第31話:悪魔の誘惑
ゆっくりと目を開ける。小鳥のさえずりがどこかから聞こえ、室内は温かな日の光で溢れていた。
身を起こし、ディアナは白いレースが揺れる窓を見る。
日はとうに高く昇っていた。すがすがしい朝——いや、昼だった。
今は晴れているが、遠くの空に雲が見える。もしかしたら、今日は天気が荒れるかもしれない。
そうぼんやりと考えながら、ディアナは今度は反対側へ視線を動かす。
ローテーブルの上には布に包まれた短剣が置かれていた。雑に包まれたそれは危なっかしくその刀身を剥き出しにしている。
曇りない煌めきを宿していたそこには、見事に綺麗な亀裂が走っていた。
「いやあ、昨日は散々な日だったな。短剣は壊れるわ、契約者は気絶するわ、挙句の果てには着替え終えて戻ってきた嫡男の相手をさせられるわで、もう一度お前のフリをして帰宅するのは非常に骨が折れた。
帰ってからも世話を焼きたがるあのメイドを躱すのに、俺がどれだけ神経を使ったことか。
なに、礼? よせよせ俺とお前の仲だろう。
身支度も気にするな。さすがにそのまま寝台に転がすのは気の毒だったからな。気が利く悪魔だろう?」
「それ以上言わないで!!」
やってしまった。
頭を抱え、ディアナは寝台に突っ伏す。
あの光が収まった直後、変わらず目の前に存在するリヴィウスと折れた短剣を見て、失敗を悟ったディアナは張りつめていた緊張の糸が切れぷつりとそのまま気を失ってしまった。
無事に屋敷へ戻ることができたのは不幸中の幸いだが、問題は振り出しに戻ってしまった。
「どうして」とディアナは青ざめる。
「手がかりは本物だったはず。なのになんで破壊できなかったの……?」
「確かに術式だけなら無事に破壊できただろうな。だが同じ悪魔の力を宿すもの同士なら、力が強いほうが勝つのは当たり前だ。
短剣のほうが壊れたということは、俺のほうが格が上だったというわけだ!」
得意げに話すリヴィウスの言葉に「格……」と呟いて、ディアナはきっと悪魔を睨む。
「貴方、もしかしてこの悪魔のほうが格下だって気付いていたんじゃないの⁈」
そう考えれば、あれだけ余裕の表情だったことも、非常に協力的だったことも説明がつく。
知らずに翻弄されるディアナを見て内心嘲笑っていたのかと怒りを向けると、リヴィウスは「馬鹿言え」と冷静にそれを否定した。
「名も知らない悪魔の格なんかわかるわけないだろ。短剣に宿る残り香程度じゃ、悪魔の格はわからない。わかるのはよっぽどの規格外だけだ」
とはいえ。
そこで区切り、リヴィウスは余裕の表情でソファに腰掛け足を組む。
「こんな研究に利用される程度の悪魔なら、俺の足元にも及ばないことは容易に知れることでもある」
「なら、やっぱり——っ」
「だが俺が無駄だからやめろと言ったところで、昨日のお前ははいそうですかと素直に諦めたか?」
そうは思わないなと言外に指摘され、ディアナは言葉を詰まらせる。
確かにリヴィウスの言う通りだ。あれだけ苦労して手に入れた契約破棄の手がかりを、自分の手で確かめもせず悪魔の言葉を鵜呑みにすることはしなかっただろう。
すべては結果論だ。わかっている。だがそれに心がついていくかは別の問題だった。
わなわなと唇を震わせながら、ディアナは「そうは言っても、」と言葉を振り絞る。
「もう昼よ⁈ 今日中に一から手掛かりを探すなんて、もう無理だわ!!」
鬱憤を吐き出すかの如く枕に突っ伏し喚く。
次どうすべきか何も思い付かず、ディアナは途方に暮れた。
「きっとあと数時間もしないうちに、魔力を取り尽くされてしわしわのミイラになっちゃうのよ!
ローズベルト商会の跡取りも残せないなんて、なんて親不孝!」
「お前はここまできてもブレないな。まあ落ち着け。あまり騒ぐとメイドが来るぞ」
「どうせ初日みたいに結界みたいなの張ってるんでしょう⁈ いいから放っておいて!」
よくわかってるな、と感心するリヴィウスを無視し、ディアナは枕に突っ伏したまま動かない。
このままもう一度眠ってしまいたい。残された猶予を無駄に消費し、死に近づくだけとわかっていても、そう現実逃避をしたくなる気持ちを消すことは難しかった。
「まあ聞け。確かに短剣は失敗に終わった。結果としては残念だったが、お前の強い意志と行動力は素直に称賛に値するものだと俺も感じている。
——だから、ちょっとばかり譲歩してやったっていい」
「……え?」
思わぬリヴィウスの言葉に顔を上げる。
いつの間にか寝台の横まで移動していたリヴィウスは、「こういうのはどうだ」と人差し指を立てた。
「対価は変えない。だが、回収する期限は延ばしてやる。
お前が寿命でこの世を去る直前まで、平穏無事に過ごさせてやろう。それならどうだ?」
「……そんなことできるの?」
思わぬ提案にディアナはぽかんと口を開ける。「お前の願い方次第だ」とリヴィウスは言葉を続けた。
「『孫の代まで健康に生きたい』『むこう五十年、金に困らないようにしてほしい』
——長い期限を要する願いにしてくれれば、俺もその間は現世に顕現していられる」
今までもそういった願いを口にする契約者はいた。できないことはない。
そう言いながら、リヴィウスは甘い誘惑を優しく囁いてくる。
「傍にいるのが煩わしいというのなら、ずっと姿を隠していてもいい。
さすがに外的要因で死なれたら対価を回収できないからな。完全に傍を離れるのは難しいが、少なくとも表立ってお前に関わりはしないと約束しよう」
どうだ? とリヴィウスは親しみを込めた眼差しですぐ近くからディアナを覗き込んだ。




