54話 肥前の熊
初めての執筆となります。
時代考証などが甘い部分がありますがエンターテインメントとしてお楽しみください。
頑張って更新頻度を上げていきます。
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ほのぼの系も書きたくなり、2作目も始めました。
箸休め的な更新になりますが、歴史物と一緒に読んでいただけると嬉しいです。
氷が解ける音をきく-転生バーテンダーの気ままなスローライフ-
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弘治三年(一五五七年)五月。
肥前・村中城。
五月の風は、佐賀平野の瑞々しい苗の香りを運んでくる。
しかし、村中城の最奥、龍造寺隆信が独り座す広間には、その穏やかな春の気配は届かない。
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隆信は、目の前に広げられた地図をじっと見つめていた。
二十八歳。その体躯は、ただ座っているだけで周囲の空気を圧迫するほどの重厚さを放っている。
かつては一族を謀殺され、自らも寺へ逃げ込み、僧衣を纏って屈辱の時を過ごしている。
這い上がってきた者特有の、鋭く、それでいてどこか虚無を孕んだ瞳が、肥前の勢力図が記された地図を射抜いていた。
後に「肥前の熊」と恐れられ、島津・大友と並び九州三強の一角を担うことになるこの男の歩みは、常に死と隣り合わせだった。
十代の頃、一族の多くを殺した馬場頼周の手から逃れ、筑後・蒲池氏の援助を得て再起を果たした執念。
その渇いた飢餓感は、肥前の覇者に手をかけた今も癒えることはない。
家臣は誰もいない。
隆信が独りで地図と対峙する時、口を挟むことが悪手であることを家中は皆知っている。
隆信は、本能で死の匂いをたぐる。
そして今、この静かな広間に漂っているのは、かすかだが確実に
自分たちを生き絶えさせようとする冷たい罠の臭いだった。
「……見事なものだ」
隆信は低く呟いた。
地図の上には、彼が脳内で書き込んだ三つの「杭」がある。
北西――怡土。佐伯利興。
北――唐津。佐須景満。
南西――武雄。佐伯利繁と後藤貴明。
「三手。わずか三手で、俺の首に縄をかけおった」
去年の今頃、唐津の利権を佐伯との交渉で一部勝ち取った時、隆信は自嘲気味に笑ったものだ。
あの時の利興は、まだ対馬から出てきたばかりの若造に過ぎなかった。
隆信は大友宗麟との境界を維持するために、あえて衝突を避け、金で時間を買ったのだ。
だが、その「時間」という資源を、利興は最大限に活用した。
隆信が足場を固めている間に、利興は怡土を奪って博多湾の西を抑え、
唐津の港を完全に掌握した。
挙句の果てには、隆信自身が何度も干戈を交え
一筋縄ではいかぬ後藤貴明を屈服させて武雄にまで触手を伸ばした。
三方からの包囲。
それも、軍勢による包囲ではない。それは、目に見えない「物の流れ」による包囲だった。
家臣たちはまだ気づいていない。米は倉に溢れ、兵たちの士気も高い。
だが、隆信は気味の悪い感触を抱いていた。
「絹が来ぬ。鉄が来ぬ。唐津からの薬種が、先月の半分も届いておらん」
一つ一つは微々たる変化だ。
だが、それが束になれば、巨大な鉄鎖となって龍造寺を縛り上げる。
唐津を握られ、博多への道に睨みを利かされた。
佐賀平野は豊かだが、致命的な欠陥がある。
ここは、海への出口が一方しか存在していない。
外の世界と繋がる「穴」をすべて佐伯に塞がれつつある今、龍造寺は、肥前という巨大な壺の中に閉じ込められた害虫になりつつあった。
「利興、俺の予想よりも遥かに冷徹で、速い」
隆信は立ち上がり、窓の外を見つめた。
眼下に広がるのは、龍造寺の本拠・村中城を抱く肥前の大地。
後に鍋島直茂が整備し、近世佐賀百五十万石の礎となる佐賀城の前身である。
この平野を潤す複雑な水路こそが防御の要であり、富の源泉であった。
だが、その水路すら、今は自分を絞め殺す絞め縄に見えてくる。
利興という男は、槍を振るうよりも速く、血を流す代わりに銭を回すことで、この平野を無力化しようとしている。
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「隆信様、よろしゅうございますか」
静かな、しかし確かな意思を持った声が、襖の向こうからかかった。
入ってきたのは、鍋島直茂である。
隆信より九歳年若いが、その眼光は既に一端の深度を湛えていた。
史実では後に龍造寺の覇業を支え、最終的には佐賀藩の祖となる。
この時代は隆信の影として、隆信の剛胆さを知略で補完し続けている。
直茂は、主君の前に膝をつくと、持参した書状を広げることもなく口を開いた。
彼の頭には、常に最新の「肥前図」が目に見えぬ力学を含めて描かれている。
「新たな報告が届いております。
長崎方面……佐伯利繁が、武雄から南へと頻繁に斥候を放っております。
狙いは明らか。大村純忠です」
隆信は、地図の南端を指でなぞった。長崎。
「あそこを抑えられれば、四方すべてが壁になるな」
「左様。しかし、これは単なる土地の奪い合いではございませぬ。
佐伯利興が描いているのは、肥前以西を無力化する巨大な回廊にございます」
直茂の言葉が熱を帯びる。
彼にとって、この戦いは盤上の最適解を求める知的闘争でもあった。
「大村純忠という男、実直ですが佐伯家と当家に挟まれて家を保つ才覚はなし。
佐伯はここに『南蛮交易の利』という飴を垂らして飲み込もうとしております。
大村の家臣の一部が、既に後藤貴明を通じて佐伯と接触中。
彼らが求めている安寧は、佐伯がもたらす『新たな統治の仕組み』にすげかえることが出来まする。
長崎が佐伯の手に落ちれば、肥前の内海は出口から閉ざされまする。
……そうなれば、この村中城は周囲から切り離された、ただの孤島と化します」
隆信の目が細まった。
「直茂。お前なら、どこを崩す」
「武雄以外にございませぬ」
直茂の指が、即座に地図上の武雄を叩いた。
「怡土には利興本人がおり、背後には大友が控えております。
ここを叩けば、大友義鎮をいたずらに刺激することになりかねませぬ。
唐津は松浦家と海を共にしており、叩いても海から逃げ、対馬から補給が湧いてくる。
……しかし武雄は違います。ここは佐伯包囲網の『要石』でありながら、唯一の弱点でもある」
「ほう、弱点とな」
「武雄は内陸ゆえ、海の補給が直接届きませぬ。
そして何より、後藤貴明という『外様の新参』が守っている。
利繁は有能ですが、武雄の国人衆は未だ佐伯の新たな統治に戸惑い、誇りを傷つけられております。
今、我ら龍造寺が圧倒的な武威をもって武雄に踏み込めば、仕組みが完成する前の綻びを突くことができます。
武雄が崩れれば、長崎への道は断たれ、佐伯利興の構想は中央で真っ二つに裂けるのです」
隆信の瞳に、獰猛な光が宿った。
「兵力は三千。多すぎれば大友が背後から動こう。
三千の精鋭で、武雄を急襲する。後藤が防備を固め切る前に、一気に押し潰すぞ」
直茂は静かに頷き、さらに踏み込んだ予測を口にする。
「大友の動きですが、今は毛利元就の北九州進出を何よりも警戒しております。
我らが武雄を叩く間、義鎮は静観するでしょう。
……しかし、問題はその後。佐伯が苦戦すれば、博多の商人たちが黙ってはおりませぬ。
彼らは、佐伯という『富をもたらす新たな秩序』を望んでいます。
我らに完成間近な交易の道を荒らされることを何よりも嫌うでしょう」
「商人どもが、この俺に指図するとでも言うのか」
「指図はいたしませぬが...。大友へ軍資金を止めるよう脅しをかけ、佐伯家との仲裁を持ちかけるでしょう。
大友は商人の懐に依存しております。……ゆえに、戦は速度。
商人たちが大友を動かし、仲裁の使者が村中城に辿り着く前に、武雄を落とし、利繁の首を獲る。
既成事実を作ってしまえば、大友も利の無い死者に肩入れはいたしませぬ」
隆信は笑った。
それは、自らの存在を否定しようとする「時代」そのものに対する、挑戦的な笑みだった。
「ならば、その『都合』とやらを、力でねじ伏せるまでだ。机の上で算段で俺を殺せると思うなよ、利興」
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直茂が軍備を整えるために下がった後、隆信は再び独りになった。
広間には、五月の穏やかな陽光が差し込んでいる。隆信は、壁に立てかけられた愛槍を手に取った。
ずしりとした重みが、手に馴染む。
去年の今頃。隆信は利興の「速度」に、かつての自分と同じ匂いを感じた。
常識を無視し、最短距離で目的を達成する。
隆信は正面衝突を避けるために銭を払い、その時間で勢力を拡大するつもりだった。
だが、利興は隆信が動けないことを確信した上で、その時間そのものを包囲の素材として使い切ったのだ。
「お互い、化け物同士か」
隆信は呟き、槍の穂先を地図の怡土に向けた。
どちらが肥前の土に相応しいか。それを決めるのは、算盤の珠の数ではない。
どちらの牙が、より深く相手の喉元を食い破るか。それだけだ。
「利繁……と言ったか。利興の弟よ」
隆信は、地図上の武雄の文字を、槍の石突で乱暴に叩いた。
「兄の作った精緻な仕組みとやらが、この槍一本でどれほど容易く壊れるか。……眼前で見せてやる」
窓の外には、美しい佐賀平野が、どこまでも広がっていた。
田には水が張られ、農民たちが泥にまみれて苗を植えている。
その平和な光景の裏側で、龍造寺の熊がいよいよ、自らを閉じ込める檻を食い破ろうとしていた。
隆信は一度も振り返らずに、広間を後にした。
その足音は重く、城内の廊下を震わせ、戦いの始まりを告げる鐘の音のように、村中城の隅々にまで響き渡った。
その足音の響きが消えた後、広間に残された地図の上には、ただ、隆信が槍で突いた武雄の地点に、深い傷跡が刻まれていた。
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