第七話 ルビコンの男
その少し前。
エジプトから遠く離れた西の地で、もう一つの戦いが始まろうとしていた。
紀元前四十九年一月。
ローマ。
地中海を支配する巨大な国。
その国を、内側から裂こうとしている男がいた。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
五十歳。
若者ではない。
だが、老いた男でもない。
戦場の土を知り、兵の飢えを知り、人の心がどこで折れるのかを知っている男だった。
その名を、ローマの民は知っていた。
その名を、兵たちは誇りにしていた。
そしてその名を、元老院は恐れていた。
◇
ガリア。
今のフランスを中心に広がる、森と川と部族の地。
そこを、カエサルは八年かけて征服した。
雪の山道を越えた。
深い森を抜けた。
大河に橋を架けた。
ゲルマン人を退けた。
ブリテンの海を渡った。
そして、ガリアの英雄ウェルキンゲトリクスを屈服させた。
その戦で、カエサルは三つのものを得た。
金。
兵。
名声。
戦利品は、彼の借金を消した。
長く戦った兵たちは、ローマではなく、カエサルという男に従うようになった。
そして民は、彼を英雄と呼んだ。
ガリアを征服した男。
ローマの外に広がる世界を、ローマのものにした男。
その名声は、あまりにも大きくなりすぎた。
大きすぎる光は、影を生む。
元老院の者たちは、彼を英雄としてではなく、危険な男として見始めていた。
◇
ローマには、もう一人の巨人がいた。
グナエウス・ポンペイウス。
かつてはカエサルと手を組んだ男。
地中海の海賊を討ち、東方を平定し、ローマの正統を背負った大将軍。
民も、兵も、元老院も、その名を知っていた。
かつて二人は並んでいた。
だが、並び立つ巨人は、やがて互いを押し合う。
カエサルはガリアで力を増した。
ポンペイウスはローマで元老院に近づいた。
二人の間にあった絆は、少しずつ政治の刃に変わっていった。
やがて元老院は命じた。
カエサルよ。
軍を解け。
総督の任を終えよ。
一人の市民として、ローマへ戻れ。
それは正しい命令に見えた。
だが、カエサルには分かっていた。
軍を解いて戻れば、彼はただの市民ではない。
政敵に囲まれた被告人になる。
裁判。
失脚。
追放。
あるいは死。
ガリアを征服した男は、ローマへ戻った瞬間、ローマに裁かれる男になる。
カエサルには、道が二つしかなかった。
軍を捨てて戻るか。
軍を連れて進むか。
前者を選べば、彼の政治生命は終わる。
後者を選べば、彼は反逆者になる。
どちらも破滅だった。
ならば、破滅の形を選ぶしかない。
◇
冬の夜。
カエサルは、川の前に立っていた。
ルビコン。
細い川だった。
大河ではない。
渡ろうと思えば、すぐに渡れる。
だが、その細い流れは、ただの川ではなかった。
こちら側は、彼が軍を持つことを許された地。
向こう側は、イタリア。
ローマの本土。
軍を率いて渡れば、法を破る。
軍を率いて渡れば、元老院に刃を向ける。
軍を率いて渡れば、もう戻れない。
背後には、第十三軍団の兵たちがいた。
ガリアの戦場を共に越えた者たち。
飢えを知り、寒さを知り、死んだ仲間の名を覚えている者たち。
彼らは待っていた。
カエサルが何を選ぶのかを。
カエサルは川を見た。
水は浅い。
音も小さい。
けれど、その向こうにはローマがある。
かつて夢見た都。
支配したい都。
そして今、自分を裁こうとしている都。
一人の兵が、息を殺している。
別の兵が、手綱を握りしめている。
誰も声を出さない。
この夜の意味を、誰もが分かっていた。
カエサルは振り返った。
兵たちを見る。
彼らの顔には、恐れがあった。
だが、逃げる顔ではなかった。
カエサルは、低く言った。
「賽は投げられた」
そして、馬を進めた。
蹄が水を打つ。
浅い川の水が跳ねる。
一歩。
また一歩。
カエサルは、ルビコンを越えた。
それは、小さな川を渡るだけの動きだった。
だが、その一歩で、ローマは裂けた。
もう、カエサルは引き返せない。
もう、ポンペイウスも引き返せない。
もう、元老院も引き返せない。
ローマの内戦が始まった。
そしてその戦は、やがて地中海を越える。
エジプトへ。
ナイルへ。
王宮を失った女王と、姉の想いを抱えた少年の王のもとへ。




