第十六章 父の声を聴く夜
焼け跡の脇で、俺は火を起こした。
壊れた木材を集めて、簡単な焚き火を作った。火の前で、軽トラから持ち出した干し肉と固いパンを噛んでいた。
味はしなかった。
風が灰を地面に運んでいた。
俺は焚き火の炎を見つめていた。
頭の中で、いくつもの声が混じり合っていた。
商店街のお婆ちゃんの「煮ると甘くてねえ」。
黒田の「数字、数字」。
ダルシムの「システムは、私が死んでも、千年でも、王国を守ります」。
ガロウの「俺の弟は、五歳で死んだ」。
リリの「お帰りなさい」。
そして、父の。
「腐ったもんは、売らねぇ。それが、八百勝の魂だ」
父の声だけが、低く響き続けていた。
俺は薪を一本、火にくべた。
炎が少し強くなった。
「腐ったもん」
俺は声に出して繰り返した。
ダルシム。
彼が滞らせていたものは何だったか。
倉庫の食料。
市場の流通。
補給ライン。
伝令。
全部、「流れるべきもの」を彼は止めていた。
止められたものは、腐る。
倉庫の中で、芯から腐っていく食料のように。
ダルシムが止めていたのは、物だけではなかった。
彼は人と人の繋がりも止めていた。
貴族と平民、王と民、辺境と王都、人と人との信頼。
全部、彼の「合法的なシステム」が滞らせていた。
止められた繋がりは、腐る。
腐ったものは、必ず誰かの命を奪う。
俺は焚き火の前で両手を組んだ。
目を閉じた。
頭の中のもっと深いところで、別の声が響いた。
父の声だった。
いつ聞いたものか、思い出せない。けれど確かに、父が若い頃の俺に言った言葉だった。
「翔太、お前、商人の覚悟ってのは、何だと思う」
「金を儲けることだろ」
若い俺の声がそう答えていた。
「違う」
父は笑っていた。
「商人ってのは、流すことだ」
「流す?」
「物を流す。金を流す。信頼を流す。流れていれば、腐らない。腐らないものは、必ず誰かを生かす」
若い俺は、その言葉を半分しか理解していなかった。
でも今、俺はその言葉の意味が、はっきりと見えていた。
商売は流通だ。
流通は信頼だ。
信頼は人と人の繋がりだ。
そして、その繋がりが止まったとき、世界は腐り始める。
俺は目を開いた。
焚き火の炎が低くなっていた。
俺は薪をもう一本くべた。
ふと、自分の手のひらを見た。
爪の隙間に、緑色の汁がまだ染み込んでいた。
商店街のあの朝、市場で葉物を捌いた時の緑だった。
いや、違う。
異世界に来てから、何度も葉物を切ってきた、それも混じっている。
日本の緑と異世界の緑が、同じ色をしていた。
そういえば、リリの宿屋で彼女に煮物を作ってやった時、彼女が言ったことがあった。
「お兄さんの手の緑、消えないね」
「ずっとついてるんだ。落ちないんだ」
「綺麗だね」
リリは笑った。
「だって、これ、お兄さんがちゃんと、野菜を触ってきた印でしょう」
俺はその時、何も言わなかった。
でも今、その言葉が胸に深く突き刺さっていた。
俺の手の緑は、父の手の緑と同じだった。
父の手の緑は、祖父の手の緑と同じだった。
三代続いてきた、八百勝の手の緑。
俺はそれを、どこかで恥じていた。
「八百屋なんて、もう時代じゃない」
黒田の声が、また響いた。
俺はずっと、心のどこかでその声に頷いていた。
大手のチェーンに押されて、店が傾いて。
黒田の言うとおりだと、半分思っていた。
俺の手の緑は、時代遅れの肉体労働の印だと。
俺は父の生き様を、どこかで「廃棄ロス」のように扱っていた。
その思いが、ようやくはっきりと見えた。
俺は父を腐らせていた。
俺自身が、八百勝の流通を止めていた。
ダルシムが王都を腐らせていたのと、同じだ。
俺がダルシムを許せなかったのは。
彼の中に、俺自身の影を見ていたからだ。
俺は深く息を吐いた。
焚き火の炎が揺れていた。
遠くで、夜の獣の声が聞こえた。
俺は立ち上がった。
リリの墓の前に行き、もう一度頭を下げた。
そして低く呟いた。
「行くぞ」
誰に向かって言ったのか、自分でもよく分からなかった。
ただその言葉は、確かな決意の形をしていた。
「腐敗を、見切る」
業界では、見切り、と言う。
売れ残りそうな商品を、適正な値段まで下げて必ず売り切る判断のことだ。早すぎれば利益を損なう。遅すぎれば廃棄になる。
その絶妙のタイミングを見極める、八百屋の最高難度の技術だ。
俺はダルシムの腐敗を見切る。
切り捨てるのではない。
売り切る。
彼が滞らせていたものを、もう一度世界に流す。
そして彼の「合法的なシステム」を、世界中の人に見せる。
そういうものを、誰も二度と買わなくなるように。
俺は焚き火を消した。
馬に跨った。
夜明け前の薄い闇の中で、俺は出発した。
行き先は王都ではなかった。
俺は辺境の、もっと奥へ向かった。
ダルシムに反感を持つ、地方の商人、騎士、農民、亜人の村。
彼らを一つ一つ訪ねていく。
俺はそれらの人々を〈目利き〉で見極める。
信頼できる者と、できない者を。
そして信頼できる者と、新しい流通を組み立てる。
俺の改革は、王都の市場の一倍くらいの規模では足りない。
国全体の規模で、流通を立て直す。
馬の蹄が、夜の街道を駆け抜けた。




