48話 渡河
第三章突入です。
引き続きよろしくお願いいたします。
初めての執筆となります。
時代考証などが甘い部分がありますが、エンターテインメントとしてお楽しみください。
頑張って更新頻度を上げていきます。
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ほのぼの系も書きたくなり、2作目も始めました。
箸休め的な更新になりますが、歴史物と一緒に読んでいただけると嬉しいです。
氷が解ける音をきく-転生バーテンダーの気ままなスローライフ-
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天文二十六年(一五五七年)二月。
肥前の夜明けは、深い霧と、骨を刺すような寒気に閉ざされていた。
武雄川。
脊振山系から流れ出る冷徹な水流が、蛇行しながら肥前の大地を削り、佐賀平野へと注ぐ直前の要衝である。
その東岸には、紅蓮の旗印を掲げた後藤貴明の軍勢、三〇〇〇が布陣していた。
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「……霧が深いな」
西岸の堤防に馬を寄せ、利繁は独りごちた。
吐き出す息は白く、瞬時に霧に溶けていく。
利繁の纏う漆黒の具足には、夜の間に降りた霜が薄く張り付き、鈍い銀光を放っていた。
背後には、五〇〇〇の佐伯軍が音もなく控えている。
利興が心血を注ぎ、最新の製鉄技術と兵站管理によって練り上げた常備兵たちだ。
彼らは農繁期を気にする必要のない「専業兵士」であり、日々の訓練によって培われた統制は、霧の中でも一糸乱れぬ静寂を保っていた。
しかし、その静寂の底には、今から屈強な敵に挑もうとする特有の緊張が、重く澱んでいる。
「利繁殿。上流の陽動部隊、展開を完了いたしました。合図を待っております」
山本康範が声を潜めて告げる。
「よし。……始めろ」
利繁の短い命と共に、上流三里の地点で数多の松明が灯った。
「うおぉぉぉ!」
喚声が霧を震わせる。上流の浅瀬を強行突破すると見せかけた陽動だ。
対岸の後藤軍が反応するのが分かった。
霧の向こうで、松明の火が慌ただしく右翼へと移動していく。
「利繁様、敵が動きました! 今こそ鉄砲を並べ、対岸の陣を……」
近習の進言を、利繁は力強く手で制した。
「鉄砲の威力は敵を震え上がらせはするが、こちらの兵に勝利の実感は与えん。
……俺が真っ先に飛び込む。俺の背中が川に沈むまで、全員、一歩も引くことは許さん」
利繁は愛馬の腹を蹴った。
馬が鼻息を荒くし、ぬかるんだ土を蹴って水際へと進む。
「行くぞ! 対馬の、壱岐の男たちよ!凍え死にたくなければ、俺の後に続けぇ!」
利繁が真っ先に、極寒の武雄川へと躍り込んだ。
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ドォォン、と重い水音が霧の中に響き渡る。
次の瞬間、利繁を襲ったのは、水の冷たさなどという生易しいものではなかった。
「……っ!」
腰まで水に浸かった瞬間、あまりの冷気に肺の空気がすべて引き搾られ、心臓が握り潰されるような感覚に陥る。
具足の隙間から入り込む水は、皮膚を削り取るような鋭さを持っている。
馬がいななき、足を取られそうになる。
川底は、上流から流されてきた丸石と、足首を絡め取る泥が入り混じった最悪の状態だった。
「止まるな! 押せ! 押せぇ!」
利繁の咆哮に呼応し、五〇〇〇の黒い塊が、一斉に川へと雪崩れ込んだ。
数千の兵が一度に水を分かつ音は、まるで巨大な地鳴りのようだった。
しかし、これに即座に反応したのが、対岸で待ち構えていた後藤貴明である。
「謀られたか! 敵の本隊は正面だ! 戻れ!
弓隊、川の中を狙え! 一人も土を踏ませるな!」
霧を裂いて、後藤貴明の野太い号令が響き渡った。
直後、ヒュン、ヒュンという風切り音が空を埋め尽くす。
「……矢だ! 盾を掲げろ!」
利繁が叫ぶ間もなく、無数の矢が雨となって佐伯軍に降り注いだ。
「ぎゃあっ!」
「う、うわぁぁ!」
水中で身動きの取れない兵たちが、次々と矢の餌食となっていく。
喉を射抜かれた兵が、飛沫を上げて川面に沈む。
赤い鮮血が、冬の濁った川の流れに混じり、一瞬だけ鮮やかな紋様を描いては、無情に下流へと押し流されていく。
利繁の目の前でも、数人の兵が崩れ落ちた。
水の抵抗は凄まじい。一歩進むのに、通常の数倍の体力を消耗する。
その上、対岸からは狙い澄まされた矢が飛んでくる。
「……ひるむな! 岸はすぐそこだ!」
利繁は馬上から太刀を抜き、飛来する矢を執念で叩き落とした。
カァン! という鋭い金属音が響く。
だが、矢だけではない。
後藤軍は、さらに残酷な罠を仕掛けていた。
「突き出せぇ!」
岸辺の草むらに潜んでいた後藤の長槍隊が一斉に姿を現し
水際に到達しようとする佐伯の先遣隊に対し、上から叩き付けるように槍を突き出した。
「ぬうっ!」
佐伯の兵が盾で防ごうとするが、足場が不安定な水中では踏ん張りが利かない。
長い槍の穂先が具足の隙間を抉り、兵たちは次々と水中へと押し戻される。
「利繁殿、これ以上の正面突破は……損害が大きすぎるぞ!」
康範が叫ぶ。その肩を矢が掠める。
確かに、合理的に考えれば、ここは一旦退き、鉄砲と大筒を据えて対岸を更地にするのが
「佐伯家」の戦い方だろう。しかし、利繁は引かなかった。
「今、ここで背を見せれば、我らは一生『道具を頼んだ弱兵』のままだ!
俺たちが背負っているのは、交易で富んだ大名の力ではない! 対馬の男としての『誇り』である!」
利繁は馬を強引に前へ進めた。
「貴明! 隠れていないで出てこい! この利繁が、貴様の喉元を食い破りに来たぞ!」
その叫びに、対岸の霧が割れた。
紅蓮の甲冑を纏い、十文字槍を構えた一団の騎馬武者が、土手を駆け下りてきた。
「小僧が、吠えおるわ!」
先頭を駆けるのは、返り血のような赤い鎧を纏った男――後藤貴明その人であった。
「三〇〇〇の兵で、五〇〇〇を食い止める。それが後藤の戦だ!
佐伯家の弱兵にこのような戦いができようか」
貴明はそのまま馬を川へと乗り入れ、利繁に向かって一直線に突き進んでくる。
「来たか、貴明!」
利繁は凍える指で太刀を握り直した。
肩は既に寒さと緊張で感覚がなくなっている。だが、脳髄だけは沸騰するように熱い。
川の中央。
激しく流れる水流の中で、漆黒の佐伯と紅蓮の後藤が、真っ向から衝突した。
馬同士がぶつかり合い、巨大な飛沫が上がる。
「死ねぇ!」
貴明の十文字槍が、利繁の喉元を目掛けて閃電のごとく突き出された。
利繁は極限の反応で身を捻り、それをかわすと同時に、太刀を貴明の兜の横へ叩き付けた。
カガァン! という耳を劈く音が、戦場全体に響き渡った。
「……面白い! だが、貴様の首、この川の肥やしにしてくれる!」
貴明が歯を剥き出しにして笑う。
利繁もまた、鮮血に染まる唇を歪めて笑い返した。
水中での一騎打ち。
その背後では、数千の兵たちが絶叫を上げ、冷たい水の壁を力ずくで押し広げながら、対岸の土を掴もうと必死にもがいていた。
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武雄川の中央、腰まで冷水に浸かった両軍の衝突は、もはや泥試合へと変貌していた。
佐伯利繁と後藤貴明。
漆黒の具足と紅蓮の甲冑。
二人の大将が川のど真ん中で刃を交えるその周囲では、数千の兵たちが絶叫を上げ、飛沫を散らし、命のやり取りを続けている。
「若造! 銭で買い集めた鎧が、冷水で凍り付いて動けまい!」
貴明が吠える。
彼の振るう十文字槍は、水圧など存在しないかのように鋭く、利繁の喉元を幾度も掠める。
貴明は知っていた。この二月の水に浸かり続ければ、いかに屈強な男でも体温を奪われる。
指先から感覚が失われ、やがて心臓が止まる。
彼は理解しつつ、その極限状態での戦いを止めようとはしなかった。
「黙れ! 凍り付いているのは貴様の頭であろう!」
利繁は馬の腹を強く蹴り、強引に距離を詰めた。
利繁の太刀が、貴明の槍の柄を滑り落ちるように斬り下げる。火花が散り、水面に落ちて一瞬で消える。
利繁の体は既に限界に近い。右肩は重く、呼吸をするたびに肺が凍りつくような錯覚に陥る。
だが、その瞳には狂気じみた「熱」が宿っていた。
「見ろ、貴明! 我が兵の姿を!」
貴明が視線を巡らせる。
そこには、三〇〇〇の後藤軍に押し戻されながらも、執念で対岸の土を掴もうとする佐伯の兵たちがいた。
彼らはかつての「戦に使役される農民」ではない。
利興によって衣食住を保証され、最新の武具を与えられ
そして今、利繁という男の背中を見て「武士」としての自覚に目覚めた戦闘集団である。
「一人倒せば、また一人!
我らには辺境の島を富ませた過去が、そして貴様らにはない明日への試みがある!」
利繁の咆哮と共に、佐伯軍の第二陣が川へ雪崩れ込んだ。
数千の兵が一度に水を分かつ音は、武雄の山々にこだまし、後藤軍の兵たちの心に微かな恐怖を植え付ける。
「数に頼るか、商人もどきが!」
貴明は忌々しげに吐き捨てると、槍を大きく振り回し、利繁の馬の足を払おうとした。
「させるか!」
利繁は馬を跳ねさせ、水しぶきを盾にするようにして貴明の懐へ飛び込む。
太刀と槍の柄が激しくぶつかり合い、金属の擦れる嫌な音が響く。
至近距離。二人の息遣いが、白く激しく混じり合う。
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その時、岸辺で異変が起きた。
「……上流だ! 上流から敵が回ってきたぞ!」
後藤軍の右翼から、悲鳴に近い叫びが上がった。
利繁が放っていた上流三里に割いた陽動部隊。
そのうちの五〇〇が、実は陽動ではなく「本物の奇襲部隊」として、深い霧に紛れて隠密に渡河を完了させていたのだ。
彼らは後藤軍の注意が正面の利繁と、派手な火を焚いた偽の陽動に逸れている隙に岸を駆け抜け、後藤軍の側面を完全な形で捉えた。
「挟み撃ちだ! 一気に押し上げろ!」
利繁がその好機を見逃すはずがない。
「全軍、突撃! 岸を奪え!」
佐伯軍の五〇〇〇が、一斉に咆哮を上げた。
水に浸かった足取りが、勝利への確信によって軽くなる。
後藤軍の兵たちは、正面からの圧倒的な物量と、側面からの予期せぬ強襲に、その陣形を乱し始めた。
「……おのれ、小童!」
貴明は歯噛みした。
彼は目の前の利繁という人間に気を取られすぎた。
佐伯軍は大将の勇姿の陰で、着実に自分を包囲していたことに気づくのが遅れたのだ。
「貴明、勝負ありだ!」
利繁の太刀が、貴明の兜の吹き返しを跳ね飛ばした。
貴明の額から一筋の血が流れ、泥水に混じる。
「笑わせるな! 後藤の男は、背中を見せて死ぬようには育てられておらん!」
貴明は血を拭いもせず、再び槍を構えた。
だが、その背後の塚崎城へと続く道は、既に佐伯の別動隊によって封鎖されつつあった。
岸辺は今や、完全な乱戦の場と化していた。
水から上がった佐伯の兵たちは、凍える体に鞭を打ち、狂ったように長槍を突き出す。
後藤の兵たちもまた、地の利を活かして頑強に抵抗するが
一人を討てば三人が現れる佐伯軍との数的不利の前に、じりじりと後退を余儀なくされる。
「押せ! 押せぇ! 敵を城門まで追い詰めろ!」
山本康範が、血塗れの旗を掲げて叫ぶ。
川面を埋め尽くしていた黒い具足が、今や対岸の土手を黒く塗りつぶしていく。
「貴明殿、潔く降れ! 其方の首を取っても、肥前は面白くならん!」
利繁は馬を寄せ、貴明の槍を太刀で押さえつけた。
「……ふん。面白いかどうかは、俺が決めることだ」
貴明は不敵に笑ったが、その瞳には軍略上の敗北を認める冷静さが戻っていた。
「利繁と言ったか。……其方のまっすぐな戦ぶり嫌いではない。だが、城はまだ落ちておらんぞ!」
貴明は強引に槍を引き抜くと、馬を翻した。
「全軍、城へ引け! 籠城戦だ!
奴らに後藤の意地を見せてやる!」
後藤軍の残兵が、貴明を中心に円陣を組みながら、整然と撤退を開始した。
崩れながらも、その退き際は見事であった。
佐伯軍の兵たちが追い縋ろうとするが、利繁がそれを手で制した。
「深追いは無用だ。……我らは、この極寒の川を越えた。まずは休息を取れ」
利繁は馬を降り、自身の右肩を確かめた。
防具は粉砕され、肉が裂けている。だが、痛みよりも、心地よい疲労感が全身を包んでいた。
周囲を見渡せば、泥まみれになりながらも高揚感に塗れた顔をした兵たちが、互いの無事を確認し合っている。
武雄川の岸辺。
二月の風は相変わらず冷たいが
そこには確かに、利興が求めた「結果」と、利繁が求めた「誇り」が、血と泥にまみれて転がっていた。
身に余る反響をいただき嬉しい反面、重圧もありますが
少しでも楽しんでいただけるよう更新してまいります。
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