第30話:もしも魂じゃなければ
限界だった。ディアナは空いていた片方の手を大きく振りかぶる。
その手がミハイの頬を捉える直前、突然目の前に勢いよく水が噴き出しミハイへと直撃した。
「ぶはあっ⁈」と声をあげミハイが転倒する。
──そのあまりの光景に、ディアナは振りかぶった手をそのままに、呆然と尻餅をつくミハイを見下ろした。
「な、なんだ⁇ どうして急に水が……っ」
狼狽えるミハイに、とどめとばかりに頭上から滝のような水が降り注ぐ。
見るとすぐ傍の女性像が抱える水瓶から水が滴っているのが見えた。おそらくここから噴き出したのだろう。
しかし同じように傍に立っていたディアナはまったくの無傷で、なぜミハイだけずぶ濡れなのか。
「まあミハイ様! 大丈夫ですか?」
突然自分ではない自分の声が聞こえ、ディアナははっと我に返る。
見ると、濡れたミハイのすぐ傍に自分が座り込んでいた。ミハイの視界にディアナが入らないようにしながら介抱するそのディアナは、ちらりとこちらへ視線を向け口だけ動かす。
『早く行け』
その言葉に、ディアナは慌ててケープを被り姿を消すとその場をもう一人のディアナ——擬態したリヴィウスへ任せ駆け出した。
危なかった。あと少しリヴィウスが乱入するのが遅かったら、ミハイを思いきり引っ叩いているところだった。
かっとなっていた頭も、あまりの出来事に冷静さを取り戻していた。
あそこで騒ぎを起こしていれば、きっと短剣すり替えは困難になっていただろう。リヴィウスには感謝しなければならない。
人にぶつからないよう廊下を歩き、ディアナは周囲を観察する。落札物の引き渡し場所はすぐにわかった。あとは使用人の動きから、どうやら近くの部屋に保管庫から一時落札物が移動させられていることもわかった。
使用人の動きに合わせ、怪しまれないように扉を通り抜ける。人の目がないときを見計らって、ディアナはそっと短剣のガラスケースを持ち上げた。
クッションの上に置かれた短剣を手に取ろうとして、一瞬躊躇する。
「——ごめんなさい」
本来の持ち主へそう謝罪し、ディアナは短剣を入れ替えた。
◆
無事に短剣を入れ替えたディアナは、少し離れた小部屋へと移動した。
鍵をかけ、誰も近づいてくる様子がないことを確認してからケープを脱ぐ。
「やった……!」
手の中の短剣を握りしめる。布を解けば白銀の刀身が煌めいた。
とうとう手に入れた契約破棄の鍵に、ディアナは高揚を抑えきれずそわそわと室内を無駄に見渡す。
「これで、あとはランタンがあれば……」
「手に入れたか」
ふいに空中から声がして、気が付けば目の前にリヴィウスが立っていた。
元の青年姿に戻っていることに安堵しつつ、「ミハイ様は?」と尋ねる。
「あのあと侍従が飛んできたから押し付けてきた」
「怒ってなかったかしら。……話の腰も折ってしまったし」
「何がどうなったのかよくわかってない感じだったから大丈夫だろう」
それならよかった。言われた言葉を許せるわけではないが、かといって恨み言をぶつけたいわけではない。このまま流してくれたら一番いい。
それよりも、と首を傾げてディアナはリヴィウスを見る。
「どうしてあんなことしたの? 貴方なら、もっと穏便に済ますこともできたでしょう」
いくらあの場でミハイをどうにか排除しなければならなかったとはいえ、リヴィウスにしてはやり方が強引だった。
もしミハイに怪しまれ、そこから誰かの耳に入ったらディアナへの不審に繋がる可能性もあった。
なぜわざわざあんな短絡的な方法を取ったのか、と問うディアナに対し、リヴィウスはただ淡々とこう口にする。
「我慢できなかった」
「我慢……?」
なんのことかと疑問に思うが、そう言えばミハイはずっとディアナの片側に張り付くように寄り添い言葉を囁いていた。
耳元で、愛を囁くように。——リヴィウスが擬態した側のイヤリングに向かって。
それは嫌かもしれない。
「それは……悪かったわ。でも、貴方意外と短気なのね」
「何言ってる。俺以上に辛抱強い悪魔はそういない」
「どうかしら」
しれっとのたまう悪魔に呆れながら、ディアナは改めて手元の短剣へ目を落とす。
「——ランタンを」
ディアナの求めに、リヴィウスは素直にランタンを取り出した。
目の前に現れるランタンの火は、最初に見た時よりも更に小さくなっているように感じた。
「……ねえ。どうして、こんなに助けてくれたの?」
ランタンを目の前に、ディアナはずっと抱えていた疑問を口にする。
最初からそうだった。この悪魔は、どうにも親切が過ぎた。
問答無用で契約をこぎつける方法が、きっとこの悪魔にはあっただろう。
だがそれをせず、ディアナの契約破棄の方法を探してからという条件を呑んでくれた。
魔術師ギルドでだって、水晶球に登録されていない魔導インクで書かれた手がかりを見つけてくれた。
ゴーレムからは命を守り、短剣を手に入れるために偽物を用意し、身代わりだって務めてくれた。
「契約破棄をされたら、貴方は困るはずでしょう。なんでここまでしてくれるの?」
「確かに契約破棄をされたら困る」
ディアナの疑問に、ランタンの向こう側に立つリヴィウスは直球に本音を口にした。
なら、と再度疑問を畳みかけようとするディアナの言葉を指で制し、「だが最初にこうも言った」と付け加える。
「契約破棄の方法を探すことが、お前の心からの願いを引き出すためならば協力してやると。
押し付けられたものならともかく、俺は自分で定めた誓いは破らない」
揺れのないリヴィウスの声が、静かに室内に響いた。
その声は普段飄々と掴めない態度をとるときとは異なり、決して偽りのない本心だと感じさせるものだった。
「たとえその誓いが俺の首を絞めることになったとしても、契約者が契約に向き合い、その上で知恵を絞り掴み取った結果ならば俺は敬意を払いそれを認める。
——それが、俺の悪魔としての矜持だ」
まっすぐなリヴィウスの瞳に、ディアナは彼の契約に対する想いを見る。
「——貴方は、悪魔らしくないわ」
だって、これではまるで騎士のようではないか。
思わず漏れた言葉に、リヴィウスは肩を竦める。
「お前が何と比べてそう言うか疑問だが、確かに大多数の悪魔とはそりが合わないな」
だけどそれがなんだ?
心底どうでもいいというように、リヴィウスは言葉を続けた。
「周りと比べてなんになる。有象無象に染まるより、俺が俺らしくあることのほうが重要だ」
アンバーの瞳が照明に照らされ金色に光る。
最初は、あんなに恐ろしかったこの瞳が。
今は、とても眩しく見えた。
「——ランタンを壊したら、どうなるの」
「今契約は不完全の状態だ。破壊されれば、異界に自動的に還るだろうな」
「——壊れたら、その次はどうやって現世に来るの」
「さあな。運が悪ければ、他の悪魔同様魔術師どもに召喚されるだろう」
「……」
リヴィウスの答えに短剣を持つ手に力が入る。黙り込むディアナに、リヴィウスは「気にするな」と努めて明るく言った。
「これはお前が掴み取った結果だ。何度も言うが、俺はお前自身が望み掴んだ結果ならばそれを受け入れる。遠慮せずやるといい」
もし、リヴィウスが魂を対価に求めていなかったら。
そんな、ありえない『もしも』をディアナは脳裏に思い描く。
——それはきっと、騒がしくも楽しい日常になったに違いない。
「……色々あって、大変だったけど。でも、案外悪くない時間だったわ」
「それはなによりだ」
短剣を両手で握りしめ、振りかぶる。炎が灯るランタンに向け、ディアナは覚悟と共にそれを振り下ろした。
悪魔の力同士がぶつかる。硬質な音を立て、力が光となって溢れ。——ディアナは、刀身に亀裂が入るのを見た。
そして。
——気が付くと、ディアナは自室の寝台で目を覚ましていた。
次回から『都市謀略編』が始まります。
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