び次の輪廻を迎えるまで眠りにつく。
この国の子どもなら、誰でも知っていることだ。
リヴィウスの言っていることは正しい。生命の力が宿る魂と、ディアナの自我である精神は別のものだ。
死後、精神の行方がどうなるかはまだ研究段階で明らかにされていないが、少なくとも魂とは異なるということはわかっている。
なので、対価として魂を捧げたところで、ディアナの自我が傷つけられたり囚われたりすることはない。
だからリヴィウスにはわからないのだろう。ここまで頑なに、魂を対価に捧げることを拒む理由が。
「そういう問題ではないの。
——そうよ、貴方の言う通り。魂は女神様からの借り物で、私個人のものではないわ。
だから、貴方には渡せない」
ディアナは知らない。なぜリヴィウスが魂を求めるのか。魂を手に入れた後、どうするつもりなのか。
だが、通常の輪廻から逸れてしまった魂が、元の流れに戻れなくなるだろうことは予想できた。
「次にこの魂を受け継ぐ誰かの命を、私は貴方に軽々しく渡すことはできない。
それは、この世界に生きる命としての責任だわ」
魅力的な提案に揺れるディアナの心が、最後の最後で踏み切れない理由。
それこそ、この世界に生きる命がもつ、本能のようなものだった。
頷きたくなる心を必死に押し殺しながら、一人踏ん張るディアナの様子を黙って見つめていたリヴィウスは、「好きにしろ」と矛を収める。
少なくとも今、無理やりその提案を押し通すつもりはなさそうだ。そのことに安堵しつつ、ディアナはようやく寝台から降りる。
「で、どうするつもりだ? 時間がないのは変わらない。今日、日が沈むまでには決めないと結局ミイラだぞ」
「わかってるわ。……まずはこの短剣をどうにかしないと。貴方隠しておけない?」
「悪魔の力が干渉しあって無理だな」
格上でもそれは難しいらしい。不便なものだ。
部屋に隠しておくと誰に見つけられるかわからない。ミネルヴァの残した箱程度ならば言い訳が立つが、さすがに短剣は難しい。
簡単に身支度を整えたディアナは布に包んだ短剣を持ったまま自室を出た。レナードとセシリアは出かけているのか、二階は静かだった。
隠すなら今のうちだ。ディアナはこそこそと庭に出る。バングル姿になったリヴィウスが不審を滲ませ軽く震えた。
「何してる」
「埋めるのよ」
「本気か?」
「うるさいわね。今はここで時間を取っている場合じゃないの!」
手元でうるさい悪魔をきつく睨む。
声で誰かがやってきたらどうするつもりだ。頼むから静かにしていてほしい。
そんなディアナの内心も虚しく、リヴィウスは呆れたような声音でどこからか言葉を発する。
「さすがにばれるだろ」
「今は植木の入れ替えもしているから、多少穴が増えてたって誰も気付かないわ」
本格的な春に向けて、庭は整備中だ。
一つくらい歪んだ穴が増えていたって、誰も気にしないだろう。
一応尋ねよう、と手元の悪魔は尊大な態度を取りながら、その声に嫌な予感を滲ませ震える。
「……どうやって掘る気だ?」
「私じゃないわ。貴方が掘るのよ」
手元から聞こえる「はあ?」という文句は聞き流し、ディアナは場所を探す。
なるべく目立たなくて、けれど庭師もしばらく触らなそうなところ。
どこがいいかと庭を見渡していると、「お嬢様?」と背後から声がした。びくりと飛び上がる勢いでディアナは振り返る。
「どうしたんです、そんなところで」
「リック……」
きょとりとディアナを見つめながら、作業用の軍手を取る庭師の青年——リックは、おろおろと視線を彷徨わせるディアナとその手に抱えられた布の包み、そしてその隙間から零れる金属製の柄を交互に見た。
ははあ、と訳知り顔に顎に手を当てながら、リックは目を細め布の包みを指さした。
「それ、直してきてあげましょうか?」
「え?」
「今回はなにを壊したんです? よく書斎の物をいじっては壊して、半泣きで持ってきていましたが、この歳になっては珍しいですね」
どうやらリックはディアナが家の物を壊してしまったと勘違いしているらしい。
いつの頃の話だと反論したくなるが、今はその勘違いを利用させてもらうほうがよさそうだ。
ディアナは反射的に飛び出しそうになった文句をぐっと堪えた。
「ええ、実はそうなの。なるべくお父様に気付かれないように、直してほしくて……」
「大丈夫ですよ。ちょうどこれから鍛冶屋に行く予定だったんです。ついでに頼んできましょう」
職人も口が堅いのでご安心を、と茶目っ気たっぷりにウインクするリックにディアナは表情を緩める。
別にもう直す必要はないのだが、数日間手元から離せておくだけでもディアナの精神的負担は和らぐ。
戻ってきてからの短剣の扱いは、またあとで考えればいい。
「ごめんなさい。費用はちゃんと払うから」
レナードに内緒にするということは、公にその費用を請求できなくなる。さすがにリックに自腹を切らせるのは申し訳なかった。
それは助かります、と笑うリックに短剣を託し、ディアナはすぐに屋敷の中へと戻る。




